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新古事記  作者: 安楽樹
序章
1/11

序章壱 零と沙波

「せぃっ、せぃっ!」


道場の窓から、威勢のいい掛け声が響く。その古い道場の中では、一人の少年が一心不乱に素振りをしていた。少年はまだ若い。……おそらく十七、八歳だろう。

百七十センチほどの身長にほっそりした体型。身に付けた剣道着が良く似合っていた。黒い髪は少し長めで、前髪がもう少しで目に掛かりそうかというぐらいだ。しかしまだその下から覗く眼差しは、この年頃にしては似つかわしくないほど強い光を放っていた。


差し込む朝日が刀身に反射して、天井を照らす。

……見た所、道場はかなり古い。しかし、今にも朽ちそうな古ぼけた建物ではなく、どことなく気品を感じさせるような古めかしく奥ゆかしい建築物だった。

窓から照らす朝日が少年の横顔を映し出す。

床にもその光は反射して、早朝の心地よい爽やかさをより一層増していた。その何十畳もありそうな広さの床には、誇り一つ積もってはいない。それは、素振りの前に少年が全て雑巾がけをしていたからだ。

起き抜けの道場の掃除と素振り。……それがいつもの彼の一日の始まりだった。


質素で清潔な道着を身に纏い、既に数十回は続いている運動の疲れも感じさせず、彼はただ素振りを繰り返す。額から伝う汗が顎の先から一雫、また一雫、綺麗に磨かれた道場の床へと落下した。まるで彼以外、全て時が止まったような、そんな静寂の世界。

……そこにたった一つ、静寂を破る足音が近づいて来る。


道場の東側、差し込む朝日の中心にある横開きの扉が開いて、人影が入ってきた。閉められた扉によって逆光が遮断された時、そのシルエットが明らかになる。……そこには一人の少女がいた。


「……またそれで素振りしてるの?れい


ゆっくりと少年に近づきながら、少女はそう呼びかける。少年は彼女に気付いているのかいないのか、まったくそちらの方を見ずに素振りを続けていた。そんな彼に少女もそれ以上は話し掛けず、少し離れた場所に座って、素振りを続ける彼をじっと見守っている。

その眼差しには、存在を無視された苛立ちも込められておらず、とても暖かく穏やかな光に満ちていた。


「九十九、……百!」


刀を振り下ろした姿勢のまま、最後にそう呟くと少年は動きを止めた。大きく息を吐いた後、足元に置いてあった鞘を持ち上げ、刀をしまった。

少年の持っていた日本刀は、まだ暖かさもあまり含まれていない朝の光に反射して輝いていた。それは一般的な日本刀よりも少し長い。普通の物は五十~六十センチぐらいだが、この刀は九十センチほどもある。もちろんそれに応じた重さもあり、素振りの訓練には最適だった。


「相変わらずね」

再びそう話し掛けた少女に、少年は少し驚いて振り向いた。

その先に立っていた少年と同じ年ぐらいの制服を着た少女は、道場の入り口のすぐ横で鞄を抱えたまま少年の様子を見ていた。

身長は少年よりも十数センチほど低いだろうか。背中まで伸びた艶のある黒髪が、道場に吹き込む風になびいて揺れる。それを見た少年は何故か唐突に、もう春が近くまで来ていると感じるのだった。


「……沙波さなみ、来てたのか」


そこで初めて少年は、沙波と呼んだ少女の存在に気付いたらしい。そのまま汗を拭きながら彼女の横まで来ると、床にばたっと横になった。

「あ~、疲れた~」

先ほど素振りをしていた時の真剣な表情とは打って変わり、少年の仕草は非常にくだけたものになった。それだけで、二人は親密な関係だという事が判る。ただ、その微妙な距離から、まだ想い合っている仲、というわけではないようだった。


「また真剣なんか持ち出して。お爺さんに怒られるわよ?」

沙波はそう言って、零と呼んだ少年が手に持っている刀を見る。確かにその手には、大きな刀が握られていた。……その大きさはかなりの物であり、片手ではまず持ち上げられないような長さと重さだった。今は鞘に包まれているが、その鞘だけをとったとしても、深みのある、渋い深緑にも藍色にも見える色の光沢が表面を彩り、多少なりとも詳しい人間であれば、さぞ名のある業物であると判っただろう。

そんな業物を床に無造作にごろりと転がし、零はそのままゴロゴロと床を転がった。そして今度はうつ伏せで止まる。

「大丈夫だって、爺さんもう諦めてるから」

悪びれもせずそういう零に、沙波は肩をすくめて見せた。確かに家の道場なのだから銃刀法違反にはならないのだろうが、それにしてもこの少年は、どこか常識が欠けている。沙波は以前から、そんな感想を抱いていた。


「お前こそ、今日の稽古はどうしたんだよ」

「へへ、今日はお休み」

沙波は照れくさそうに言うと、零から目を逸らした。……やましい事があるに違いない、と零は直感していた。沙波を見る目が細くなる。

「……どうせ自主的にだろ」

ははは……、と沙波は頭をかいた。この二人はいつも登校前に自宅で稽古をするのだ。それから沙波が零を迎えに来る、というのがいつもの日課だった。


「それより、早く行かないと学校に遅れるよ」

話を誤魔化すように、沙波は言った。確かに、もうすぐ登校時間だ。

「先に行けよ」

そんな沙波に零は冷たく言い放つ。彼にとって、ちょうど今は稽古の後の心地よい休憩時間だった。それに、稽古をサボった沙波に対して少し意地悪な気持ちもある。


「ひどーい。私が登校中に変質者にでも会ったらどうするのよ」

口元に握り拳を当てながら、沙波はそう言っておどけて見せる。零は寝転んだ姿勢のまま顔だけをそちらに向けた。少女に向かって、白い視線が飛ぶ。

「お前は俺が守らなくても大丈夫だろ」

実際にそうだった。零は剣道をやってはいるが、素手だったら沙波に勝てる見込みはない。彼女の家は合気道を教えており、しかも彼女自身に至っては三段なのだ。だから特に深い考えがあったわけでなく零はそう言ったのだが、彼の予想に反して、当然予想していた彼女からの文句は返って来なかった。

「……」

いつもなら、「よくそんなひどい事言えるわね!」と威勢良く怒声が返ってきたり、それが逆鱗に触れて固め技の一つや二つかけられる事もあるのだが、今回はどちらでもなく、彼女はただ黙ったまま俯いていた。

そしてそのまま道場を出て行こうとする。


「お、おいどうしたんだよ!?」


いつもと違うその様子に、零は慌てて飛び起きる。その拍子に、足に当たった刀がガタンと音を立てて転がった。そして、少しだけ刀身が覗く。

「……くれるって、言ったのに……」

沙波が小さく呟いた。しかしその声は、零には聞こえていなかった。


「おい、沙波。どうしたんだよ」

零は道場の入り口で止まっている沙波の肩を掴んで、こちらに振り向かせる。その勢いで、沙波が制服にしまっていた首飾りが服の外に零れた。シンプルな紐に、透き通った勾玉が付いている。それは、彼女の家に代々伝わる家宝だった。水晶でできているその勾玉は、透明な光で溢れていて、丁度朝日の光を吸収し、まるでそれ自体が発光しているかのような眩しさを与えていた。

振り向いた沙波の目には、うっすらと涙が滲んでいる。零はそんな彼女を見て、妙な焦りを覚えるのが判った。慌てて、それほどの事をしただろうかと自分の言動を省みてみたが、よく判らなかった。

「何でお前……」

零がそう言いかけた時、突然大きな違和感が二人を襲った。


『!?』

「……なんだ?」

「何……?」


その違和感は喩えようの無いものであったが、敢えて近い表現をするのならば、それは『引っ張られる』と言う感じだった。ただしそれは、体の中心もしくは、体の外全てへ向かっているような、現実では有り得ないような方向へ向かう引力だった。しかし彼らは、ある種の引力を確かに感じていた。

引力と共に、耐えられないほどの吐き気が襲ってきて、立っていられなくなる。零はこの違和感を憶えているのは自分だけかとも思ったが、沙波を見ると彼女もやはり同じ感覚を憶えているようで、体がふらついていた。そして、そのままこちらに体を預けてくる。


「沙波……」

しっかりしろ、と言いたかったがうまく言葉が出ない。掠れたような声で、彼は自分に寄り掛かっている少女の名を呼んだ。……心なしか、彼女の首から下げている勾玉が明滅しているような気がする。

「零……」

零の声に彼女も答えた。目の端に、彼がさっきまで素振りをしていた刀が映る。少しだけ覗いた刀身が、彼女には何だか発光しているように見えた。


『……再び歴史は動乱の時を迎える……若き龍よ、我が呼び声に応えよ……』


どこからか、そんな声が聞こえる。彼は、これは幻聴だと思った。なぜなら、その声は彼がいつも使っているあの刀から聞こえたような気がしたからだ。


「誰だ……」

辛うじて、それだけの声が出せた。……しかし、それに答える声は無かった。どんどん体は自分の物で無くなっていく。高熱にでも浮かされているような気分だった。外はまだ早朝だと言うのに、辺りが暗くなっていく。もはや太陽の光も、道場の床も天井も見えない。急速に闇に侵食されていく中、たった二つだけ光っている物が見えた。……それは、あの刀と勾玉だけだったのだが、もう殆ど意識を失っている二人には、その事はもはや判らなかった。


心も体も真っ暗な闇の中に沈んでいく中で、零の脳裏には、何故か小さい頃の記憶が甦ってきていた。

公園にいる、幼い女の子と男の子。

女の子は泣きじゃくり、男の子が一生懸命それをなだめている。

(……そうか、沙波はいじめられっ子だったな。昔はそれでよく泣いてたっけ。)

そんな記憶が思い出される。


「うえぇ~……」

「もう泣くなよ」

「だって……」


女の子は両手でゴシゴシ目をこすっている。涙が次から次へと溢れて止まらなかった。

男の子の目が、真っ直ぐ女の子の瞳を見る。

「俺が絶対――から!」

何と言ったのか、意識が薄れてよく思い出せない。

「ほんと?」

女の子の涙は止まる。

「うん、絶対」

「約束だよ?」

「ああ、――だ」


そして彼の意識は遠くなっていく。


……次に二人の目に映ったのは、地獄だった。


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