出会い 一
六郎が宇喜田百合という女の名前を初めて聞いたのは、秋雨の降る夕方だった。
町外れの古本屋で、店番の老人が何の脈絡もなく口にしたのだ。
「お前さん、夜道を歩くことがあるなら、宇喜田さんとこの娘には気をつけなさい」
六郎は文庫本を棚へ戻しながら、「誰ですか、それ」と聞いた。
老人はレジの奥で湯呑を持ったまま、少し嫌な顔をした。
「誰ってほどでもない。たまに来る」
「何を気をつけるんです」
「気をつけた方がいい、というだけだ」
妙な言い方だった。
六郎はそのとき、それ以上追及しなかった。
老人がそういう話しぶりをすることは時々あったし、町には変わった人間が一人や二人いる。
ただ、その日の帰り際、店の引き戸を開けた向こうに、その女は立っていた。
黒い傘を差していた。
雨の夕方で、空も道も薄暗いのに、その女だけが妙に輪郭をはっきり持って見えた。
年は六郎と同じくらいか、少し上に見えた。
黒髪を後ろでゆるくまとめて、白いシャツにデニム。古びたカーディガンを羽織っている。
女の周りだけ、雨音が少し遠かった。
女は六郎を見ると、少しだけ目を細めた。
「……あなた」
声は静かで、けれど相手の足を止める力があった。
「はい?」
「ちょうどよかった」
まるで前から約束でもしていたような言い方だった。
六郎は戸口に立ったまま、女を見る。
女は傘を傾け、軽く会釈した。
「宇喜田百合です」
六郎は一瞬、店の老人の言葉を思い出した。
「ああ……」
それしか言えなかった。
百合は続けた。
「今夜、お時間あるかしら」
初対面の相手に言うには妙な言葉だった。
六郎は思わず笑ってしまった。
「ずいぶん急ですね」
「急なの」
「何か用ですか」
百合は少し考えるようにしてから、答えた。
「川まで付き合ってほしいの」
「そう、木曽川まで」
六郎は聞き返した。
「木曽川?」
「ええ」
「なんでまた」
百合は一拍おいて、
「笛を戻しに」
と言った。
その言葉が変だったのは、意味がわからないからではなかった。
意味はわかる。
だが、初対面の女が雨の古本屋の前で言うことではない。
六郎は断るつもりだった。
だがそのとき、店の老人が奥から咳払いして、
「行ってやれ」
と口を挟んだ。
六郎は振り向く。
「いや、でも」
「お前さんの方がいい」
老人はそう言って、百合の方を見なかった。
六郎は意味がわからず眉をひそめたが、百合の方は当然のような顔をしていた。
「車、出せる?」
「……出せますけど」
「よかった」
百合はそれだけ言った。
その「よかった」が、妙にまずいことを引き受けてしまった気分にさせた。
⸻
夜の八時を回ってから、六郎は百合を迎えに行った。
宇喜田家は川沿いの古い家だった。
屋敷というほどではないが、昔からそこにあるとわかる家で、門柱も庭木も、雨に濡れて黒く沈んでいる。
玄関先で待っていた百合は、細長い風呂敷包みを抱えていた。
昼間と同じ、白いシャツ、デニム、古びたカーディガンを羽織った姿だった。
傘は差していなかった。
雨はもう止んでいたが、夜気は湿って冷たい。
「すみません、遅くなりました」
「いいえ」
百合は車に乗り込むと、膝の上に包みを置いた。
六郎はエンジンをかけながら、その包みをちらりと見る。
「それが笛ですか」
「ええ」
「見ても?」
百合は首を横に振った。
「まだ」
「まだ?」
「川に着いてから」
六郎は少し苦笑した。
「もったいぶりますね」
百合は窓の外を見たままだった。
「そういうものでもないのだけれど」
車が走り出す。
街の灯りがだんだん減り、道が暗くなる。
フロントガラスの向こうに堤防の黒い線が見えたとき、六郎は訊いた。
「百合さんって、古本屋の人と知り合いなんですか」
「ええ」
「さっき俺のこと、知ってるみたいに話してましたよね」
「そうだったかしら」
「そうでしたよ」
百合は少しだけ微笑んだ。
「あなた、断りきれない顔をしていたもの」
「そんな理由ですか」
「十分でしょう」
六郎は鼻で笑ったが、その横顔を見ていると、冗談を言われているのかどうかよくわからなかった。
しばらくして、六郎はまた訊いた。
「笛って、誰のものなんです」
百合は答えた。
「木曽川のもの」
「いや、そういうことじゃなくて」
「そういうことよ」
六郎はハンドルを握り直した。
「……ますます意味がわからないな」
百合は包みの上に指先を置いた。
「わからない方が、今夜はいいかもしれないわ」
その言い方だけで、車の中の空気が少し冷えた気がした。
⸻
堤防の下の道に車を停めると、あたりは思った以上に暗かった。
遠くに橋の灯が見える。
だがこちら側には街灯がほとんどない。
エンジンを切ると、すぐに川の音が聞こえてきた。
ザァァァ……
ザァァァ……
ただの水音のはずなのに、ずっと耳の奥を擦るような音だった。
百合が言う。
「ここから歩くわ」
六郎は車を降りた。
夜の空気は川の匂いを含んでいた。
湿った土と、草と、少し古い水の匂い。
「祠は遠いんですか」
「少し」
「そうですか」
百合は風呂敷包みを抱えたまま、堤防を登り始めた。
六郎も続く。
草が足に触れる。
夜露で濡れている。
登りきると、木曽川のある方角が一面の闇だった。
川面は見えない。
ただ、何もないはずのそこだけが、深く口を開けているように暗い。
百合は迷いなく歩いた。
六郎は横に並びながら言う。
「なんで祠の場所を知ってるんです」
「教わったの」
「誰に」
百合は少し黙った。
それから、
「曾祖母に」
と答えた。
六郎は少し安心した。
やっと人間らしい答えが出てきた気がした。
「その曾祖母さんが、笛のことも?」
「ええ」
「どういう話なんです」
百合は前を見たまま、ゆっくり話し始めた。
「昔、このあたりには渡しがあったの」
「渡し舟の?」
「そう。橋が今みたいにない頃ね」
風が吹く。
草がざわめく。
百合の声はその隙間を縫うように続いた。
「渡し守に息子がいた。笛の上手な子だったそうよ」
六郎は黙って聞く。
「夕方になると堤で笛を吹いて、人を待つ者たちはそれを聞いていた」
「風流ですね」
「ええ。最初は」
百合の言葉が少しだけ沈む。
「でも、ある晩、その子はいなくなった」
「川に落ちたとか?」
「そういうことになっているわ」
六郎は苦笑する。
「ずいぶん濁しますね」
百合は答えない。
少ししてから言った。
「遺体は見つからなかった」
六郎は夜の川を見る。
見えない。
何も見えないはずなのに、そこに何かいる気がする。
「それから?」
百合は言う。
「夜の川で、笛の音が聞こえるようになった」
「怪談ですね」
「ええ」
「その子の幽霊が吹いてるとか」
百合はそこで、初めてはっきり六郎を見た。
「そう思う?」
その目が、妙に冷たく感じた。
六郎は少し言葉に詰まる。
「……違うんですか」
百合は前に向き直った。
「木曽川の怪異は、幽霊じゃないの」
その言い方に、六郎の喉が小さく鳴った。
「じゃあ、何です」
百合は答えた。
「川が、人の息を覚えるの」
六郎は思わず笑った。
「詩みたいな言い方ですね」
「そうかしら」
百合は少しも笑わなかった。
「川辺で吹かれた音は、水の上を長く残るの。風より長く、声より深く」
「……」
「それが夜になると、帰ってくる」
六郎は黙る。
百合は静かに続けた。
「最初に消えた笛吹きの子は、呼ばれたんじゃない」
「吹き返したの」
風が止んだ。
その瞬間、川の音だけがやけに大きくなった。
ザァ……
ザァ……
六郎は自分でもわからないまま、歩く速度を落としていた。
「どういう意味です」
「川から笛の音がしたのよ」
「……」
「それで、堤から音を返した」
六郎の背中が冷える。
「そしたら?」
百合は静かに言った。
「近くなったの」
「何が」
「川が」
それ以上、六郎は笑えなかった。




