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七十二候 ― 籠目屋商店怪異録 ―  作者: 宇佐美夕日


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1/3

出会い 一


六郎が宇喜田百合という女の名前を初めて聞いたのは、秋雨の降る夕方だった。


町外れの古本屋で、店番の老人が何の脈絡もなく口にしたのだ。


「お前さん、夜道を歩くことがあるなら、宇喜田さんとこの娘には気をつけなさい」


六郎は文庫本を棚へ戻しながら、「誰ですか、それ」と聞いた。


老人はレジの奥で湯呑を持ったまま、少し嫌な顔をした。


「誰ってほどでもない。たまに来る」


「何を気をつけるんです」


「気をつけた方がいい、というだけだ」


妙な言い方だった。


六郎はそのとき、それ以上追及しなかった。

老人がそういう話しぶりをすることは時々あったし、町には変わった人間が一人や二人いる。


ただ、その日の帰り際、店の引き戸を開けた向こうに、その女は立っていた。


黒い傘を差していた。


雨の夕方で、空も道も薄暗いのに、その女だけが妙に輪郭をはっきり持って見えた。


年は六郎と同じくらいか、少し上に見えた。

黒髪を後ろでゆるくまとめて、白いシャツにデニム。古びたカーディガンを羽織っている。


女の周りだけ、雨音が少し遠かった。


女は六郎を見ると、少しだけ目を細めた。


「……あなた」


声は静かで、けれど相手の足を止める力があった。


「はい?」


「ちょうどよかった」


まるで前から約束でもしていたような言い方だった。


六郎は戸口に立ったまま、女を見る。


女は傘を傾け、軽く会釈した。


「宇喜田百合です」


六郎は一瞬、店の老人の言葉を思い出した。


「ああ……」


それしか言えなかった。


百合は続けた。


「今夜、お時間あるかしら」


初対面の相手に言うには妙な言葉だった。


六郎は思わず笑ってしまった。


「ずいぶん急ですね」


「急なの」


「何か用ですか」


百合は少し考えるようにしてから、答えた。


「川まで付き合ってほしいの」

「そう、木曽川まで」


六郎は聞き返した。


「木曽川?」


「ええ」


「なんでまた」


百合は一拍おいて、


「笛を戻しに」


と言った。


その言葉が変だったのは、意味がわからないからではなかった。

意味はわかる。

だが、初対面の女が雨の古本屋の前で言うことではない。


六郎は断るつもりだった。


だがそのとき、店の老人が奥から咳払いして、


「行ってやれ」


と口を挟んだ。


六郎は振り向く。


「いや、でも」


「お前さんの方がいい」


老人はそう言って、百合の方を見なかった。


六郎は意味がわからず眉をひそめたが、百合の方は当然のような顔をしていた。


「車、出せる?」


「……出せますけど」


「よかった」


百合はそれだけ言った。


その「よかった」が、妙にまずいことを引き受けてしまった気分にさせた。



夜の八時を回ってから、六郎は百合を迎えに行った。


宇喜田家は川沿いの古い家だった。

屋敷というほどではないが、昔からそこにあるとわかる家で、門柱も庭木も、雨に濡れて黒く沈んでいる。


玄関先で待っていた百合は、細長い風呂敷包みを抱えていた。


昼間と同じ、白いシャツ、デニム、古びたカーディガンを羽織った姿だった。

傘は差していなかった。

雨はもう止んでいたが、夜気は湿って冷たい。


「すみません、遅くなりました」


「いいえ」


百合は車に乗り込むと、膝の上に包みを置いた。


六郎はエンジンをかけながら、その包みをちらりと見る。


「それが笛ですか」


「ええ」


「見ても?」


百合は首を横に振った。


「まだ」


「まだ?」


「川に着いてから」


六郎は少し苦笑した。


「もったいぶりますね」


百合は窓の外を見たままだった。


「そういうものでもないのだけれど」


車が走り出す。


街の灯りがだんだん減り、道が暗くなる。

フロントガラスの向こうに堤防の黒い線が見えたとき、六郎は訊いた。


「百合さんって、古本屋の人と知り合いなんですか」


「ええ」


「さっき俺のこと、知ってるみたいに話してましたよね」


「そうだったかしら」


「そうでしたよ」


百合は少しだけ微笑んだ。


「あなた、断りきれない顔をしていたもの」


「そんな理由ですか」


「十分でしょう」


六郎は鼻で笑ったが、その横顔を見ていると、冗談を言われているのかどうかよくわからなかった。


しばらくして、六郎はまた訊いた。


「笛って、誰のものなんです」


百合は答えた。


「木曽川のもの」


「いや、そういうことじゃなくて」


「そういうことよ」


六郎はハンドルを握り直した。


「……ますます意味がわからないな」


百合は包みの上に指先を置いた。


「わからない方が、今夜はいいかもしれないわ」


その言い方だけで、車の中の空気が少し冷えた気がした。



堤防の下の道に車を停めると、あたりは思った以上に暗かった。


遠くに橋の灯が見える。

だがこちら側には街灯がほとんどない。


エンジンを切ると、すぐに川の音が聞こえてきた。


ザァァァ……


ザァァァ……


ただの水音のはずなのに、ずっと耳の奥を擦るような音だった。


百合が言う。


「ここから歩くわ」


六郎は車を降りた。


夜の空気は川の匂いを含んでいた。

湿った土と、草と、少し古い水の匂い。


「祠は遠いんですか」


「少し」


「そうですか」


百合は風呂敷包みを抱えたまま、堤防を登り始めた。


六郎も続く。


草が足に触れる。

夜露で濡れている。


登りきると、木曽川のある方角が一面の闇だった。

川面は見えない。

ただ、何もないはずのそこだけが、深く口を開けているように暗い。


百合は迷いなく歩いた。


六郎は横に並びながら言う。


「なんで祠の場所を知ってるんです」


「教わったの」


「誰に」


百合は少し黙った。


それから、


「曾祖母に」


と答えた。


六郎は少し安心した。

やっと人間らしい答えが出てきた気がした。


「その曾祖母さんが、笛のことも?」


「ええ」


「どういう話なんです」


百合は前を見たまま、ゆっくり話し始めた。


「昔、このあたりには渡しがあったの」


「渡し舟の?」


「そう。橋が今みたいにない頃ね」


風が吹く。


草がざわめく。


百合の声はその隙間を縫うように続いた。


「渡し守に息子がいた。笛の上手な子だったそうよ」


六郎は黙って聞く。


「夕方になると堤で笛を吹いて、人を待つ者たちはそれを聞いていた」


「風流ですね」


「ええ。最初は」


百合の言葉が少しだけ沈む。


「でも、ある晩、その子はいなくなった」


「川に落ちたとか?」


「そういうことになっているわ」


六郎は苦笑する。


「ずいぶん濁しますね」


百合は答えない。


少ししてから言った。


「遺体は見つからなかった」


六郎は夜の川を見る。


見えない。

何も見えないはずなのに、そこに何かいる気がする。


「それから?」


百合は言う。


「夜の川で、笛の音が聞こえるようになった」


「怪談ですね」


「ええ」


「その子の幽霊が吹いてるとか」


百合はそこで、初めてはっきり六郎を見た。


「そう思う?」


その目が、妙に冷たく感じた。


六郎は少し言葉に詰まる。


「……違うんですか」


百合は前に向き直った。


「木曽川の怪異は、幽霊じゃないの」


その言い方に、六郎の喉が小さく鳴った。


「じゃあ、何です」


百合は答えた。


「川が、人の息を覚えるの」


六郎は思わず笑った。


「詩みたいな言い方ですね」


「そうかしら」


百合は少しも笑わなかった。


「川辺で吹かれた音は、水の上を長く残るの。風より長く、声より深く」


「……」


「それが夜になると、帰ってくる」


六郎は黙る。


百合は静かに続けた。


「最初に消えた笛吹きの子は、呼ばれたんじゃない」


「吹き返したの」


風が止んだ。


その瞬間、川の音だけがやけに大きくなった。


ザァ……


ザァ……


六郎は自分でもわからないまま、歩く速度を落としていた。


「どういう意味です」


「川から笛の音がしたのよ」


「……」


「それで、堤から音を返した」


六郎の背中が冷える。


「そしたら?」


百合は静かに言った。


「近くなったの」


「何が」


「川が」


それ以上、六郎は笑えなかった。


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