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七十二候 ― 籠目屋商店怪異録 ―  作者: 宇佐美夕日


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3/3

山茶始開 一

山茶始開つばきはじめてひらく

東山の坂を上がると、街の音が少し遠くなる。


名古屋の街は平らな土地の上へ広がるように出来ているから、こういう坂道へ入るだけで、どこか別の場所へ来たような気がする。

それも、華やかな街の続きをそのまま高くしたような場所ではなく、いったん日常の裏へ回り込んで、それから静かなところへ出た、という感じのする坂だった。

住宅地のはずなのに、人の気配が薄い。高い塀。大きな門。張り出した庭木。道の端へ押し寄せるように伸びた枝のせいで、夕方でも道はどこか薄暗い。

街灯はある。車も通る。けれど、そのどれもが、少しずつ音を削がれているみたいに感じられる。


百合の運転する車は、その坂道をゆっくり上がっていた。


僕は助手席に座って、窓の外を見ながら言った。


「この辺、独特ですね」


百合は前を見たまま、短く答えた。


「そうね」


「なんていうか」


僕は言葉を探した。


「静かすぎませんか」


「静かよ」


「いや、そうなんですけど、普通の静かさじゃないというか」


百合は少し考えるようにしてから言った。


「音があるのに、遠いのね」


「そうです、それです」


僕は思わず指を鳴らしかけて、やめた。


「車も通るし、街灯もある。でも全て少し遠い」


「そういう土地はあるわ」


「土地のせいなんですか」


「木のせいでもあるし、家のせいでもあるし、そこに長く住んだ人たちの気配のせいでもあるの」


「また詩みたいなこと言う」


百合は少しだけ笑った。


「詩ではないわ」


「百合さん、そういう言い方好きですよね」


「そうかしら」


「そうですよ」


少し沈黙があった。


百合は坂の先を見ている。ハンドルを握る手は細いが、運転は静かだった。

急にブレーキを踏むこともないし、ハンドルを大きく切ることもない。

まるで車を走らせているのではなく、車の流れそのものを手でそっと撫でているみたいな運転だった。


僕は横目で百合さんを見た。


白いシャツにデニム、古びたカーディガンを羽織っている。いつもとあまり変わらない格好だが、夜の東山へ向かうには、どこか場違いなくらい軽い。


百合は前を向いたまま言った。


「なに」


「いや」


「見てたでしょう」


「見てましたけど」


「どうして」


「百合さんって、いつもそんな感じだなと思って」


「そんな感じ?」


「怖いところに行くのに、全然怖そうじゃない」


百合は少し黙った。


それから言う。


「怖いわよ」


僕は思わず笑った。


「え、そうなんですか」


「怖いものは怖いでしょう」


「でも平気そうに見えますよ」


「平気そうにしているだけよ」


「そうは見えないなあ」


百合はそこで初めて、少しだけこちらを見た。


「六郎」


「はい」


「怖いのと、怯えるのは、別でしょう」


その言葉を飲み込むために、僕は少しだけ口をつぐんだ。


信号で車が止まる。赤信号の灯りがフロントガラスへ滲み、百合の横顔に薄く映る。


しばらくしてから、僕は聞いた。


「それで」


「なに」


「今日の依頼人」


「どんな人なんです」


百合は前を見たまま答える。


「六十代の男性」


「一人暮らし」


「奥さまは三年前に亡くなっている」


「庭が怖いと言っているわ」


「庭」


僕は同じ言葉を繰り返した。


「庭っていうのは……木とか花とかの、庭ですよね」


「そうよ」


「それが怖いって」


「そうね」


「庭の何が怖いんです」


山茶花(さざんか)


「花?」


「ええ」


「まだ咲いてないはずの」


山茶花さざんか


僕は窓の外へ目を戻した。


「咲いてない花が怖いって、どういうことです」


百合は少し考える。


「咲いていないから、かもしれないわね」


「わけがわからないな」


「そうかしら」


「そうですよ」


そんな話をしているうちに、車はさらに坂を上がっていた。


やがて大きな門の前で止まる。


エンジンを切ると、急に辺りが静かになった。


外へ出た瞬間、かすかな花の匂いがした。


「……山茶花?《さざんか》」


僕が言うと、百合は門を見ていた。


「たぶん」


門を押すと、古い木の軋む音がした。


庭が見えた。


そして僕は、そこで足を止めた。


庭が、妙に整っている。


飛び石の間に雑草がない。苔は削られている。低木の形も揃っている。落ち葉もほとんど見当たらない。


広い庭なのに、目の届く範囲に「放っておかれた場所」がない。


まるで、今朝も誰かが庭へ出て、全部拾い集めたみたいだった。


庭の奥に、山茶花さざんかの木が一本立っている。


枝は丸く刈り込まれているが、幹は太く、かなり年を経た木だと分かる。まだつぼみばかりだ。それでも、その木の周りだけ影が少し濃く見えた。


「……百合さん」


「なに」


「この庭、誰が手入れしてるんですか」


百合は庭の奥を見た。


「誰かしらね」


百合はそう言って、庭の奥から目を離さなかった。


そのとき玄関が開いた。


出てきたのは、痩せた男だった。


六十代半ばほどだろうか。

背は高いが、肩がわずかに内側へ入っている。

白髪はきちんと整えられているのに、どこか手入れの手が止まってしまったような印象があった。


「宇喜田さんですか」


低い声だった。


百合は軽く会釈する。


「ええ」


男は一度うなずき、それから僕の方を見た。


ほんの一瞬だけ、誰だという顔をする。


百合が言った。


「藤原六郎」


僕も軽く頭を下げた。


「どうも」


和田は少しだけ間を置いてから、もう一度うなずいた。


「和田です。和田和夫」


それから、門の外に目をやる。


もう一度僕たちを見る。


まるで何かを確かめるようだった。


「……寒いですね」


そう言って、少しだけ身を引く。


「どうぞ、中へ」


玄関へ入ると、空気が少し違った。


暖かいわけではない。

ただ外よりも、音が遠い。


靴を脱ぎながら、和田が言う。


「すみません、夜分に」


百合は答える。


「いいえ」


「お電話をいただいたときも、少し気になっていましたから」


和田の手が、靴を揃えるところで一瞬止まる。


「……ああ」


「庭のこと、でしたね」


百合はうなずく。


「ええ」


「“音がする”と」


六郎は顔を上げる。


和田はすぐには答えなかった。


代わりに、ゆっくりと立ち上がる。


「大したことでは、ないんです」


そう言いながら、廊下の奥へ目をやる。


「ただ……」


言葉を探すように、少し間が空く。


「誰もいないのに」


山茶花さざんかの花の落ちる音が、する」


百合は何も言わない。


和田は続ける。


山茶花さざんかは、まだ」


「咲いていないので、落ちるはずもない」


六郎は、ふと外を思い出す。


整いすぎていた庭。


落ちていない花。


和田が、少しだけ声を落とす。


「それに」


「……並んでいるんです」


その一言で、空気が変わる。


百合が静かに問う。


「どこに」


「玄関に」


短く、それだけ。


「朝になると」


六郎は、百合を横目で見る。


百合は、わずかに目を細めただけだった。


「だから」


和田が言う。


「一度、見ていただきたくて」


その言い方は、説明というよりも、確認に近かった。


百合は、やわらかくうなずく。


「ええ」


「順に、お話を伺いましょう」


廊下を歩く。


板の軋む音が、思ったより小さい。


家の奥へ進むにつれて、外の気配が薄れていく。


座敷へ通された。


広い部屋だった。


整っている。


整っているのに、どこか生活の中心が抜けているような、そんな感じがあった。


和田が茶を入れる。


湯の音が静かに立つ。


湯呑みが置かれる。


その音が、わずかに残る。


僕はそれを聞きながら、部屋を見回した。


壁。

柱。

床の間。


どれもきれいに保たれている。


「……立派なお宅ですね」


思わず言うと、和田は少しだけ笑った。


「古いだけですよ」


「この辺は、こういう家が多いんですか」


「ええ。昔からの家が、そのまま残っているところです」


百合は湯呑みに手をつけず、庭の方を見ている。


和田もその視線を追う。


障子の向こうに、木の影がある。


しばらく、誰も庭の話をしなかった。


その沈黙が、不自然ではなかった。


むしろ、話をそこへ持っていくための間のようだった。


和田が先に口を開いた。


「……妻が」


少し言葉を探すようにしてから続ける。


「庭をやっていましてね」


百合が小さくうなずく。


「そうでしょうね」


和田は、少しだけ目を細めた。


「分かりますか」


「ええ」


百合は静かに言う。


「毎日触っていた庭です」


和田は、湯呑みに手をかけたまま言った。


「好きだったんです」


「花も好きでしたが」


「落ちる花が好きだった」


そう言って、指先で何かを摘んで落とす仕草をする。


「山茶花です」


僕は聞き返した。


山茶花さざんか


和田はうなずく。


「ぽとり、と落ちる」


その言い方が、妙に静かだった。


「朝になると」


和田は少しだけ視線を落とす。


「玄関に並べるんです」


「落ちた花を七つ」


六郎がふと首をかしげる。


「七つ、ですか」


「決まりごと、みたいなものですか」


「さあ……私は、詳しくは」


和田の言葉は、どこか逃げるようでもあった。


六郎が少しだけ身を乗り出す。


「七つ、というのは」


「毎朝、必ず?」


和田は視線を外したまま答える。


「ええ……欠かさず」


「雨の日でも」


「風の日でも」


その言い方に、百合の目がわずかに細くなる。


「それは、奥様にとって」


「ただの習慣、ではなかったのでしょうね」


和田は答えない。


代わりに、小さく息を吐いた。


百合が横からやわらかく口を挟む。


「奥様が、何か書き残していらっしゃることは?」


「庭のことを大事にされていた方は、記すことも多いものです」


少しの間があった。


和田は、ようやくこちらを見る。


「……帳面なら」


思い出すように、言葉を探す。


「あったはずです」


「納戸に」


「庭のことを、よく書いていた」


六郎と百合は、ほんの一瞬だけ顔を見合わせる。


百合が静かに言う。


「見せていただけますか」


和田はすぐには動かなかった。


視線だけが、廊下の奥へと向く。


「……古いものです」


「たいしたことは、書いていない」


六郎がやわらかく返す。


「たいしたことでなくても」


「残っているものは、意味があります」


和田は、それ以上何も言わなかった。


ただ、ゆっくりと立ち上がる。


座敷を出ると、空気が少しだけ冷えていた。


廊下は薄暗く、外の光が細く差し込んでいる。


和田の足音が、板を軋ませた。


きし、きし、と。


六郎と百合は、その後ろを静かについていく。


途中、庭が見える。


山茶花さざんかの木が、ひとつ。


赤いつぼみが、いくつか。


百合が足を止めかける。


だが、すぐにまた歩き出す。


「……今も」


百合が、歩きながら言う。


「並べていらっしゃるのですか」


和田は振り返らない。


少しの間。


六郎が、庭から目を離さずに問う。


「どうして」


和田の足が、一瞬だけ止まる。


だが、振り返らない。


「……理由は」


「よく、わかりません」


その言い方は、はっきりしないのに、どこか重かった。


再び歩き出す。


廊下の奥は、さらに暗い。


納戸の前で、和田が足を止めた。


引き戸に手をかける。


その手が、ほんのわずかに遅れる。


「……ここです」


戸が、ゆっくりと開く。


古い匂いが、ふっと流れ出た。


納戸は乾いた匂いがした。


古い木箱や段ボールの間に、きちんとまとめられた籠と花鋏が置かれている。


整いすぎている、と六郎は思った。


使われていないはずの場所に、使われた形が残っている。


百合は、迷わず奥へ歩いた。


積まれた箱の陰に、ひとつの帳面がある。


「これね」


百合はそれを手に取った。


古い大学ノートだった。

角が丸くなり、表紙の青は少し褪せている。


指で払うほどの埃はない。


六郎は、わずかに眉をひそめる。


百合は何も言わず、頁をめくる。


僕は横から覗き込んだ。


細い字で、庭の記録が書かれていた。


花の咲いた日。

枝を切った日。

肥料を入れた日。

風の強さ。

朝の冷え方。


思ったよりずっと細かい。


百合がある頁で手を止める。


「六郎」


「はい」


「見て」


そこにはこう書かれていた。


山茶花さざんかは落ちるときの音が好き。

ぽとり、と聞こえる。

でも夜に聞くと、少しだけこわい。


僕は思わず和田さんを見た。


和田さんは目を伏せていた。


百合はさらに頁をめくる。


咲き始めの七つを玄関へ。

あの人は気づかない。

気づかないままでいてくれるのが、少し可笑しい。


和田さんの口元が、ひどくかすかに歪んだ。


笑ったようにも、泣きそうにも見えた。


百合は、もう一枚めくった。


あの人は

山茶花さざんかが落ちる音を聞くと

必ず玄関を見る。


それが少し嬉しい。


小さく書き足されていた。


声は、かけない。


納戸の中は、急にしんと静かになった。


和田さんが、小さく言った。


「……私は」


それだけで言葉が止まる。


百合は帳面を閉じなかった。


ただ静かに立っている。


和田さんは、帳面を見たまま続けた。


「妻は、よく喋る人でした」


「庭のことになると、特に」


山茶花さざんかはね、とか」


「落ちる音がね、とか」


「そういう話を、朝からずっとする」


少し笑う。


「私は、そうか、とか、そうだな、とか、そのくらいしか言わなかった」


「でも」


和田さんの声が、わずかに掠れる。


「聞いてはいたんです」


六郎は、最後の頁をめくる。


そこには、日付だけが書かれている。


その下は、空白だった。


ただ、紙の端に、薄く跡がある。


何かを書こうとして、やめたような。


百合はそこで初めて帳面を閉じた。


「ええ」


「聞いていたわ」


和田さんは、その一言で崩れるのではなく、

逆に少しだけ姿勢を正した。


百合は帳面を抱えたまま、納戸の入口から外の暗い庭を見た。


ぽとり。


山茶花さざんかがひとつ落ちた


誰も、動かなかった。

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