旅は道連れ 世は情け4
床に杖先が当たった瞬間、青白い光が出現してファザの足元から風が吹き上がる。彼女はゆっくりと目を細めた。
「ふむ、呪詛の類だが。俺もこんなに複雑なものは初めてだな」
再びファザが木杖を鳴らすと、冬太のシャツがはだけて首元が露わになる。
「これは、いばらの文様か。棘、トゲ、苦痛、束縛……ふむ」
ファザは瞳を開いて、後方の私たちを振り返った。
「この呪い師は彼に執着心を抱いているようだ。よほど彼を自分へ縛っておきたいのだな」
「あの、冬太……友人は助かりますか?」
私はおずおずとした声を発した。
「彼は深い眠りに落ちているだけだ。しかし、この男児はこの世の者とは思えないぞ。マナの形が特異だ」
「マナは魔法力の源でしたよね?」
「ああ、そうさ。マナの形には個人差があるものなのだが……、彼の様なものを目にしたのは初めてだ」
ファザが険しい表情をしているので、私は冬太が異世界の日本人であることを告げる。
「ほう、別の世界。なるほど、あの夢想の意味が少々解けたな」
「夢、ですか?」
なんの話だろうと首を傾げると、ファザは瞼を閉じた。
「お告げのようなものさ。昨年には世界が消える予言を与えられた。それを回避したというのは、シャーデンから聞いているよ。しかし最近はな、星人の夢を見るのだ」
――星人。聞き慣れない単語だと、私はファザを見つめて次の言葉を待つ。
「流星に乗って未知の族種が次々に現れる。それは決して良い前兆ではない。そうして、ある一つの星人によって世界は終焉を迎えるのだ。そう、夢想はそれを示唆している」
「それって、また世界が滅ぶという事ですか?」
終焉と聞いて、私は不安な気持ちに支配された。息苦しくなって手を胸に当てる。
「あくまでも可能性の話だけどね。――ルリ君、世界というのはすぐに滅んだりするのさ」
彼女の言うことがどういう意味なのか分からない。
そう思っていると、ファザは片手を大きく広げた。そこに長細い形の果実が一つ現れる。
「今の俺は、これを食べる選択も、食べない選択も出来る」
ファザは果実を豪快にかじった。
「こうすると、食べなかったという未来は消失した。これは俺の勝手な思想だが、世界は皆の選択の上で構築されている。君たちが俺を訪ねてくるという小さな決意をした時ですら、世界は姿を変えたのだ。選択し得なかった世界は滅びてしまった」
どうやらファザは哲学的な思考の持ち主のようだ。その思想は、私には複雑過ぎて頭を悩ませてしまう。
「難しい事を言ったな。こういう考えは深みにはまり易いから、推奨しない。君はもっと簡単な思考でいいんだ。……つまり俺が言いたい事は、滅びや生死に対して過敏にならなくていいということさ。執着は恐ろしいよ、この呪のようにね」
ファザはそう言って冬太を見た。
「強固に絡んだ糸でも、俺なら解く事は困難じゃない。だが、場合によってはそれが負を招いたりもするのさ。なんでも祓えばいいってものじゃないだろう。ルリ君。俺に考えがあるのだが、良ければ任せて貰えないか?」
「はい、お願いします」
冬太を救えるならばと頷いた。ファザは微笑むと木杖の先、宝石が付いた部分を冬太の首元へかざす。すると突如、強風が吹き荒れて私は目を強く瞑った。
「わっ」
気付くと辺りが黒色のいばらで覆われている未知の空間に立っている。
そっと肩を掴まれてビクリとした。振り返るとそれはファザである。
「見てごらん」
彼女が指す方を見ると、トゲのある太い幹のようなものがうじゃうじゃと蠢いている。その中に女性が足を丸めて座っているのがちらりと見えた。
「あれが呪の根源だ」
「根源?」
「ああ、力の源だな。あれを消し去れば、彼の呪詛は解ける。簡単な事さ」
「私、彼女と話がしてみたいんです。側まで行けませんか?」
「俺は無理だが、君なら行けるさ」
そう言ってファザは私の腕を掴んだ。袖を捲られると、そこから金の腕輪が姿を見せる。
「さぁ、歩み出して」
頷いてから足を動かしてみる。トゲの上なのにするすると進み、導かれるように女性の側へ遣ってきた。私は、うごめくいばらの間から彼女へ声をかける。
「あなたは文珠さんですか?」
女性は顔を上げないまま小さく声を上げた。
「有り難う、冬太を別の世界へ連れてきてくれて。とても感謝しているわ。此処なら誰も彼を傷つけないで済むし、貴女ともお話が出来るかしらと思っていたの」
私は彼女にどうすれば冬太を助けられるのか問いかけてみた。しかし、文珠は何も答えない。
「文珠さんはどうしてこんな所に居るんですか?」
「……そうね。彼を助ける為かしら」
「冬太に陰陽師の力を与えているのはあなたですよね。でもどうして冬太に嘘を教えたんですか?」
これは一番気になる事でもあった。日本で道成が陰陽師のことに関して嘘を言っていたようには思えなかったからだ。
「私はいつだって無力よ。彼に何もしてあげることが出来なかった」
「それってどういう……」
「ねぇ、貴女は知っているかしら、日本は複数の神々が複合して創造したものなの。朧にも会ったのではなくて?」
「朧さんって、やっぱり神様だったんだ」
予想はしていたが、本当にそうだったとは驚きである。私が頭を悩ませていると声がかかる。
「南島羽里さん、お願いがあるの」
文珠は未だ顔を上げない。三角座りでうずくまったまま、じっとしている。
「何ですか?」
「このまま、日本に帰らないで欲しいの」
「……え?」
「あれはもうじき滅びるのよ。もう救おうなんて考えないで、私たちはここに残りましょう」
その言葉に眉を潜める。彼女は静かに言葉を続けた。
「あの世界では、彼を負の運命から救うことは出来ない。でもこの世界なら安全だし、貴女も冬太と居られて嬉しいでしょう?」
「そんな……」
「貴女は、元来ここで生きている。それならば、この世界があれば十分ではなくって? 日本と冬太のどちらかしか選べないの。だから、お願いよ」
そう懇願されたが、私は首を縦には振らなかった。容易に『冬太』を選択もできないし、道成や人々が生きている世界を滅びに導くなんてこともできない。
「そんなこと簡単には選べません」
「どうして分かってくれないの?」
悲しみに溢れた声がする中で、私は思考を巡らせて結論を出した。
「私、どちらのお願いも受けます。冬太も助けるし、日本も救ってみせる。冬太だって、自分のせいで世界が滅んだなんて知ったら絶対に悲しむよ。優しい人だから」
彼女は何も言わなかった。ただじっと座っていたが、やがて震える声色で呟いた。
「本当に?」
「はい。私には仲間がいっぱい居るんです。一人で無理でも皆と一緒なら絶対できます。もちろん冬太とだって力を合わせるから、文珠さんも諦めないで下さい」
「……そうね、有り難う」
文珠はそう言って顔を上げた。目元が冬太と似ているような気がする。
そんなことを思った瞬間、目映い光に包まれて、目を開くと元の部屋にいた。
「お帰り。どうだい、話は出来たかな?」
肩に触れられて意識がようやくはっきりとした。
「はい。ありがとうございました」
「おや、顔つきが変わったかな。とっても俺好みだ」
ファザは柔和に微笑んでから言葉を続ける。
「さぁ、次はどうしようか」
「冬太を目覚めさせることは出来ますか?」
「ああ、無論だ」
ファザはそう言うと、冬太の体に木杖を翳してから、杖先で床をコンコンと突いた。
「おはよう、トウタ君」
彼女がそう言うと、冬太がうーんと唸って上半身を起こした。私は嬉しくなって思わず彼に抱きつく。
「はっ、なに!? 誰やって……まさか、南島かっ?」
「良かった。辛くない? 痛いところは?」
腰元を強く抱き締めていると、苦しいのか冬太の顔がだんだん赤くなっていく。
「大丈夫やから放しや!」
どうやら彼は元気そうなので良かった。そっと体を離す。
「南島、何やその格好……髪の色もちゃうし、ってかそれ。角、マジで生えてんかっ」
「ふふふ、だから言ったでしょ。私、魔王なんだって」
「仮装とちゃうのんか? だってありえへん……」
そこで冬太は辺りを見回した。部屋を見てからファザやタンジェリーンに視線を送る。
「え、あ……もしかしてここ。前に言っとった異世界なん?」
「うん、そうだよ」
頷くと冬太は頭を抱えた。
「異世界なんか、ありえへん。夢や夢、現実やない」
そんな反応をする冬太が面白くてクスクス笑っていると、ファザが眉を寄せながら迫ってきた。
「ルリ君、君が発しているのは何語だい? この世に俺の知らない言語があるなんて」
ファザは憤慨した態度で木杖を床に打ち付けている。私がすかさず日本語だと答えると、彼女はすごい気迫で顔を近づけてきた。
「是非、拾得したい。俺に教えてくれるよな?」
ファザは有無を言わさないという態度である。
私が「はい」返事をすると彼女は満足そうに笑む。ひとまず機嫌を直してくれたようだ。
「この人、なんで怒ってんの……」
冬太が呆然と呟く。私が苦笑して頬を掻いていると、タンジェリーンが無表情のままで口を開いた。
「トゥリよ。今後、我々はどうするのダ?」
「うん。これからどうするか皆と相談したいの。道成さんも心配しているだろうし、とりあえず魔王城に戻ろう」
ファザは神妙な顔つきで声を上げた。
「ふむ、俺が協力できるのはどうやらここまでのようだな」
「ファザさん、本当にありがとうございました。私たちは帰ります」
彼女は「ああ、またいつでも訪ねておいで」と握手をしてくれた。
冬太を連れて外へ出ると、赤竜化したタンジェリーンの背に乗る。
そのまま空に舞い上がると彼は身を縮めながら、震えるような小声で呟き続ける。
「ドラゴンって……飛んどるなんて……嘘や。そうこれは幻で夢。起きろ、目覚めるんや、俺ッ。さ、最悪死ぬで……」
赤竜は夕暮れの中を滑るように飛行する。タンジェリーンの疲労状態が心配になって声をかけた。
「タンジェリーン、ごめんね。疲れてない?」
「ハハハ。此の程度、全く問題は無イ」
タンジェリーンは珍しく豪快に笑う。そんな彼の態度に安心してから、遙かに広がる空を仰いだ。
これからが正念場である。私は頬をバシバシと叩いて気合いを入れた。
「南島、大丈夫なんか?」
飛行していることだろうか? 私は彼に心配をかけないように笑顔を向けた。
「うん、大丈夫。落ちたりしないよ」
「ちゃうって、そういう事じゃないねん。南島、俺が寝てる間に文珠と話したやろ」
「え、知ってたの?」
「いや、そんな気がしただけや。でも、なんか変な感じやねん。不安ちゃ不安やねんけど……」
どういう意味だろう。私はそう聞き返そうと口を開こうとした。
しかし、それはタンジェリーンの「トゥリ!!」という怒号でかき消された。
「なっ、なにこれ!?」
頭上に黒い霧が広がっていく。それはやがてブラックホールのような渦巻き状のものとなる。
私が悲鳴を上げる前に体が宙へと舞い上がり、冬太と共にそれに吸い込まれた。