第8話 空白のタイムライン
翌朝の六本木は、昨夜の冷たい雨が嘘のように晴れ渡り、冬特有の突き抜けるような青空が広がっていた。
巨大なインテリジェントビルの裏手に伸びる、薄暗く湿った路地裏。
そこを通りかかったゴミ収集車の作業員が、側溝の近くで不自然に倒れている清掃着姿の女性を発見したのは、午前七時を少し回った頃だった。
数十分後には、路地裏の入り口に黄色い規制線が張られ、ブルーシートで覆われたその場所を、警察官たちが淡々とした手つきで調べ始めていた。
山田結子、三十四歳。
それが、ブルーシートの下で静かに息絶えていた女性の名前だった。
彼女の死は、事件発生からわずか半日後に、あっけない形で解決を見ることになる。
周辺の防犯カメラの映像から割り出された容疑者は、その日の夕方、隣の区のネットカフェに滞在していたところを捜査員によって身柄確保された。
逮捕されたのは、二十八歳のアルバイト店員の男だった。
彼と山田結子の間には、面識はおろか、SNS上での接点すら一切存在しなかった。当然である。彼はGhost In the Roomというアカウントの存在など知る由もなかったし、アイドルグループの炎上騒動にも全く関心のない人間だった。
警察の取り調べに対し、男はうつろな目でこう供述したという。
『職場の人間関係が上手くいかなくて、むしゃくしゃしていた。誰でもよかった。たまたま深夜の路地裏で、小柄な女とすれ違ったから、持っていたナイフで刺した。それだけです』
それだけ、だった。
そこに大義名分も、思想も、過去の行いに対する因果応報すらもない。ただ、行き場のない不満を抱えた男が、たまたま目の前を歩いていた人間にその衝動をぶつけただけ。文字通りの八つ当たりであり、完全なる無差別通り魔事件だった。
彼女は、ネットの海で匿名という安全圏から、他人の人生を社会のバグと呼び、正義の名の下に言葉の刃を振り下ろしていた。しかし、現実世界で彼女の命を奪ったのは、そんな彼女の過去に対する罰などでは決してなく、社会という巨大なシステムの中に無作為に発生した、別の無意味な暴力との偶発的な衝突によるものだったのだ。
彼女は、何か大きな物語の悪役として裁かれたわけではない。
ただ、名もなき暴力の通り道にたまたま立っていたというだけの、あまりにも唐突で、静かな死だった。
その数日後。
山田結子が寝泊まりしていた、清掃会社の簡素な寮の一室に、初老の社長が足を踏み入れた。
「まったく、急にいなくなられちゃ困るんだがな……。まあ、身寄りもないんじゃ仕方ないか」
社長は、手に持った四十五リットルの黒いゴミ袋を広げながら、短くため息をついた。
引き取り手のいない彼女の遺体は、警察での手続きが終わった後、自治体の手によって火葬され、無縁仏として共同墓地に納められることが決まっていた。
残されたのは、この小さな部屋にあるわずかな私物だけである。
社長は、部屋の隅に置かれていた彼女の遺品を、次々とゴミ袋へと片付けていった。
色褪せた数着の服、傷んだスニーカー、そして、机の引き出しに入っていた、裁判所から届いた八百万円の損害賠償命令が記された未開封の分厚い封筒。
「なんだこれ、誰かからの手紙か? ま、今となってはどうでもいいな」
社長は、その封筒の中身を確かめることもなく、他の生活雑貨と一緒に無造作に袋の底へと押し込んだ。
彼女が、ネットの世界で八万人のフォロワーを集めたアカウントの持ち主であったこと。
社会の不条理を憂い、巨大な組織にたった一人で戦いを挑んだと、本人が本気で信じ込んでいたこと。
そのGhost In the Roomの玉座と、彼女が背負った借金の本当の理由など、この世界で彼女を知る数少ない人間ですら、誰一人として想像もしていなかった。
十五分もかからずに、山田結子の三十四年間という人生の物理的な痕跡は、三つの黒いゴミ袋の中に完全に収められた。
「よし、これで終わりだ。このゴミ、明日の朝イチで焼却場に持っていってくれ」
社長が部下に指示を出し、部屋のドアがバタンと閉められる。
後には、少しの埃だけが舞う、完全な空白の空間だけが残された。彼女がこの世界に存在していたという証明は、現実の物理世界から、ひっそりと消去されたのだ。
一方、その頃。
都心の高級ホテルの最上階にある宴会場では、グラスが触れ合う軽やかな音が響き渡っていた。
「みんな、本当にお疲れ様! グローバルツアーの大成功に、乾杯!」
NONELのリーダーである柚煌が、明るい声でグラスを掲げた。
その周りには、緋月をはじめとするメンバーたち、所属事務所のスタッフ、そして協賛企業の担当者たちが集まり、彼らの見事なステージの成功を讃え合っていた。
彼らの顔には、半年前にネット上で吹き荒れたあの炎上騒動の影など、すでにどこにも見当たらなかった。
「いやあ、一時はどうなることかと思いましたけど、ファンの皆さんの温かさに救われましたね」
企業の担当者が、緋月の肩を叩きながら穏やかに語りかける。
「あの騒動を乗り越えたことで、かえってグループの結束力が強まりましたよ。まさに、雨降って地固まる、です」
「ありがとうございます。僕たちも、あの時期があったからこそ、自分たちを支えてくれる人たちの存在の大きさに改めて気づくことができました」
緋月は、安堵と感謝の入り混じった、柔らかな笑顔でそう答えた。
彼の言葉に嘘はなかった。彼らにとって、あの炎上騒動は確かに苦しく悲しい時期だったが、それを誠実に乗り越えたことでファンとの絆はより深まり、結果として彼らの物語をより前へと進める推進力となっていたのだ。
彼らの誰一人として、あの炎上の火種を作ったアカウントの中身が誰であったかなど、気にも留めていない。
ましてや、その首謀者であるGhost In the Roomが、ドーム公演の客席の片隅に座っていた山田結子という一人の女性であり、彼女がつい数日前に六本木の路地裏で、通り魔の凶刃に倒れ、静かに息を引き取ったことなど、知る由もなかった。
もし仮に、ニュースの片隅でその事件を目にしたとしても、彼らがそれを自分たちに向けられた悪意の主と結びつけることは絶対にない。「痛ましい事件が起きたね」と一瞬心を痛め、そして次の瞬間には、明日のリハーサルの確認へと意識を戻していく。
彼らの生きる眩い光の世界と、彼女が倒れた冷たいアスファルトの暗がりは、最初から最後まで、一度たりとも交わることはなかったのだ。
彼らは今日も、明日も、彼女が息絶えた街のどこかを通り過ぎ、待ってくれているファンに笑顔を届けるために、ただひたむきにステージの上で輝き続ける。
世界は何も変わらない。
誰かがひっそりと姿を消したところで、社会の巨大なシステムは、一秒の狂いもなく、完璧な調和を保って回り続けている。
しかし。
現実の肉体が滅び、遺品が焼却炉の灰と化し、記憶が人々の脳内から完全に抜け落ちた後でも、彼女の痕跡が唯一残されている場所があった。
遠く離れた海外の砂漠地帯にそびえ立つ、巨大なデータセンター。
徹底的に温度管理された無菌室のようなその空間には、何万台もの物理サーバーが、一定の低いモーター音を唸らせながら、果てしない電子の海を維持している。
その巨大なサーバーの、無限に広がる記憶領域の、ごくごく僅かな片隅。
そこに、Ghost In the Roomというアカウントのデータが、誰にも触れられることなく静かに眠っていた。
アカウント自体は彼女自身の手で削除された。
しかし、現代のインターネットシステムにおいて、一度放たれたデータが完全に無に帰すことはない。プロバイダのバックアップ領域、あるいは誰かが保存したスクリーンショットのキャッシュとして、彼女が紡ぎ出した数々の言葉は、0と1のデジタル信号に変換されたまま、保存され続けている。
『彼らは社会のバグだ』
『システムを許してはならない』
『私は、神の視点を持っている』
かつて彼女が自らの存在証明としてタイピングしたそれらの文字列は、今やそれを読み返す者もなく、更新されることもなく、ただ物理サーバーの奥深くで冷たく凍りついている。
画面の向こう側の世界は、今日も新たな話題を見つけては消費し続けている。
失言をした有名人、あるいはちょっとしたルール違反をしただけの一般人。かつてGhost In the Roomの言葉に熱狂した有象無象のアカウントたちは、彼女のことなど完全に忘れ去り、今日は別の誰かの言葉に同調し、新しいターゲットに向かって石を投げ続けている。
タイムラインは一秒ごとに更新され、濁流のように古い情報を押し流していく。
その圧倒的な情報量の渦の中で、彼女の残したデータは、ただの何の意味も持たないノイズとして、完全に風景と同化していた。
誰も、彼女がそこにいたことに気づかない。
誰も、彼女の孤独な死を知らない。
ただ、冷却ファンが空気を循環させる無機質な風の音だけが、データセンターの巨大な空間に、いつまでも、いつまでも響き渡っていた。
それはまるで、現実世界から誰にも気づかれずに弾き出され、電子の海にぽつんと取り残されてしまった幽霊の、永遠の沈黙のようだった。
だが、データセンターの奥深くで、一つの亡霊のデータが静かな眠りについたその瞬間も。
現実の世界では、無数の新しい亡霊たちが、次々と暗闇の中から産声を上げていた。
雨の匂いと、生乾きのスーツが放つ不快な湿気が充満する、金曜日、午後十一時の満員電車。
私は、誰かの湿った背中に押し付けられながら、窓ガラスに反射する自分の顔を虚ろな目で見つめていた。
三十六歳、都内の中小IT企業に勤めるシステムエンジニア。
それが、この現実世界における私の、誰の記憶にも残らない「個体名」と「属性」だった。窓ガラスに映る男の顔は、ひどく土気色に濁り、目の下には消えない隈が張り付き、生気というものが完全に欠落していた。
今日も、吐き気がするほど理不尽な一日だった。
数ヶ月前から炎上し続けているプロジェクトの遅延は、明らかにクライアント側が後出しで要求してきた無茶な仕様変更のせいであるにもかかわらず、矢面に立たされたのは下請けである私のチームだった。
冷房の効きすぎた会議室で、頭の禿げ上がったクライアントの担当者から「プロ意識が足りない」「これだから二流の会社はダメなんだ」「君たちに払う金はドブに捨てるようなもんだな」と、一時間近くにわたって人格を根底から否定されるような罵倒を浴び続けた。
同席していた私の直属の上司は、私をかばうどころか、クライアントと同調して私を睨みつけ、「こいつの管理不足で本当に申し訳ありません。こいつには後できつく灸を据えておきますので」と、すべての責任を私一人になすりつけて媚びへつらった。
「申し訳ありませんでした。以後、気をつけます」
私は、腸が煮えくり返るような怒りと屈辱を必死に腹の底に押し込み、ただの肉の塊のように、感情を殺して頭を下げ続けた。
反論すれば、さらに立場が悪くなるだけだ。私は、この会社という小さな社会のヒエラルキーの中で、完全に「代わりのきく歯車」であり、他人のミスの防波堤として、あるいはストレス発散のサンドバッグとして消費されるためだけの、底辺の部品でしかなかった。
電車が大きく揺れるたびに、周囲の乗客の体重が私の身体にのしかかってくる。
舌打ちをしたくなる衝動を奥歯を噛み締めて抑え込み、私はただ、早く自分の部屋という名の狭いカプセルに逃げ込みたいとだけ願っていた。
誰かに認められることも、正当に評価されることもない。私の人生は、ただ時間を切り売りして、他人のサンドバッグになり、緩やかに、そして惨めに老いていくだけの無意味な消化試合に思えた。
深夜零時を回って帰り着いた、築三十年、家賃七万円のワンルームアパート。
電気をつける気力もなく、私は革靴を玄関に脱ぎ捨てるようにして部屋に上がり込み、そのまま万年床の上にスーツ姿のまま倒れ込んだ。
真っ暗な部屋の中、安物の冷蔵庫が発する低いモーター音だけが、耳障りに響く。
誰からも労いの言葉をかけられることはない。明日もまた、胃の痛くなるようなクレーム対応と、終わりの見えないコーディング作業が待っている。
ネクタイを乱暴に引き剥がし、私はズボンのポケットからスマートフォンを取り出した。
指紋認証でロックを解除する。
暗闇の中で、六インチの液晶画面がパッと青白い光を放ち、私の顔を照らし出した。
その瞬間。
私の脳内で、重く濁っていた血液が、一気に沸騰するような感覚が走った。
私は、現実世界の無力で惨めな中年サラリーマンから、絶対的な権力を持った「高潔な批評家」へと変貌を遂げる。
私が運用しているSNSの匿名アカウント。フォロワー数は一万五千人。
アイコンには、モノクロの天秤の画像を設定している。アカウントのテーマは「エンタメ業界の闇を暴き、大衆の倫理を問う」ことだ。
私はこの電子の海において、論理的で、道徳的で、決して感情に流されず、腐敗した業界の真実を見抜く知識人として振る舞っていた。現実世界で誰からも見下されている分、この世界での私は、誰よりも高い場所から愚民どもを見下ろし、社会を導く存在でなければならなかった。
タイムラインを開く。
トレンドの最上位には、今日デビュー半年を迎えたばかりの、十代の若者たちによる新しいアイドルグループ『Hi Chu-N』の話題が上がっていた。
彼らは、その圧倒的なビジュアルとフレッシュな魅力、そして大手事務所の莫大なプロモーションの力によって、瞬く間にスターダムへと駆け上がり、今日はゴールデンタイムの大型音楽番組に大々的に特集されていたらしい。
画面をスクロールすると、彼らが番組内で笑顔を振りまき、楽しそうにトークをしている切り抜き動画が流れてきた。
センターを務める十七歳のメンバーが、司会者からの質問に答えている。
「僕たち、毎日レッスンが本当に大変で……睡眠時間も全然ないんですけど、でも、ファンのみんなの笑顔を見ると、疲れなんて全部吹っ飛んじゃうんです! これからも、もっともっと努力して、みんなに最高の夢と希望を届けたいです!」
キラキラとした、一点の曇りもない笑顔。
希望に満ち溢れ、自分の未来が無限に広がっていることを微塵も疑っていない、圧倒的な「光」の象徴。画面の向こう側の客席からは、彼の一挙手一投足に対して、割れんばかりの黄色い歓声が上がっている。
その眩しすぎる動画を見た瞬間。
私の胃の奥底で、今日一日蓄積されていた泥のような鬱憤が、どす黒い憎悪の炎となってボワッと燃え上がった。
努力、だと?
たかが十七歳のガキが、何をわかったような口を利いているんだ。
お前たちが冷暖房の完備された綺麗なスタジオで、スタイリストに着飾ってもらい、ただ与えられた振り付けで踊っている間、こっちは理不尽なクライアントに理不尽に怒鳴られ、頭を下げ、サービス残業で泥水をすするような思いをしているんだ。
たまたま顔が良く生まれたからといって、大手事務所の力でテレビの向こう側に立ち、何千万円という大金を稼ぎ出し、あげくの果てに「努力」や「苦労」などという言葉を、そんな薄っぺらい笑顔で口にする。
許せない。
私のこの苦しい現実を差し置いて、お前たちだけがそんなに美しく、幸せそうに笑い、社会から称賛されていることが、どうしても許せなかった。
彼らのその純粋な笑顔は、泥水の中で這いつくばっている私の人生そのものを「無価値だ」と嘲笑っているようにしか見えなかった。
私は、血走った目でスマートフォンの画面を凝視し、彼のその短いトーク動画の中に、何か「叩くべき隙」はないかと血眼になって探し始めた。
何度も、何度も動画をループ再生する。
言葉の端々、視線の動き、他のメンバーとの距離感。
そして、彼がマイクを握り直したその一瞬、彼の手首からチラリと覗いた腕時計の金属の反射を、私の執念深い目は決して見逃さなかった。
「……これだ」
暗い部屋の中で、私の口元が歪な三日月の形に釣り上がった。
私は即座にそのフレームをスクリーンショットで保存し、画像を極限まで拡大して、時計の文字盤とベゼルのデザインを特定する作業に入った。
十分後、ネットの海を這い回って、それが海外の超高級時計ブランドの限定モデルであり、価格が三百万円を優に超える代物であることを突き止めた。
心臓が、歓喜でドクドクと脈打つ。
完璧な「弾」を見つけた。あとは、これをいかに「社会正義」という名の美しいパッケージで包み込み、大衆という名の思考停止した暴徒たちに投げ与えるかだ。
私はキーボードアプリを立ち上げ、フリック入力を開始した。
ただの嫉妬や八つ当たりだと悟られてはならない。あくまで、彼らのファンを憂い、業界の倫理の欠如を正すための、高尚な問題提起でなければならないのだ。指先が、怒りと全能感で小刻みに震える。
『Hi Chu-Nのセンターが、本日の生放送で三百万円を超える高級時計を着用していることが確認された。彼らは「等身大の若者」「ファンとの絆」を売りにしてデビューしたはずだ。未成年の少年が、デビューからわずか半年で自分自身の稼ぎでこのような装飾品を買えるとは考えにくい。事務所の過剰な利益供与か、あるいは悪質なタニマチの存在を疑わざるを得ない。お小遣いを切り詰めてCDを買い、彼らを純粋に応援している中高生のファンを、一体なんだと思っているのか。この欺瞞に満ちた構造は、エンターテインメントの腐敗そのものである』
文章を読み返し、推敲する。
「悪質なタニマチ」という強い単語を入れることで、野次馬の下世話な想像力を煽る。そして「中高生のファンを憂う」という一文を添えることで、私自身の立ち位置を絶対的な「被害者の代弁者=善」へと引き上げる。
完璧だった。
論理のすり替えと、憶測に基づいた純度百パーセントの悪意の結晶。
私は、深く息を吸い込み、右下の送信ボタンをタップした。
シュッ、という短い電子音と共に、私の放った見えない毒矢が、果てしない電子の海へと解き放たれる。
あとは、待つだけだ。
数分後。
画面上部のベルのアイコンが、チカチカと赤い光を点滅させ始めた。
『え、マジじゃん。デビュー半年で三百万円の時計とか調子乗りすぎ』
『裏で誰かに買ってもらってるに決まってる。純粋に応援してたのに裏切られた気分。ファンやめるわ』
『こういう鋭い指摘、本当に助かります。やっぱり作られた偶像だったんですね。拡散します!』
『Hi Chu-N、なんか最近天狗になってると思ってた。徹底的に調査するべき』
リポストと「いいね」の数字が、スロットマシーンのように猛烈な勢いで回転し、増え続けていく。
通知が止まらない。私のスマートフォンが、まるで生き物のように小刻みに振動し続けている。
「……ふっ、ははっ」
暗闇の中で、私はスマートフォンの放つ青白い光を顔面いっぱいに浴びながら、声を殺して笑い続けた。
気持ちいい。
たまらなく、気持ちがいい。
現実世界では誰からも見下され、理不尽に怒鳴られ、ただのシステムエンジニアの歯車として使い捨てにされている私が。
今、この瞬間だけは、何万人という人間を動かし、光り輝くアイドルの未来を脅かし、彼らが構築した虚像を破壊することのできる、絶対的な「神」になれるのだ。
私の放った言葉が、彼らを苦しめ、事務所を慌てさせ、ファンを疑心暗鬼のどん底に叩き落とす。
その光景を想像するだけで、今日一日で削り取られた私の惨めな自尊心が、満々と満たされていくのを感じた。
アイドルが本当にパパ活のようなことをしているかどうかなんて、実はどうでもよかった。
あの時計が、ただの親からの就職祝いかもしれないし、事務所の衣装の借り物かもしれない。そんな真実は、私にとっては一円の価値もない。
私が欲しかったのは、「正義の鉄槌を下す自分」という強烈な全能感と、日々の鬱憤を晴らすための、安全で、反撃してこないサンドバッグにしやすい「生贄」だけなのだから。
彼らが美しければ美しいほど、輝いていれば輝いているほど、泥の中に引きずり下ろした時の快感は増幅する。
明日になれば、私はまた、汗臭い満員電車に揺られ、頭の禿げたクライアントにペコペコと頭を下げる、底辺の中年サラリーマンに戻るだろう。
だが、夜になれば、私にはこの強固な玉座がある。
どれだけ現実が苦しくとも、この小さな四角い画面の中だけで、私は何度でも全能の神として蘇ることができるのだ。
ベッドの上に寝転がったまま、私は次々と寄せられる信者たちの同調コメントを眺め、暗闇の中で悦に入り続けた。
私は、ネットの海に潜む見えない幽霊だ。
この絶対的な安全圏にいる限り、私が現実世界で火の粉を被ることなど絶対にあり得ない。現実のオフィスで私がどれほど理不尽に扱われ、惨めに頭を下げようと、このスマートフォン一つあれば、私はいつだって彼らの人生を焼き尽くす「神」になれるのだ。
テレビの中で輝くHi Chu-Nのメンバーたちよ、せいぜい今のうちに薄っぺらい笑顔を振りまいているがいい。
お前たちがステージの上でその不当な光を強めれば強めるほど、私の足元に広がる影は濃く、深くなる。そして、その暗い影の中から、私のような「正義の執行者」が何度でも這い出して、お前たちの足首を掴んでやる。
私だけではない。この画面の向こうには、現実の泥濘に押し潰されそうになりながら、怒りの矛先と、石を投げるための「正当な理由」を求めている同志たちが何万、何十万と息を潜めているのだ。私の放ったこの火種に、彼らがどれほど飢えた獣のように群がってきたか見ただろう。
ひとつの炎上が終われば、また次の不遜な標的を見つけて、新しい火を放てばいいだけのことだ。
この狂った社会で、お前たちのような連中が不当な称賛を浴び、私から搾取し続ける限り、私の、私たちのこの崇高な戦いが終わることは決してない。
私のような存在は、絶対になくならない。
この世に、私が憎むべき「成功者」が存在し続ける限り。
真夜中の暗い部屋で、シワだらけのスーツのまま寝転がり、熱を持ったスマートフォンを強く握りしめたまま、私は新たに見つけたHi Chu-Nの粗探しを狂ったように続ける。
窓の外では、いつの間にか降り始めた冷たい雨が、この巨大な都市のアスファルトを静かに、そして無機質に叩き続けていた。




