19 推しを誘拐? いいえ、福利厚生ですわ!
夕暮れ時のローデンベルグ侯爵家では主人の帰りを侯爵夫人と侍女達が迎えていた。
「おかえりなさい。お父様」
フランチェスカが、玄関ホールに顔を出すと、侯爵が柔和に笑った。
「そうだ、フランチェスカ。今日、魔塔に視察に行ったんだがな」
「ええっ! 私も行きたかったですわ!」
「何を言う。仕事だぞ」
「私も推し事です!」
「お前のオシゴトは普通じゃないだろう……いや、そうだな、あのノアという少年、最近ずいぶん落ち着いているらしいぞ」
「そうなんですの?」
フランチェスカは身を乗り出した。
「暴走回数も減ったそうだ。研究員たちが驚いていた」
「まあ! 今日一番の朗報ですわ!」
「それで、明日から一時的に一般棟へ移るらしい」
侯爵の口から推しの近況が出て、フランチェスカの目は明らかに輝いた。
「……お前、何かしたか?」
「何もしてませんわ〜」
フランチェスカは目を泳がせながらも、心の中でガッツポーズをする。
(ノア様のメンタルケアと労務管理のサポートはうまくいってるみたいね!)
◇◇◇
翌日の午後、フランチェスカがいつものようにテラスでお菓子を堪能していると、庭先で仕事をしながら浮き足立つ侍女達の姿が目に入った。
「今年も花祭り楽しみね。今年は東方の国から一風変わった、もの凄くワイルドな出店が来るらしいわよ」
「花冠作りも外せないわ。願い事を言えば花の妖精が叶えてくれるんですって」
「早く行きたいわね! 手分けして早めに仕事を終えちゃいましょう!」
その会話を聞いていたフランチェスカは、ふと手を止める。
——魔塔。地下室。魔導書。
頭の中に浮かぶのは、季節より数式と過ごしている推しの姿だった。
(そういえばノア様、お祭りとか絶対行った事ないわよね。毎日魔塔で魔導書とにらめっこして、季節の概念も薄いんじゃないかしら?)
フランチェスカはぽんっと、軽く手を打つ。
「推しに季節イベントを体験させなきゃじゃない!?」
思いついた名案に、フランチェスカはクッキーを口に放り込んだ。
(一般棟に移って自由も増えたんだし、お祭りくらい行けるわよね?)
「……ヨシ!」
「良くありません。お嬢様、お行儀が悪いですよ」
オルガの忠告は彼女の耳から光の速さで右から左に流れていった。
(今こそ、推しの福利厚生を手厚くする絶好のチャンス!)
思い立ったら即行動。元社畜の企画力と行動力を舐めてはいけない。
フランチェスカは「ごちそうさま」と立ち上がると、早速自室へ準備に取りかかりに向かった。
◇◇◇
夕日がわずかな赤い光を残し、月が輝きを取り戻そうとしていた。
その頃、ノアは新しく移った一般棟でも変わらず、いつもと同じように魔導書をめくっていた。
「……!」
不意に、不穏な気配を感じる。ノアはほとんど無意識に手を振り払うと、魔力の網が部屋を覆った。
「ぎゃ!」
「……えっ?」
思っていたのと違う反応が窓の外から聞こえる。
ノアはそっと魔力の糸を手繰った。
同時に窓の外で何かがぶらんと持ち上がる。
「ぎゃあああ!」
そこにいたのは、魔力の糸でぐるぐる巻きにされたフランチェスカだった。
「フランチェスカ? 何で君が?」
目をぱちくりさせてノアは固まった。
「ノア様! 誘拐に来ましたわ!」
セリフと姿が全く一致していない。
相変わらず彼女の行動は意味不明だ。
けれど、フランチェスカが現れると、胸の奥が少しだけ軽くなる。
それが何という感情なのか、ノアにはまだ分からなかった。
「ノア様、一般棟へ移られたお祝いをしましょう! 今こそ有給休暇を取るべき時です! お祭りへ行きましょう!」
「……祭り?」
何のことかわからないと言いたげに、ノアは瞳を揺らした。
「ええ! ですからその前に拘束を解いてくださいませ」
「ダメだよ」
「ダメなの!? え、あの、推しの魔力に包まれるのは最高のご褒美ですが、このままはちょっと……」
「違う。……外出は禁止されているんだ」
言いながらノアは、フランチェスカの拘束を解いた。
魔力の糸がほどける。
フランチェスカはすとんっと、床に着地する。
「禁止? そんなの関係ありませんわ! だって私、悪役令嬢ですもの!」
「……?」
戸惑ったようにフランチェスカを見つめ、ノアは瞳を揺らした。
「つまり誘拐ですわ! さぁ行きましょう!」
「あ……!」
ノアの手を掴んだフランチェスカの手は、とても熱かった。




