序章弐 拳侍
「そいつは俺に向かって言ったのか?オイ?」
少し薄暗くなった表通り。繁華街の喧騒の中で、数人の男達が睨み合っていた。
「あぁ?」「なんだぁ?」
片方は学生らしい出で立ち。もう片方は若いチンピラ達だった。人数は一対三。誰が見ても、明らかに険悪な雰囲気だ。
「俺に言ったのかって聞いてんだよ!」
学生の方がもう一度言う。負けん気の強い目と、がっしりとした体格が特徴的な少年だった。その学生は高校生ぐらいで、短めの髪を立て、はだけた学ランの前からはTシャツが覗いている。そして両方の拳には、何故かバンテージを巻いていた。
「だったらどうしたよ。やんのかよ!?」
「三人相手に勝てると思ってんのか!?」
チンピラ達は、口々にそう言って凄む。どう見ても、自分達の方が優勢だと思っているようだ。完全に相手をなめたように、無防備のまま近づいていく。
どうやら相手は学生一人。もう少し凄んで見せれば、びびって逃げるに違いないと思っているようだった。
「言っとくが、俺は負けんのが大っ嫌いだからな」
そんなチンピラ達に一歩も引かず、学生は詰め寄る。その鋭い目つきは、獲物を捉えたまま動かなかった。そしてただ、拳を堅く握る。
(三対一か……)
拳侍の脳裏を、一抹の不安がよぎる。
しかしそんな考えはすぐに、この喧嘩に勝つ方法へと切り替わった。目まぐるしく、彼の頭の中を周辺の地形、人込み具合、使えそうな道具などが浮かんでくる。……こういった状況は初めてではない。
岩浪拳侍。それが彼の名前だった。彼の尊敬する祖父に付けてもらったこの名前を、汚すわけにはいかない。この勝負、決して負けるわけにはいかないのだ。拳侍はそう考えていた。
きっと彼の友人に、彼はどういう性格かと聞いたら、必ずこう答えるだろう。『馬鹿がつくほどの負けず嫌い』と。現在の状況においてさえ、彼は真剣に勝つことを考えていた。
「だからなんだってんだよこのガキ。いい加減にしねぇとマジでやっちまうぞゴルァ?」
怖さを通り越して、既に面白い部類に入りそうな表情をしながら、チンピラのマサ(仮)は拳侍に詰め寄ってきた。
二人の間の距離は、およそ10cmほどだ。……何故チンピラ達は、必要以上に接近してくるのだろうか。そんなどうでもいい考えを振り払い、拳侍は呼吸を整える。シュッと小さく息を吸った後、行動を開始した。
「あがっ!」
マサ(仮)の顔が、大きく仰け反る。ノーモーションの拳侍のアッパーが顎を直撃したのだ。同時に、右足を相手の向こう脛に打ち込む。
「イデッ!」
相手が崩れ落ちるのを待たずして、拳侍は走り出した。もちろん後ろにだ。まだ時間が若干早いせいか、通りの人影はまばらだった。走るのにあまり苦にはならない。
チンピラたちはしばし呆気にとられていたが、すぐに我に返ると、自分達の面子に賭けて拳侍を逃がすまいと追撃を開始した。
「てめぇこのっ!」
しかしチンピラ三人組のうち、マサ(仮)だけはすぐに置き去りにされてしまう。よく見ると、ひょこひょこと左足を引きずっていた。……どうやらさっきの蹴りが効いているらしい。弁慶ですら耐えられないのに、そこらのチンピラが耐えられるはずも無いだろう。もちろん、それを見越しての拳侍の作戦だった。
「あ、兄貴っ!」
それを見た他の二人は仇を取ろうと、より血眼になって追いかけてくる。それを背中で感じながら、拳侍は頃合いを計って路地を曲がった。繁華街とはいえ、大通りを曲がってしまえば、もう薄暗い路地だ。
「おい待てっ!」
当然、チンピラたちはそれを追いかけて曲がった。何も考えていない。……何も考えていないので、吹っ飛んだ。
「どぁっ!」
拳侍は曲がり角で待ち伏せしていたのだ。そして相手が曲がってくるタイミングを計って最初の男の足を払った。前のめりに倒れこんだ相手に追い討ちをかけるように、体重を乗せた蹴りを、その背中に向けて振り下ろした。……チンピラのジョージ(仮)は悶絶した。
道路を転がりながら痛みをこらえ、げえぇぇっと胃液を吐いている。通り掛かりの人達は、それを横目で見ながらも、出来るだけ関わらないようにしようと、足早に過ぎ去っていった。
「兄貴ぃっ!」
一人取り残されて最後に到着したチンピラ、ノリ(仮)は兄貴の容態を気にしつつも、バンテージを巻いた学生に注意を払った。しかし、もう不意打ちはどこからも来る事は無く、当の学生は路地の少し奥でじっと佇んでいた。その向こうは壁だ。
ノリは、もう卑怯な手は無いはずだと思いながらも、じりじりと拳侍に近づいていった。立て続けに二人も兄貴分がやられたのだ。これで何もやり返さなかったら自分の面子に関わる。それ以上に、後で兄貴達に何をされるか判らなかった。様々な感情が入り混じりながらも、確実に怒りが沸いてきて、散々痛めつけてやらなければ気が済まないほど、彼の腹わたは煮えくり返っていた。
「もう逃げ場は無いぞ、くそガキ」
「……」
拳侍はただ黙っている。それを恐怖と見たのか、ノリはやや余裕を持って構える。……普通に考えれば、こんな学生に自分が負けるわけがないのだ。
「どうした?もう何の策も無いのか?」
「……」
馬鹿にするように言った言葉に、やはり拳侍の反応はない。その沈黙が不気味で、ノリは近づくタイミングを失っていた。額に汗が浮かぶ。兄貴が来るまで待とうか、という考えが浮かびかけた時、相手は口を開いた。
「かかってこないのか?」
その余裕に満ちた台詞にとうとうノリの堪忍袋は耐えきれず、咆哮と共に拳侍へと襲い掛かった。顔面目掛けて右拳が走る――っ!が、次の瞬間、顔面に拳がめり込んでいたのは、彼の方だった。……一瞬何が起きたのか判らない。数秒遅れてついて来た記憶で、自分の拳が相手の左手によって受け流され、逆にカウンターを食らったと言う事が判った。
(空手……?)
崩れ落ちる前に、それだけが思い浮かんだ。そしてすぐに彼の意識は途絶える。這いつくばった二人のチンピラに目もくれず、拳侍は路地裏を出て行った。
拳侍はゆっくりさっきの場所まで歩いて戻った。すると、最初に殴られたチンピラのマサが、携帯電話で一生懸命子分たちに連絡をとろうとしている所だった。
何気ない足取りで拳侍が近づいていくと、彼はギョッとしてこっちを向いた。明らかに何の傷も受けていない拳侍を見て、彼の怯えの表情が簡単に見て取れる。
待てよ、ただ逃げ切ってきただけかも……。でも、さっきから電話が繋がらないのは……?そんな考えがぐるぐると、マサの頭を巡る。しかしそこはさすがチンピラ。表情ほど簡単に怯えを見せないのは彼らの専売特許だった。
拳侍が目の前まで来ると、マサはうめくように言う。
「て、てめぇ卑怯だぞ……」
「何言ってんだ、三対一だぞ。どっちが卑怯だよ」
悪びれないその言葉を聞いて、マサの脳裏に一瞬ある記憶が甦った。
「ま、……まさかお前が、バンテージ学生……!?」
「うっせえな、その名前で呼ぶんじゃねぇよ」
『バンテージ学生』……、チンピラ仲間で噂されている通称だった。
関わったら最後、どんな手を使っても勝てない。勝利への執着は警察よりも性質が悪い。関わらない方が身の為だという話だ。しかも、その背後にはとんでもない権力が潜んでいると言う……。
そう言えば、いつも学ランにTシャツを着ていると言う話を聞いた事がある。まさか本当に存在するとは……。都市伝説じゃなかったのか……。
マサ(仮)は、急に焦り始めた。……な、何とかこの場を切り抜けなくては……。
「わ、悪かった。まさかお前がそうだって知ってたらこんなことしなかったよ!」
「もうおせぇよ」
拳侍は冷たくそれだけ言うと、拳を堅く握る。しかしその瞬間、言いようの無い違和感が彼を襲った。まるで全身から重力が消えてしまったような、しかしその代わりに体の中心に向かって落ちていくような感覚。
目の前の男が、徐々に霞んでいく。いや、男だけでなく周囲全てのものが霞んでいた。
(やばいか……)
微かにそんな事を考える。薄れていく意識の中で、彼の右手の中指の辺りだけが光っているのが見えた。そこには、彼が祖父から貰った指輪をはめていた。
彼は目の前も頭の中も完全に靄がかかってしまうその最後まで、この喧嘩に勝てるかどうか、そんな事を考えていたのだった……。
程なくして、彼は目を覚ます。……体に微かな衝撃があったのだ。
目を覚ました彼を、何だか見覚えのあるような三人の人物たちが見下ろしていた。
「オイ、こんなとこで寝てるんじゃねぇよ、たわけが」
遠慮なく、倒れている彼の体に蹴りが放たれる。それを受けて、彼の中でまた何かが湧き上がってくるのを感じた。熱い、燃えるような何かだ。
彼はゆっくりと身を起こそうとする。何だか体がふらついていたり、全く変わってしまった周囲の状況がいまいち判らなかったが、それでももちろん彼はこう返した。
「オイ、そいつは俺に向かって言ったのか?」




