疑心、暗鬼を生ず1
ブラックホールのようなものに吸い込まれたはずなのに気づいたら魔王城の『謁見の間』にいた。
見慣れた玉座の前で私はただ一人、佇んでいた。そうしていると初めて異世界へ飛ばされて来た頃の不安な気持ちを思い起こしてしまう。
複雑な思いを抱えていると、謁見の間の扉が開いて見慣れた白髪の男が現れた。
シャーだ。彼は驚いた様子でこちらを見ると大声を上げる。
「貴様、そんな所でなにをしている!」
「シャー、ただいま。そんな怖い顔して、どうかしたの?」
「まさか、そんな事が」
シャーは目を見開いてこちらを見ると、いそいそと側に寄ってきた。
「――まさかルリ様なのですか? お嬢様、お帰りになったのでございますか。本当にルリ様なのですか!?」
「そうだけど。シャー、どうしたの。頭でも打った?」
シャーは豪快に涙を流し始めた。先ほどからの言動といい、一体彼はどうしたというのか。
「ご無事で良うございました。リフィア様が、ルリ様をお迎えに何度かニッポンへ足を運んだのですぞ。ですが、お嬢様が見つからないのだとそれは嘆かれて……」
――リフィア。その名を聞いて私の脳内は混乱した。
母親は目の前で死んだ。そのことはシャーにも話をしているはずである。
「ちょっと、さっきから意味の分からないことばっかり言わないでよ。みんな、ハーティはどこ?」
「ハーティ、そう言えば斬首した罪人がそのような名をしていましたな。グレイト・ハーティド・レティド。本人は勇者だと言い張っておりましたが、たわいもない男でしてな」
シャーがそう言って微笑むので、ここが自分のいるべき世界ないことを少しずつ悟り始めた。
胸に手を当てると、ドキドキと脈打っている。呼吸が苦しくて荒い息をはいた。
「こ、ここはアバイドワールじゃないの?」
「ご安心下さい。アバイドワールで御座いますとも。リフィア様が、ルリ様をニッポンへ避難させた後、シューデル様とお力を合わせられて、祀族の王というグリーディネスを倒されました。お嬢様もこうして帰って来られましたし、全て丸く収まりましたな」
シャーがそう言って青白い手を伸ばしてくる。それが触れる前に後ずさった。
「……待って、嫌だ。なに、怖い。ここは何処なの」
「さぁ、参りましょう。皆、ルリ様のお帰りを心待ちにしておられました」
「嫌だ。こんなのアバイドワールじゃない。タンジェリーンは、冬太は。――皆はどこなの!?」
私は彼から逃れるように駆け出した。そのまま出口の扉へ向かう。背後からシャーが追いかけてくる気配がする。
ただ必死に走って扉に手をかけた。
――南島羽里。
そう声をかけられて、気づくとそこは薄暗い空間であった。
私の眼前には着物を着た中性的な人物がいる。朧だ。
「朧さん、今のは何ですか!」
「貴女の選択し得無かった世界を、模したものです」
朧はそう言って目を細めた。再び振り返ると、その光が小さくなって消えていく。
「あの世界は貴女の選択によって、未来へ動き出す。そのような可能性もありました。さぁ、これを御覧なさい」
朧が手を広げると、複数の光の玉が現れる。そこにはいろいろな映像が浮かんでは消えていく。覗き込むと見知った顔も写っているようだ。
「この世には、多くの可能性がある。この光の粒子は、いわば平行世界のようなもの」
そう言われて、何度も浮かんでは消える光の一つを見た。そこには見たこともない、私の知らない世界が広がっている。
「どうして、こんなことをするんですか」
「南島羽里にとっては両親が揃った故郷こそ至高ではないかと考えましたが……。どんな世界が貴女の理想なのでしょう」
――理想も何も私の世界は一つしかない。強い口調でそう言うと、朧は細い目をさらに糸のようにする。
「日本へとお戻りなさい。貴女には使命がある、違いますか?」
私が睨みつけると、朧は微笑んで手を振り上げる。そうすると、頭上から冬太が立ったままドスンと落ちてきた。
「何がっ、どうなったんや」
「冬太!」
彼の側へ寄ると、冬太は私を庇うような形で朧との間に身を躍らせた。
「お前、何者や」
朧は「知る必要はありません」と静かに返答する。私は服の袖を握り締めた。
「私は日本を救いたいと思ってるのに、こんなことされたらそれどころじゃ無くなります。朧さんは日本が大切なんでしょう。私はどちらの世界も大事なんです」
「二兎追う者は一兎も得られませんよ、南島羽里。貴女は日本を救いなさい」
「……勝手なことばっかり言わないで、あなたは日本以外がどうなってもいいの!」
朧がニコリとして頷く様子に目を見開いていると、冬太が「待ちや」と声を上げた。
彼の方を見ると、顔を赤らめながら歯を鳴らしている。
「――訳の分からんことばっかり起こる上に、なんやねん、お前は。南島の世界は南島のもんやろう。もう彼女を解放したれや!」
朧は何も発言せずただゆっくりと静かに首を横に振る。冬太は一歩前に出て距離をつめた。
「日本は俺が守ったる。それでええやろう」
「口で言うのは容易いでしょうが、実行に移すのは容易くはないのです。――もとより傀儡であるお前に何が出来るというのだ」
そこで食ってかかろうと足を踏み出した冬太の体は糸が切れた人形のように崩れた。
「なんやッ、これ……」
それには冬太自身も驚いたように悲鳴を上げる。その声は霞むように聞こえなり、朧はフフフと乾いた笑いのようなものを漏らす。
私も同じように、一歩踏み出した姿勢で体が動かなくなってしまった。声はかろうじて話せるようだが、首から下の方は硬直して動せない。
朧が嘆きめいた声を発する。
「一体どうすれば世界は姿を変えずに済むのでしょうか」
「どうして、日本が滅んでしまうのかも分からないのに朧さんは私に何を期待しているんですか?」
「貴女に日本を救うことが出来るのか、ワタクシにも疑問なのです。それでも貴女は最後の砦と言えるでしょう」
「そんなこと……」
「すぐに日本へ戻るならば、彼を解放しましょう」
朧は両手を袖口にしまってから冬太の方を見た。
――これが脅しであることは分かっている。自分が日本へ帰らなければ、何をするか分からない。私は静かに瞳を閉じた。
「すみません。今は出来ません」
「それでは彼はもう必要ありませんね」
私はぎゅっと唇を食いしばった。目を開けると朧は勝ち誇ったように口端を少し上げていた。
頭の中は冷え切った氷のように澄んでいた。冷酷な気持ちが胸の中を支配している。
「結局、朧さんもリフィアと同じだ。己や自身の世界のことしか考えていない」
そんな皮肉にも朧は動じない。私は息を大きく吸い込んでからゆっくりとはいた。
「冬太を解放してください。それから、一緒に日本を救う方法を考えましょう。貴女は世界をよりよくしたいと願って居るはずです」
朧は笑みを湛えたまま何も言わないが、私は臆さなかった。
強い視線を送り続けると、朧は徐々に困惑したような表情を見せ始めて着物の袖で口元を隠した。




