52.「対戦ありがとうございました」(完)
――スーツ以外の服を着て外に出たのは、一体いつぶりのことだろうか。
若かった頃、俺は流行りの服や小物といったものにとにかく敏感で、今となっては何を以てそう呼んでいたのかも分からないような、“普通”という基準に合わせることがすべてだと思っていた。
駅のトイレの鏡に映った今の自分は、前を留めた真っ白なオックスフォードシャツに濃紺のデニムで身を包んでいる。
そして、右手首にメタルバンドの腕時計をはめて、ターンロックのついた手提げのレザーバッグを手にするだけの、ごくごくシンプルな出で立ちに落ち着いていた。
改札を出ると、いつの間にか外装がリニューアルしていたキオスクが目に入った。
『100m自由形銀メダリスト 海風叶 引退』
――ドリンクケースの前に懸架されたスポーツ新聞には、大きくそう書かれていた。
しばらく駅前繫華街を歩いていると、懐かしいカフェが目に入った。
かつて都会的でおしゃれなスポットだと思い、彼女との食事の場に選んだこのお店。
今では外観が程よく経年劣化して、とうとうこの街に馴染んだなという印象だった。
店員さんに案内されると、以前と変わらないような客層が、落ち着いた店内で寛いでいる様子が散見された。
座席に置かれたいくつかの古いグランドメニュー表の前で、唯一更新されてなまじ綺麗になったタブレットだけが浮いていて、少しおかしな気持ちになった。
タブレットをツンと叩き、ドリンクのコーナーを眺めていると、スマホが一瞬だけ震えた。
“もう着いたのかな”と思ったが、違った。
『届を提出するの、明日だっけ? 13:12』
メッセージの差出人は西垣だった。
『そう、今日は証人欄のハンコ集め 13:13』
『さよか。役場に提出するときって驚くほど事務的だから、まぁそう緊張するなよな笑 13:15』
『お、先輩マウントかこのヤロー 13:16』
『画面の前で今、めっちゃ前髪ファッサーってしてるわ笑 13:18』
まるで成長していないあの男の文化レベルに安堵を覚えながら、『ありがとう、肝に銘じとくわ』とだけ返し、俺は視線をタブレットに戻した。
アイスコーヒーのガムシロありを選択し、注文確定ボタンを押そうとしたとき。
「――まだハムチーズトーストってある!?」
意識の外から“ハツラツとした声”が、突如として耳に飛び込んだ。
声がした方を見上げると、オフホワイトのジャケットとベージュのワンピースを着込んだ、清楚な身なりの女性が立っていた。
アスリートのスタイルはしっかり残しつつも、長い屋内練習によって白くなった肌に乗った大人びたメイクと、デコルテにかかるパールのネックレスによって、まるで別人のような印象を醸し出している。
「……お昼ご飯は?」
「もう食べた!」
「そうか、じゃあこれで足りそうだな」
「あ、でもホットココアのセットで!」
――しかし、そんな雰囲気すらも一気に台無してしまう叶の元気な一面は、今も健在だった。
「よいしょっと……」
「おつかれさま。トレーナーの仕事は、いつから?」
「来月からだよ。だから、時間はまだ十分あるんだ」
「そっか、それは安心。俺もなんとかまとまった休み取れたから、一気に引っ越しやってしまわないとだな」
「ねー」
そんな、ごく他愛もない会話を口にしながらも、俺はバッグから一枚の紙を取り出し、叶の手元へと差し出した。
「……俺が書くところはもう書いたから、残りは叶に書いてほしい」
「おっけー。んじゃ、私からはこれを……」
そして、それと引き換えに――叶も自身のバッグから、ある一枚の小さな紙を取り出した。
それはかつて、彼女に渡した“蒼天神魔龍オーシャン・ウインド・ドラゴン”だった。
「ありがとうね。この子のおかげで私……キミが居ない間も、すごく元気をもらえたんだ」
「そっか、それは……最高だ。これで思い残すことなく――」
――俺のカードは、役目を終えることができる。
『まずはお互い、自分の好きなことを全力でしよう。それができたら……一緒になろう』
『……はい』
あの夜、キスと共に交わした約束を果たすときが――まさしく今だ。
バッグから取り出した缶の蓋を開けると、中には山積みになったカードが入っていた。
その一番上に置かれていた“殲滅漆黒神魔龍アブソリュート・シュナイダー・ドラゴン”をしばらく見つめてから、俺は預かったカードを上に重ねた。
やがて記入を終えた叶が、“婚姻届”を缶の横に並べる。
そして、俺は缶にそっと蓋をする。
蓋には、マジックペンでこう書いた。
『飽きるまで遊び尽くされた最高のカードゲーム “エターナルデモンズ”』
◆
「あー、なんか緊張するよぉ……」
「いつもどーり、いつもどーり……銀メダリストでしょー」
エタデモを手放したことで、手の平に“人”の字を書くほかなくなった叶を宥めながら、俺の実家に向かうために駅を離れ、車が行き交う国道の歩道を二人で歩く。
「むぅ……本当は金メダリストになるつもりだったんだもん……」
「あははっ、分かってる。でも、ちゃんと凄いことやってのけてるんだよ、叶は」
「……えへへ」
年甲斐もなくムクれたかと思えば、褒めると今度は照れ始める叶。
ちょうど改装工事真っ只中の元バイト先を尻目に、俺たちがショートカットの畑道へと差し掛かったそのとき。
スマホが、ヴーッと鈍く、長く震えた。
俺が深くため息をつくと、叶は心底不思議そうな顔で『営業部 佐藤くん』と表示されたスマホの画面を見ていた。
「会社の後輩だよ。今日は大事な日って言ってあるのに……」
「まぁまぁ、出てあげなよ」
……叶にそう促されては仕方がない。
俺は断腸の想いで、佐藤くんの電話に出ることにした。
「もしもし、どうしたの」
『あ、主任! すみません……今日お休みだったのに。でも、どうしても不安なことがあって……』
電話の向こうで、今にも泣き出しそうな声で話すこの男の名は佐藤。
俺が勤めている零細ボードゲームメーカー『厳東社』営業部の部下だ。
「……一応聞こうか」
『はい! 実は今日だけでも、すでにいくつかの大型玩具販売店を回らせてもらったんですが、“アレ”がてんで取り合ってもらえなくて……』
……やっぱり、またこれか。
佐藤くんが口にする“不安”は、決して今にはじまったものではない。
「アレって……あれか。君が企画した“108の煩悩カードに書いてある赤裸々な秘密を10.8秒以内に言わないとサメに食われる”っていう……」
隣で俺の言ったことを聞いていた叶は、ぽかんとした顔のままフリーズしている。
無理もない。
『そうです、“除夜のジョーズ”ですっ。でも……本当はアレ、別に僕も本気で企画を通そうとしたわけじゃないんですよ! ただ、僕が学生時代に内々でやってた遊びを冗談半分で社長の前で話したら、何故かウケちゃって……いつの間にかトントン拍子に、こんなことになっちゃって』
「ふふっ、責任重大だな……」
『いやいや、笑いごとじゃないですよ! 僕のこんなしょうもないゲームにリソースつぎ込んで、会社傾いたら皆に末代まで呪われますよ! あーもう、こんなの絶対売らなきゃなのに……』
文字に起こすとアホの極みのような状況だが、本人の声はあまりにも痛切だ。
そんな、典型的な営業の負のスパイラルに陥っている彼にかける言葉は……まぁこうだな。
「まー落ち着きなよ。まずキミに社運を賭けられるほどの責任はないって……企画を通した責任は社長にあるんだから」
『そ、それはそうかもですが、でも……』
「その上で、考え方を変えよう。キミはこのゲーム、スイッチング3みたいな人気ゲーム機と同じ棚に並べてもらえると思う?」
『え、無理っす』
「即答じゃん……だけどまぁ、その通りなんだよ。だから、大きい玩具屋で売るのに躍起になるなって、土俵を変えよう」
『土俵?』
「たとえば……こういうしょうもない遊びは『最新の玩具です!』みたいな顔で売るより、すでにその場に居る目的を達成しているような人たちに向けた、『しょうもないまま』の売り方の方が案外伸びる。だから俺はよく、アウトドア用品店なんかに売り込む。焚き火を囲んで、普段はしないような話や遊びに興じる……なんて結構アリだろ?」
『な、なるほど』
込み入った話になってきた辺りで、叶がこちらの通話の様子を興味深々で見ていることに気付いた。
――これは、チャンスだ。
ちょっと露骨かもしれないが、ここいらで通話のスピーカーをオンにしてやろう。
仕事の様子なんて彼女に見せたことはなかったので、ここいらでバッチリいいところを見せるぞ。
「それに、あまり売ることばかり考えるなよ。真っ先にゲームを楽しまなきゃいけない人間が、お金の匂いばかりさせてたら楽しそうなゲームに見えないだろ」
『うっ、それは』
「人に話しにくいような、どんなしょうもない遊びでも……それが必要だって人は、ごまんといる。そういう人たちに正しく遊びを届けるのが、俺たちがやるべき仕事だろ……それを忘れるなよ」
『主任……』
ここで言ったことは、俺のモットーであり経験則であり、何よりの本心だ。
遊びは誰かと繋がりを持つ“きっかけ”になって、時には誰かの“逃げ道”になることもある。
その役目は、皆が知っているような有名なゲームや玩具だけが持つものじゃない。
“これじゃないとダメだ”って遊びが、誰にでも必ず存在するはずなんだ。
そう、これこそが高校の頃に志した――俺の道。
俺なりの、“遊び”と遊びを生み出す“クリエイター”たちに対する、精一杯の恩返しなんだ。
『主任の言葉、すごく心に響きました……』
「ふっ、よせやい……別に大したことじゃない」
そんなこんなで、佐藤くんの反応はすこぶる良い。
これで少しは、叶の隣に並び立つにふさわしい男であることをアピールできたは――
「――謙遜しちゃって。アナタはあの“エターナルデモンズ”の作者なんだから、もっと胸を張らなきゃ!」
「……ず」
『え、どなたですか?』
背筋に走った汗と寒気に、おそるおそる横を見る。
俺の顔のすぐ近くまで来ていた、じっとりとした目とニヤついた口角。
それは、天宮祭りで初めて見せたあの“小悪魔な顔”そのものだった。
「横から突然すみません、私は忍さんの妻の叶と申します。厳密にはまだだけど……」
「ちょ、かな」
『そ、そうでしたか。此方こそすみません、夫婦団欒の時間にこんな……』
「いえいえ、お気になさらず。夫の仕事には興味がありましたので……」
「……」
『あの、恐れながら……“エターナルデーモンズ”って? 僕、そんなゲーム聞いたことないんですが……』
「それは夫が説明してくれます。ねぇ?」
「……“デモンズ”だ」
『はい?』
「――あ、いや。わ、忘れてくれ! そ、それじゃあ頑張ってな! ガハハ……!」
『え、ちょっと主任! “エターナルデーモンズ”って一体な』
俺は電光石火の勢いでスマホを指で叩き、通話終了を何度も押した。
押しすぎてもう一度電話がかかってしまったので、また終了を押した。
「か、叶ぇ……」
「なーに?」
「いや、なーにじゃのうてさ……」
「別にいーでしょ。せっかく忍くんが良いことを後輩くんに言ってたんだから、私にとっての最高のゲームを引き合いに出したってさ」
「……ぐむむ」
「えへへっ」
ニパッとはにかんだ叶の顔を見て、俺は悟った。
あぁ、このひとは――俺の永遠の小悪魔でいるつもりなのだと。
『俺の自作黒歴史カードゲームが、潰されそうなキミの逃げ場になるなんて』
――完




