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七十二候 ― 籠目屋商店怪異録 ―  作者: 宇佐美夕日


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2/3

出会い 二


祠は、草の陰にあった。


本当に小さな石の祠だった。

苔むしていて、昼間なら見落としそうなくらいの大きさしかない。


百合はその前にしゃがみ込み、ようやく風呂敷を開いた。


中にあったのは、古い竹の横笛だった。


黒ずんでいる。

艶もなく、ところどころ細かな傷がある。

ただ、折れてはいなかった。


六郎が身をかがめる。


「……これか」


「ええ」


「どこで拾ったんです」


「川沿いの古道具市」


「古道具市?」


「木曽川で拾ったものを売る人がいるの」


六郎は眉をひそめた。


「そんなの、よく買いましたね」


「買ったんじゃないわ」


百合は笛を見下ろした。


「持ち主が、三日後に水路で見つかったの」


六郎は息を呑んだ。


百合は続ける。


「だから預かったの」


言い方が変だった。

警察でも遺族でもない人間が、「預かった」と言うにはあまりに自然すぎた。


六郎が何か言おうとした、そのとき。


――ピィィ……


音がした。


細い。


長い。


川の方からだった。


六郎は反射的に振り向く。


「……聞きました?」


百合は頷いた。


「ええ」


「今の……」


「まだ見ないで」


「見ないって」


「川を」


百合の声が急に鋭くなる。


六郎は言われるまま顔を戻した。


百合は笛を祠の中へ入れる。

石に当たって、軽い音が鳴った。


カタン。


その直後。


――ピィィ……


今度は、少し近く聞こえた。


六郎の喉がひりつく。


「祠に入れましたよね」


「ええ」


「じゃあ何の音です」


百合は立ち上がる。


「祠に戻すのは笛だけだから」


六郎は意味がわからなかった。


「笛だけって」


百合が言う。


「本当に来るのは、音を返した人の方なの」


六郎は一瞬、何を言われたのかわからなかった。


だがその瞬間、足元が妙に冷たいことに気づいた。


見ると、靴先が濡れている。

堤防の上にいるはずなのに。

水があるはずがないのに。

足をわずかに動かすと、ぐち、と泥を踏むような音がした。



ザァァ……


ザァァァ……


川の音が、急に近くなった。


耳元ではない。

もっと下、足のすぐそばで水が動いている音だ。


六郎の全身から血の気が引く。


「……何だ、これ」


百合が六郎の腕をつかんだ。


その手はひどく冷たかった。


「私だけ見て」


「は?」


「いいから」


百合の目は真っ直ぐだった。

さっきまでの静かな調子ではない。

慣れている人間の目だった。


――ピィィ……


音がまた鳴る。


今度は背後から、すぐ近くで。


六郎は見たくなる。


何がいるのか。

本当に何かいるのか。

ただの思い込みではないのか。


その欲求が、首を持ち上げようとする。


六郎は必死で視線を百合に固定した。


「木曽川はね、人の声や笛を攫うだけじゃないの」


「……」


「返してくるの」


――ピィィ……


「そっくりに」


六郎の背中のすぐ後ろで、草がかすかに分かれる音がした。


濡れた足音はしない。

ただ、何かがそこに立ったとわかる気配だけがある。


六郎の呼吸が浅くなる。


百合がゆっくり後ずさる。

その分だけ六郎も下がる。


「昔、曾祖母が言っていたわ」


「……」


「最初に消えた笛吹きの子は、木曽川の怪異に攫われたんじゃない」


「じゃあ……」


百合は静かに言う。


「木曽川の怪異に、なったの」


六郎は息を止めた。


「この川はね、呼び声に返した人を覚えるの」


――ピィィ……


「そして次の音を、吹かせるのよ」


六郎の喉が勝手に動きそうになる。


口をすぼめ、息を整え、音を返したくなる。


自分の意思ではない。


「口を閉じて」


百合が鋭く言う。


六郎は慌てて唇を噛んだ。


鉄の味がした。


すると背後の気配が、少しだけ遠のいた。


百合が一歩、また一歩と堤防の下り坂の方へ誘導する。


「歩いて」


六郎も足を動かす。


土の感触のはずなのに、ときどき浅い水際を踏むようなぬるさが混じる。

見なくてもわかる。

今、川が近くなっている。


「百合さん」


「なに」


「なんで俺なんです」


百合は一瞬だけ黙った。


それから言った。


「あなた、音を返しそうな顔をしていたから」


「それ、最悪の理由じゃないですか」


百合は少しだけ口元を和らげた。


「だから古本屋に行ったの」


その言い方が奇妙だった。


やがて堤防の下りへ差しかかったところで、ふっと川の音が遠のいた。


ザァァ……


ザァ……


元の距離に戻る。


六郎はその場で大きく息を吐いた。


振り返る勇気はなかった。


百合も振り返らない。


「もう大丈夫」


「……本当ですか」


「今夜は」


六郎はその「今夜は」が嫌だった。



車に戻るまで、二人ともあまり喋らなかった。


ようやく運転席に乗り込んでから、六郎が訊く。


「百合さん」


「なに」


「さっきの、あれは何なんです」


百合は窓の外の闇を見ながら答えた。


「木曽川の本当の怪異」


「だからそれが」


百合は言う。


「水死した人でも、笛吹きの幽霊でもない」


「……」


「木曽川は、返事をした人を水の側へ引き寄せるの」


六郎は黙る。


百合は続けた。


「最初は、笛で」


「最初?」


「そのうち、笛じゃなくてもよくなる」


六郎の手がハンドルの上で強張る。


「どういう意味です」


「線路の音でも、風の音でも、誰かの呼ぶ声でも」


百合はそこで、初めて六郎の方を見た。


「一度“近くなった”人には、どこででも近くなるの」


その言葉だけが、妙にはっきり胸に残った。



その夜、六郎は自室で眠れなかった。


灯りを消したあとも、木曽川の匂いが鼻についた。

もちろん気のせいだ。

服に草の匂いがついただけかもしれない。


だが夜半を過ぎたころ、はっきり聞こえた。


――ピィィ……


六郎は飛び起きた。


音は枕元からだった。


部屋の中は暗い。

何も見えない。


けれど、何かがしゃがんでいる気配だけがあった。


六郎は息を呑む。


その瞬間、喉の奥が勝手に息を整えようとした。


音を返すために。


百合の言葉が脳裏をよぎる。


口を閉じて。


六郎は両手で口を押さえた。


――ピィィ……


また鳴る。


今度は部屋の隅からだ。


床が、じわりと湿っていく気がする。

裸足の裏が冷たい。


そのとき、スマートフォンが震えた。


画面には、百合の名前。


六郎は震える手で通話を取る。


「……もしもし」


受話器の向こうで、百合は落ち着いた声で言った。


「聞こえる?」


「聞こえる」


「返してないわね」


「返してない」


「よかった」


その声の向こうでも、風と水の音がしていた。

まるで百合がまだ川のそばにいるみたいだった。


「六郎」


「……何です」


「今夜は窓を開けないで」


「開けてない」


「名前を呼ばれても返事をしないで」


六郎は部屋の隅を見た。


見えない。

でもいる。


「百合さん」


「なに」


「最初から、こうなるってわかってたんですか」


少し沈黙があった。


それから百合は、やわらかく言った。


「だから、会いに行ったのよ」


六郎は凍りつく。


古本屋での偶然。

雨の夕方。

ちょうどよかった、という言葉。


あれは偶然じゃなかったのか。


百合が続ける。


「あなたはたぶん、もう一度聞くから」


「……」


「その前に、木曽川のことを知っておいてほしかったの」


電話が切れたあとも、六郎はしばらく動けなかった。


やがて部屋の湿り気は消え、気配も薄れていった。


だが朝になっても、枕元だけは妙に冷たかった。



それから四日後。


踏切待ちをしていた六郎の耳元で、ふいに聞こえた。


――ピィィ……


風もない夕暮れだった。


だが線路脇の砂利が、なぜか濡れて見えた。


六郎はゆっくり右手を見る。


指先が、何か細いものをつまむ形になっていた。


まるでそこに、見えない笛があるみたいに。


そのとき、スマートフォンが震えた。


百合からの短いメッセージだった。


「聞こえても、まだ返さないで」


六郎はその文面を見つめた。


まだ、という字だけが妙に引っかかった。


まるでいつかは返すことになる、とでも言うみたいに。


夕暮れの踏切で、遠くもないのに木曽川の水音がした。


ザァァ……


ザァァ……


その日から六郎は知った。


あれは、ただの出会いではなかったのだと。

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