episode 2 「サラ」
「はぁ、釣れない」
鳥たちの囀ずりが聞こえる。木漏れ日が優しく体を温める。そんな穏やかな森の中の川で一人の少女が釣りをしている。目に見えるような獲物は少なく、大して釣りの腕前も無いためこの結果は楽に想像できた。しかしたまには木の実や草以外のものも口にしたくなる。
「何か大きな獲物でも流れて来ないかしら」
退屈そうな顔で呟き、いつものように木の実集めに戻ろうとしたその時だった。彼女の望み通り大きな物体が川上の方から流れてきた。しかしそれは彼女の望むような物では無かったが。
「んぁ」
「あ、目が覚めた?」
クレアは情けない声をあげながら、まぶたを擦る。見たことの無い場所、嗅いだことの無い匂いだったが、不思議と取り乱す様子は無い。そして聞きなれない声のする方へと顔を向ける。
「あなたどうしてあんなところを流れてたのよ」
少女が尋ねるが、クレアは答えない。少し顔をしかめる少女だったが気にせずに話を続ける。
「ま、いいわ。とりあえず自己紹介しましょ。あなたの名前は?」
「は? まずはお前から名乗るべきだろ?」
まさかのクレアの第一声にすこしカチンとくる少女だったが、笑顔を崩さずに自らの名をクレアに伝える。
「私はサラ。サラ・クルーナよ。あなたは?」
「お断りだ」
沈黙が流れる。自分の聞き間違いかと耳を疑うサラだったが、少年のふてぶてしい面が聞き間違いでは無かったということを伝えてくる。
「へぇ、オコト・ワリさんね。それで? そのワリさんはあんなところで何をなさっていたんでしょうか?」
わざとよそよそしい態度で尋ねるサラ。こんなにイライラしたのは久しぶりだ。
「お前何言ってんだ? そんなことよりここはどこだよ、誘拐犯」
「どこって、私の家……って違うわよ!?」
少年の口から飛び出してきた言葉にまたしても耳を疑うサラ。
「だろうな。こんな汚い場所に人が住めるか」
今度の言葉は聞き間違いではない。見ず知らずの男でなければ、胸ぐらをつかんで張り倒してやりたい。
「だから違う」
サラの顔からもう作り笑いは消えていた。
「わかってるって。家畜小屋かなんかだろ」
「違う」
「しつけぇーな。わかってるって」
「……」
サラは溜めに溜めた右の拳をクレアの頬に向かって突き出す。
「しつこいのはアンタの方よ!」
「へぶ!!」
感じたことの無い痛みがクレアの体に伝わる。
「てめぇ! 殴りやがったのか!? 俺が誰だか分かってんのか!?」
声を張り上げるクレアに冷ややかな目線を送るサラ。
「知るわけないでしょ。だいたいアンタ聞いても答えな……」
「よくぞ聞いてくれました!」
「聞いてねぇーよ」
サラのつっこみを回避しながら立ち上がるクレア。上半身裸の体をめいいっぱい張り上げながら、自らの名前と身分を高らかに宣言する。
「俺の名前はクレア・セルフィシー! この国の王子だ!」
決まった……クレアはそう確信し、サラのリアクションを待つ。恐れ戦き、自らの行いを恥じて謝罪してくるだろう、そう思っていたがサラの反応は違った。
「ふっ」
小さくそう笑って顔を背けるサラ。明らかに信じていない。
「な、笑いやがったな!」
「あらごめんなさい。でもそんな話いきなり言われても信じる方がどうかしてるわ」
サラは立ち上がり、洗濯していたクレアの服を取りに行く。
「ちぃ」
確かに今の自分には身分を証明するものは何もない。クレアは舌打ちをしながらあたりを見渡す。クレアが家畜小屋と称したその家はとても小さく、普段高価な物に囲まれているクレアから見なくとも殺風景だ。
「そういやお前ここの主はどこだよ。そいつなら俺の事を知ってるかもしれないから連れてこい」
クレアはサラに謝罪をさせるために、なんとしても自らの身分を証明したかった。しかしサラがここに一人で住んでいると言うことを聞くと、そんなことはどうでもよくなった。
「えー!! 執事は!? 親も居ないのか!?」
「なに? 珍しくもないわよ。この辺りじゃね」
サラは平坦な声で答える。むしろサラは恵まれている方だった。住むところも着るものも食べるものも揃っている。それがないために死んでいった人々を、サラはよく知っている。
クレアは動揺が隠せなかった。たった一人で生活するなど、クレアにとっては考えられないことだったからだ。
「戦争で親が死んだり、貧しくて捨てられたり……母さんは死んじゃって、父さんは帰ってこない」
先程までの平坦な声とは違い、今度は明らかに沈んだ声で語るサラ。
「それで8年前から一人暮らし。友達は森の動物たちだけ。でもね、別に私寂しくなんか……」
「俺もだ」
サラの言葉に口を挟むクレア。
「俺もずっと一人だった」
クレアは真剣な眼差しでサラを見つめる。
「母上は病気で、父上は忙しくって、屋敷の連中も誰も俺を相手にしない」
使用人たちがクレアの事を嫌っている原因は本人にあり、それも本人はよくわかっている。だがクレアはそれ以外の接し方がわからなかった。サラはそんなクレアの話を黙って聞いていた。
「だから、その……なんていうか」
クレアはサラから眼をそらし、言いにくそうに言葉を濁す。
「はぁ、何よ。はっきりしたら? 男でしょ」
「な! 俺は真面目に!」
クレアの言いたいことを察し、口を挟むサラ。茶化されたととり、いつものように声を荒げてしまうクレア。そんなクレアの耳に、長年待ち望んでいた言葉が飛び込んでくる。
「ま、いいわ。そんなに友達が欲しいなら私がなってあげよっか? なんてね」
まさかの言葉に体が硬直するクレア。だが、次の瞬間には満面の笑みを浮かべながらその言葉に答えた。
「本当かぁ!!?」
森からそう遠くない場所で一人の青年が額に手を当てながら報告する。服装からしてどうやら軍人のようだ。
「ほ、報告します! やはり情報は確かでした!」
青年の目の前には軍人とはとても思えない服装をした男が腰かけている。髪は紫で片方には十字架、そしてもう片方には髑髏のピアスをし、邪悪に満ちた顔で笑っている。
「やはりな。ならとっとと探しに行け!」
声だけで人を殺せそうな男の怒号に怯える青年。
「は! すぐに捕らえて参ります!」
「ちげぇだろ」
命令に従い、直ぐにその場を立ち去ろうとした青年を呼び止める男。
「殺せ」
たった一言告げる男。しかしその一言は永遠にこだまする。その言葉にただただ怯える青年。
「殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せぇぇ! 帝国軍の名のもとに!!」
邪悪の権化が今、迫ろうとしていた。