出会い 二
祠は、草の陰にあった。
本当に小さな石の祠だった。
苔むしていて、昼間なら見落としそうなくらいの大きさしかない。
百合はその前にしゃがみ込み、ようやく風呂敷を開いた。
中にあったのは、古い竹の横笛だった。
黒ずんでいる。
艶もなく、ところどころ細かな傷がある。
ただ、折れてはいなかった。
六郎が身をかがめる。
「……これか」
「ええ」
「どこで拾ったんです」
「川沿いの古道具市」
「古道具市?」
「木曽川で拾ったものを売る人がいるの」
六郎は眉をひそめた。
「そんなの、よく買いましたね」
「買ったんじゃないわ」
百合は笛を見下ろした。
「持ち主が、三日後に水路で見つかったの」
六郎は息を呑んだ。
百合は続ける。
「だから預かったの」
言い方が変だった。
警察でも遺族でもない人間が、「預かった」と言うにはあまりに自然すぎた。
六郎が何か言おうとした、そのとき。
――ピィィ……
音がした。
細い。
長い。
川の方からだった。
六郎は反射的に振り向く。
「……聞きました?」
百合は頷いた。
「ええ」
「今の……」
「まだ見ないで」
「見ないって」
「川を」
百合の声が急に鋭くなる。
六郎は言われるまま顔を戻した。
百合は笛を祠の中へ入れる。
石に当たって、軽い音が鳴った。
カタン。
その直後。
――ピィィ……
今度は、少し近く聞こえた。
六郎の喉がひりつく。
「祠に入れましたよね」
「ええ」
「じゃあ何の音です」
百合は立ち上がる。
「祠に戻すのは笛だけだから」
六郎は意味がわからなかった。
「笛だけって」
百合が言う。
「本当に来るのは、音を返した人の方なの」
六郎は一瞬、何を言われたのかわからなかった。
だがその瞬間、足元が妙に冷たいことに気づいた。
見ると、靴先が濡れている。
堤防の上にいるはずなのに。
水があるはずがないのに。
足をわずかに動かすと、ぐち、と泥を踏むような音がした。
ザァァ……
ザァァァ……
川の音が、急に近くなった。
耳元ではない。
もっと下、足のすぐそばで水が動いている音だ。
六郎の全身から血の気が引く。
「……何だ、これ」
百合が六郎の腕をつかんだ。
その手はひどく冷たかった。
「私だけ見て」
「は?」
「いいから」
百合の目は真っ直ぐだった。
さっきまでの静かな調子ではない。
慣れている人間の目だった。
――ピィィ……
音がまた鳴る。
今度は背後から、すぐ近くで。
六郎は見たくなる。
何がいるのか。
本当に何かいるのか。
ただの思い込みではないのか。
その欲求が、首を持ち上げようとする。
六郎は必死で視線を百合に固定した。
「木曽川はね、人の声や笛を攫うだけじゃないの」
「……」
「返してくるの」
――ピィィ……
「そっくりに」
六郎の背中のすぐ後ろで、草がかすかに分かれる音がした。
濡れた足音はしない。
ただ、何かがそこに立ったとわかる気配だけがある。
六郎の呼吸が浅くなる。
百合がゆっくり後ずさる。
その分だけ六郎も下がる。
「昔、曾祖母が言っていたわ」
「……」
「最初に消えた笛吹きの子は、木曽川の怪異に攫われたんじゃない」
「じゃあ……」
百合は静かに言う。
「木曽川の怪異に、なったの」
六郎は息を止めた。
「この川はね、呼び声に返した人を覚えるの」
――ピィィ……
「そして次の音を、吹かせるのよ」
六郎の喉が勝手に動きそうになる。
口をすぼめ、息を整え、音を返したくなる。
自分の意思ではない。
「口を閉じて」
百合が鋭く言う。
六郎は慌てて唇を噛んだ。
鉄の味がした。
すると背後の気配が、少しだけ遠のいた。
百合が一歩、また一歩と堤防の下り坂の方へ誘導する。
「歩いて」
六郎も足を動かす。
土の感触のはずなのに、ときどき浅い水際を踏むようなぬるさが混じる。
見なくてもわかる。
今、川が近くなっている。
「百合さん」
「なに」
「なんで俺なんです」
百合は一瞬だけ黙った。
それから言った。
「あなた、音を返しそうな顔をしていたから」
「それ、最悪の理由じゃないですか」
百合は少しだけ口元を和らげた。
「だから古本屋に行ったの」
その言い方が奇妙だった。
やがて堤防の下りへ差しかかったところで、ふっと川の音が遠のいた。
ザァァ……
ザァ……
元の距離に戻る。
六郎はその場で大きく息を吐いた。
振り返る勇気はなかった。
百合も振り返らない。
「もう大丈夫」
「……本当ですか」
「今夜は」
六郎はその「今夜は」が嫌だった。
⸻
車に戻るまで、二人ともあまり喋らなかった。
ようやく運転席に乗り込んでから、六郎が訊く。
「百合さん」
「なに」
「さっきの、あれは何なんです」
百合は窓の外の闇を見ながら答えた。
「木曽川の本当の怪異」
「だからそれが」
百合は言う。
「水死した人でも、笛吹きの幽霊でもない」
「……」
「木曽川は、返事をした人を水の側へ引き寄せるの」
六郎は黙る。
百合は続けた。
「最初は、笛で」
「最初?」
「そのうち、笛じゃなくてもよくなる」
六郎の手がハンドルの上で強張る。
「どういう意味です」
「線路の音でも、風の音でも、誰かの呼ぶ声でも」
百合はそこで、初めて六郎の方を見た。
「一度“近くなった”人には、どこででも近くなるの」
その言葉だけが、妙にはっきり胸に残った。
⸻
その夜、六郎は自室で眠れなかった。
灯りを消したあとも、木曽川の匂いが鼻についた。
もちろん気のせいだ。
服に草の匂いがついただけかもしれない。
だが夜半を過ぎたころ、はっきり聞こえた。
――ピィィ……
六郎は飛び起きた。
音は枕元からだった。
部屋の中は暗い。
何も見えない。
けれど、何かがしゃがんでいる気配だけがあった。
六郎は息を呑む。
その瞬間、喉の奥が勝手に息を整えようとした。
音を返すために。
百合の言葉が脳裏をよぎる。
口を閉じて。
六郎は両手で口を押さえた。
――ピィィ……
また鳴る。
今度は部屋の隅からだ。
床が、じわりと湿っていく気がする。
裸足の裏が冷たい。
そのとき、スマートフォンが震えた。
画面には、百合の名前。
六郎は震える手で通話を取る。
「……もしもし」
受話器の向こうで、百合は落ち着いた声で言った。
「聞こえる?」
「聞こえる」
「返してないわね」
「返してない」
「よかった」
その声の向こうでも、風と水の音がしていた。
まるで百合がまだ川のそばにいるみたいだった。
「六郎」
「……何です」
「今夜は窓を開けないで」
「開けてない」
「名前を呼ばれても返事をしないで」
六郎は部屋の隅を見た。
見えない。
でもいる。
「百合さん」
「なに」
「最初から、こうなるってわかってたんですか」
少し沈黙があった。
それから百合は、やわらかく言った。
「だから、会いに行ったのよ」
六郎は凍りつく。
古本屋での偶然。
雨の夕方。
ちょうどよかった、という言葉。
あれは偶然じゃなかったのか。
百合が続ける。
「あなたはたぶん、もう一度聞くから」
「……」
「その前に、木曽川のことを知っておいてほしかったの」
電話が切れたあとも、六郎はしばらく動けなかった。
やがて部屋の湿り気は消え、気配も薄れていった。
だが朝になっても、枕元だけは妙に冷たかった。
⸻
それから四日後。
踏切待ちをしていた六郎の耳元で、ふいに聞こえた。
――ピィィ……
風もない夕暮れだった。
だが線路脇の砂利が、なぜか濡れて見えた。
六郎はゆっくり右手を見る。
指先が、何か細いものをつまむ形になっていた。
まるでそこに、見えない笛があるみたいに。
そのとき、スマートフォンが震えた。
百合からの短いメッセージだった。
「聞こえても、まだ返さないで」
六郎はその文面を見つめた。
まだ、という字だけが妙に引っかかった。
まるでいつかは返すことになる、とでも言うみたいに。
夕暮れの踏切で、遠くもないのに木曽川の水音がした。
ザァァ……
ザァァ……
その日から六郎は知った。
あれは、ただの出会いではなかったのだと。




