41.このターン、クリーチャーのパワーを+∞する
俺たちを乗せた軽バンはその車体を揺らしながら、広大な畑に囲まれた一本の道を軽快に進んでいく。
カップホルダー芳香剤の香りと、魚介類の生臭さが入り混じる後部座席。
叶が「懐かしの香り」だと言っていたこの独特の空気は、意外とすぐ慣れることができた。
「あ、忍くん見て見て! 海だよ、うーみっ!」
助手席に座る叶が興奮した様子で、フロントガラスの右前方を指差した。
狭い車内で身じろぎするように何度か身体を振るが、運転席のお母さんが陰になってよく見えない。
そう思った矢先、ルームミラーに映るお母さんの皺を刻んだ目元が、クスリと緩んだような気がした。
「窓の下にハンドル付いてるから、回してみな」
しゃがれていながら、ハツラツとした声。
促されるまま、ぎこちない手付きでハンドルを回すと、ゆっくりとガラスが下りた。
窓からほんの少しだけ顔を外に出すと、カチカチに整えてきた髪がほどけそうになるほどの“海の風”が、顔一面を覆った。
そして、砂で白くなったアスファルトが一直線に伸びていった先の右前方には、たしかに冬の海が広がっていた。
お世辞にも絶景とまでは言えない眺め。
でも、今まさにはしゃいでいる叶が、この景色にどれほどの郷愁の想いを抱いていたのかは――想像に難くなかった。
「海なんて、久しぶりに見た……」
「でしょー。学校のみんなも、夏はプールに行くっていってたもんね」
自然と漏れた俺の一言に、叶が相槌を打った。
そのわずか後に、お母さんがいきなり短くクラクションを鳴らしたものだから、俺はびっくりして「わっ」なんて情けない声を上げてしまった。
お母さんが対向車線に手を挙げると、すれ違った軽トラの運転席にいた初老男性が手を上げ返す様子が見えた。
「あっ、もしかして今のよーすけさん?」
「そうだよ、アンタまた正月までに挨拶行っときな」
知らないおじさんの話をする叶と、ガハハと大きな体を震わせるお母さん。
はじめは顔の一部分以外、全然似てないと思っていたのに。
座席越しの二人の背中が、もう親子以外の何者にも見えなくなっていたことが――不思議でならなかった。
◆
それからしばらく車に揺られ続けて、叶の実家に到着したのは16:00を過ぎた頃だった。
出迎えた平屋の一軒家は、外壁に黒くてきれいな鋼板が敷き詰められていて、一見真新しい家のように見えた。
ただ、そこに年季の入った屋根瓦が被せられていることに気付き、屋外に置かれた錆びた室外機、さらにはアルミと型板ガラスのレトロな引き戸がガラガラと目に入ったことで、この家の持つ歴史がそれとなく感じとれた。
「ただいまー」
「お、おじゃまします……」
土間で靴を脱ぎ、フローリング張りの廊下に上がる。
後から入って来たお母さんが「のぞむーっ! 帰ったよォー!」と大声で誰かに呼び掛けたものだから、俺はまたしても「ひっ」と小さく声を漏らしてしまった。
最初に叶が案内したのは、い草と線香の香りに包まれた和室だった。
床の間の隣には仏壇があって、壇上には一人の優しそうな男性の姿が、写真立ての中に収まっていた。
線香の置き方を教えてもらい、火の付いたロウソクと煙を上げる線香の前で、叶がおりんを鳴らす。
鈍く響き続ける音の中で、俺たちは目を閉じ、そっと手を合わせた。
次に案内されたのは、ステンレスのキッチンと背の高いガラス戸棚に囲まれるように、新聞や麦茶のポット、干し芋の大袋などが雑多に置かれた四人掛けのテーブルが配置されたダイニングだった。
すぐ隣の四畳半のリビングには、薄型テレビと漁業関係の本が置かれたテレビボード、モケモケのカーペットの上には革のソファ。
そして、ソファに座っている赤本を手にした人の影に気が付いて、もしやと思い、俺は勇気を振り絞って声をかけることにした。
「は、はじめまして、あの……」
「ん。あぁ、室井くん……だよね」
赤本を閉じて、こちらを振り向いた四角いアルミ眼鏡の男性は、先ほど仏壇で見かけた写真の男性によく似ていた。
あまりお母さんとは似ていない。
ざっと見積もって、パワー4000といったところだろう。
「……はい、そうです! 俺、 室井忍っていいますっ、よろしくおねがいします~!」
「僕は望……よ、よろしく……」
姿を目にした途端、いきなり饒舌になり始めた自分の舌に呆れつつ、つつがなく望さん――お兄さんへの挨拶に持ち込めたことに俺は安堵した。
忘れたわけではあるまい。
今回の同行の最大の目的は、この人から“おにい感”の概念をまるっぽ伝授していただくことにあるのだ。
赤本を掴む指がせわしなく動いていて、目線を合わせようとしないところからも、今はお兄さんの緊張が見て取れる。
ここからどうにか仲良くなって、ひいては俺と叶の未来を――盤石にしなくてはならない。
「叶さんとは、3か月ほどお付き合いさせていただいています! 妹さんはとても良くできた方で、不甲斐ない俺をいつも――」
しかし、俺を刺すような違和感がすぐに訪れた。
俺が先の口上を述べると、お兄さんは「おつ……きあい……ね」と低い声で小さく、でもたしかにぼそりと呟いた。
和風の吊り照明が放つ光の反射が、お兄さんの眼鏡のレンズを真っ白に覆い尽くした。
流石の俺も、声のトーンダウンを図るほかない。
今の瞬間、お兄さんのパワーが多分2000くらい上がった気がしたからだ。
「あの……お」
「あっ、おにい! やっほ~!」
ダイニングでお土産を冷蔵庫と戸棚にしまっていた叶が、俺の発しかけの言葉を覆い尽くすような、ハツラツとした大きな声でリビングのお兄さんに呼びかけた。
「――おぉ、かーな! 帰ったかぁ~!」
――えっ。
「いやぁ、じつに春ぶりだなぁ! 夏は部活、大変だったらしいな! 大丈夫か、先輩にいじめられたりしてないか?」
「あはは……大丈夫だよー。それより、かーな呼びはここではやめてよ、おにい……今は恥ずかしいよ!」
「あっはっは、面目ない! あぁそうだ、お前の好きな干し芋買ってあるぞ! たしかそこに……ってもう袋開いてるじゃんか! 母ちゃん、かーなの分の干し芋勝手に食うなって!」
「アホぬかせ! そんなとこに置いてる方が悪いんだろ!」
「だから、かーなはやめろし……ぷしゅう」
叶とお兄さんが邂逅したことで、一気に熱を帯びた海風家。
その片隅で、俺はただただ戦慄していた。
ざっと見積もってパワー4000から6000くらい?
馬鹿言うでねぇ、忍。
こいつぁ――お母さんよりも、よっぽどやべぇパワーを持っているぜ!




