第7話 バグとノイズ
強烈なアンモニア臭と、鼻をつく塩素系漂白剤の匂いが、冷え切った肺の奥深くまで侵食してくる。
午前二時。都心の古い雑居ビルの中層階にある共同トイレで、私は黒ずんだ水を吸ったモップを、凍傷になりかけた真っ赤な両手で力任せに絞っていた。
ゴム手袋などという気の利いた支給品はない。汚水と洗剤が混ざった冷たい液体が、ひび割れて血が滲む指先の傷口に容赦なく入り込み、鋭い痛みを脳髄に送り続けている。
あの日、巨大な屋外ビジョンでNONELの絶対的な成功を見せつけられ、完全に心が折れてから数ヶ月。
私の生活は、もはや人間としての最低限の尊厳すら維持できない、完全なスラムへと転落していた。
アパートは当然のように強制退去となった。
今は、清掃会社の社長が厚意という名目で貸し付けている、窓もない三畳のタコ部屋に寝泊まりしている。家賃は給料から天引きされ、残った手取りのほとんどは、あの八百万円という絶望的な損害賠償の支払いに強制的に吸い上げられていく。
手元に残る現金は、月に数千円。
毎日の食事は、スーパーの廃棄箱から漁った賞味期限切れのパンの耳か、清掃先のビルのゴミ箱に捨てられていた、誰かの飲み残しのペットボトルの甘いジュースだけだ。
肉体は限界まで痩せ細り、頬は不気味なほどにこけ、鏡に映る自分の姿は、まるで歩く死体のようだった。
「……はぁ、はぁ」
モップ掛けを終え、私は非常階段の冷たいコンクリートの踊り場にへたり込んだ。
十五分間の短い休憩時間。強烈な空腹感が、胃袋の内壁をギリギリと削り取るような音を立てて自己主張を始める。
痛い。腹が減って、狂いそうだ。
私は震える手で、清掃着のポケットからひび割れたスマートフォンを取り出した。
通信契約はとうの昔に解除されているため、この端末は、街を飛んでいるフリーWi-Fiを拾える場所でしかただのガラスとプラスチックの板にしかならない。しかし、この雑居ビルの非常階段は、隣のカフェの電波が微弱ながらも届く、私にとって唯一の世界への接続窓口だった。
画面を点灯させる。
Ghost In the Roomのアカウントはもう存在しない。しかし、私はどうしてもネットの海への未練を断ち切れず、名無しの捨てアカウントを作り、ただ息を潜めてタイムラインの濁流を眺めるだけの亡霊と化していた。
世の中は、私が社会から抹殺されて這いつくばっていることなど露知らず、今日も誰かの成功を称賛し、誰かの失敗を嘲笑って、楽しげに回っている。
ニュースアプリのタブを開き、エンタメやトレンドのトピックを無意識にスクロールする。
視界が空腹による眩暈で白く明滅する中、ふと、ある一つのプロモーション記事のサムネイル画像が、私の淀んだ網膜にピタリと張り付いた。
『二十五歳の若き女性起業家が語る、自分らしさを武器にする新しい資本主義』
その見出しの下には、清潔で広々としたオフィスを背景に、真っ白なオーダーメイドのスーツを着こなした、若く美しい女が自信に満ちた笑顔を浮かべている写真が掲載されていた。
私の指が、画面上でピタリと止まる。
記事の本文を、濁った目でなぞっていく。
女の名前は、ある美容系スタートアップ企業のCEOだった。学生時代に起業し、数年で会社を数十億円規模に成長させ、今はSNSでも数十万人のフォロワーを抱えるインフルエンサーとしても活躍しているという。
『大切なのは、決して諦めないこと。どんな環境に生まれても、努力次第で人は必ず輝けるんです。私は、すべての女性が自分らしく生きられる社会を作りたい』
インタビューの最後に添えられたその薄っぺらい言葉を読んだ瞬間。
私の胃の奥底で燻っていた、どす黒く、粘り気のあるルサンチマンの炎が、ボワッと音を立てて再燃するのを感じた。
「……ふざけるな」
誰もいない非常階段で、私のひび割れた唇から、地を這うような呪詛が漏れた。
どんな環境に生まれても、努力次第で輝けるだと。
ふざけるな。お前がそんな綺麗なスーツを着て、高層ビルのオフィスで笑っていられるのは、お前がたまたま恵まれた容姿と、資本を持った親の元に生まれたからに過ぎない。
私がモップを絞り、他人の汚物を清掃して得たわずかな金すらも賠償金として奪われ、飢えに苦しんでいるこの同じ世界で。どうしてお前のような、苦労の欠片も知らない小娘が、努力という言葉を安易に口にして、成功者として持て囃されているのだ。
許せない。
あのNONELに向けた時と同じ、いや、対象が同性であり、かつ私よりも圧倒的に若く美しい分、より純度が高く、醜悪な嫉妬と憎悪が私の脳髄を支配し始めた。
私は血走った目で、彼女のSNSアカウントを検索した。
表示されたプロフィール画面には、高級ホテルのラウンジでのアフタヌーンティー、海外のカンファレンスでのスピーチ、そして、著名な投資家や芸能人との華やかな交友録が、これ見よがしに並べ立てられていた。
コメント欄には、「憧れます」「私のロールモデルです」という、頭の空っぽな信者たちの賛美が溢れ返っている。
私は、ギリッと奥歯を噛み締めた。
この女の笑顔の裏にも、絶対に腐敗した真実が隠されているはずだ。
あのアイドルたちがそうであったように、表向きは綺麗事を並べながら、裏では立場の弱い人間を搾取し、不当な利益を得ているに違いない。
親のコネか。あるいは、投資家との不適切な関係か。製品の成分の偽装か。
なんでもいい。この女の化けの皮を剥がすための致命的なバグを、私が見つけ出してやる。
空腹による肉体的な激痛が、完全に狂気への燃料へと変換されていく。
私がNONELの告発で失敗したのは、巨大な芸能事務所の法的な暴力に屈したからだ。しかし、相手が立ち上がったばかりのベンチャー企業であれば、ネットの炎上だけで完全に息の根を止めることができるはずだ。
もう一度だ。
もう一度だけ、私はあの玉座に座る。
誰も知らない真実を暴き出し、この薄っぺらい成功者を奈落の底へと引きずり下ろす。そして、今度こそ私を嘲笑ったネットの有象無象どもに、Ghost In the Roomの圧倒的な知性と正義を見せつけてやるのだ。
「私を……私を舐めるなよ。私は、神なんだ……」
暗く冷たい非常階段で、顔の半分をカビたモップの柄に擦り付けながら、私は壊れたおもちゃのように低く、不気味な声で笑い始めた。
失うものはもう何もない。
社会的信用も、金も、家も、すべて奪われた私にとって、このスマートフォンの中で他人の人生を切り刻むことだけが、自分がこの世界に存在していることを証明する、唯一の手段となっていた。
私は、深夜の清掃作業のタイムカードを押すや否や、休む場所を探すこともせず、狂気に憑かれた獣のように、冷たい雨の降る深夜の街へと飛び出していった。
目指すのは、この女が経営する会社のオフィスがある、六本木のインテリジェントビルだ。
ネットの文字情報だけではない。あの日、東京ドームでやったように、現実の現場に潜入して、この女の傲慢な素顔を直接私の網膜に焼き付け、それを完璧な告発文へと錬成してやるのだ。
空っぽの胃袋が悲鳴を上げ、視界がぐらぐらと揺れる。
しかし、私の足取りは異常なほどの熱を帯び、アスファルトを強く蹴りつけていた。
破滅への最終章が、狂気という名の重力に引かれ、静かに、そして確実に幕を開けようとしていた。
冷たい雨が上がった深夜の六本木は、水たまりに乱反射するけばけばしいネオンの光と、アルコールと香水の入り混じったむせ返るような匂いに支配されていた。
清掃会社の薄っぺらい防寒着を羽織っただけの私は、肩をすくめ、すれ違う着飾った若者たちや、客待ちの黒塗りタクシーの列を縫うようにして歩を進めていた。
擦り減ったスニーカーの底から、冬のアスファルトの凍てつくような冷気が直接足の裏に伝わってくる。空腹はすでに限界を超え、胃袋だけでなく、全身の筋肉が自らを分解してエネルギーに変えようとしているかのように、小刻みな痙攣を繰り返していた。
視界の端には、常にチカチカとした白いノイズが走っている。
私はふらつく足取りで、大通りから一本入った路地にそびえ立つ、巨大なガラス張りのインテリジェントビルの前にたどり着いた。
さきほど、非常階段でフリーWi-Fiを拾って調べた、あの忌まわしい若手女性起業家のオフィスが入っているビルだ。
エントランスはすでに施錠され、内部は無機質なセキュリティの青い光だけが点滅している。当然だ。時刻は午前三時を回っている。まともな人間が、ましてや成功した若きCEOが、こんな時間にオフィスにいるはずがない。
しかし、私の脳内に巣食う狂気は、そんな論理的な思考を完全に排除していた。
「……裏口から、投資家か愛人でも引き入れてるに決まってる」
私は、血走った目でビルの周囲を舐め回すように見上げながら、ひび割れた唇をヒクヒクと動かして呟いた。
「自分らしく生きる、だなんて……嘘よ。お前みたいなペラペラな小娘が、こんな一等地で会社をやれるはずがない。絶対に、裏で誰かを搾取して、汚い金をもらっているんだ。私にはわかる。私が、お前のそのメッキを全部剥がしてやるから……」
私はビルの陰に身を潜め、ポケットから冷え切ったスマートフォンを取り出した。
通信圏外の画面。電波の通じないただのガラス板に向かって、私はオフラインのメモ帳アプリを立ち上げ、親指を猛烈な速度で動かし始めた。
『若き女性起業家として持て囃されている彼女だが、その実態は極めて黒に近いグレーである。表向きは女性のエンパワーメントを謳いながら、裏では……』
まだ何の証拠もない。ただの妄想だ。
しかし、あの日、東京ドームの見切れ席からNONELのライブを見下ろして捏造のレポートを書き上げた時と同じように、私の頭の中では私が紡ぎ出す論理こそが真実であるという強烈な自己暗示が、圧倒的な正義となって暴走していた。
『彼女の会社の資金源には不透明な部分が多く、立場の弱い人間を食い物にしている構造が透けて見える。美辞麗句で大衆を騙し、私腹を肥やす彼女の存在は、真面目に労働する人間に対する冒涜だ』
カタカタ、カタカタ。
冷気で麻痺した指先が、画面を叩く。
いや、実際には画面すらまともに叩けていなかった。私の震える指は、空中で意味不明な軌道を描き、虚空に向かって存在しないキーボードを打ち込み続けていたのだ。
「ふふっ……これで、また八万人が……私を……神だって……」
口元から、濁った涎がツーッと垂れ落ちる。
それを拭うことすら忘れ、私は完全に崩壊した妄想の世界へとダイブしていた。
不意に、私の視界がぐにゃりと歪んだ。
「ちょっと、あの人やばくない?」
「うわ、なんか一人で笑ってる。目合わせないでおこ」
背後を通り過ぎていった、酔っ払った男女のグループの囁き声。
彼らの顔が、私の網膜上で一瞬にして黒いノイズのアイコンへと変換された。
あの日、私を裏切り、嘲笑い、嬉々として私に石を投げてきたネット上の有象無象ども。
彼らが、スマートフォンの画面を抜け出して、現実の六本木の路上に顕現し、私を取り囲んで嘲笑っているように見えたのだ。
『ざまぁ。引きこもりのオバサンw』
『訴えられて当然。震えて眠れ』
幻聴が、耳元でけたたましく鳴り響く。
「違う……! 違う、私はオバサンなんかじゃない! 私は批評家よ! お前たちみたいな愚民に、社会の真実を教えてやってる神なんだから!」
私は虚空に向かってスマートフォンの画面を振りかざし、喉が裂けんばかりの金切り声を上げた。
通りすがりの人々が、ビクッと肩を震わせて私から距離を取る。
彼らの目には、異臭を放つ清掃着を着た痩せこけた女が、電源の切れたスマホを握りしめて見えない敵と戦っている、完全に狂った浮浪者にしか見えていないだろう。
だが、私の脳は、その彼らの怯えた視線すらも、私の圧倒的な論理と告発の前にひれ伏している姿として都合よく解釈していた。
「そうよ、怖いのね。私が真実を暴くのが。あの起業家も、NONELの奴らも……みんな、私が一言呟けば、明日には首を吊ることになるんだから……!」
激しい眩暈。
胃袋が限界を超えて収縮し、私はその場に膝から崩れ落ちた。
濡れたアスファルトに両手をつき、胃液を吐き出そうとするが、何も出てこない。強酸性の液が喉を焼き、焼け付くような痛みが走るだけだ。
「……お腹、すいた」
神の玉座から、再び惨めな肉体の牢獄へと引き戻される。
私は息を弾ませながら、ビルの壁に背中を預けてへたり込んだ。
視線を上げると、通りの向こう側にあるコンビニエンスストアの白い看板が、ぼんやりと光って見えた。
肉まんのケース、おでんの鍋、ぎっしりと並んだ弁当。
脳裏に浮かんだその映像が、私の狂気を一時的に凌駕し、純粋な食欲という本能に火をつけた。
財布の中には、先ほどまでの全財産だった千円札すら入っていない。
タコ部屋の滞納した水道代として、社長に強制的に没収されたのだ。今の私のポケットには、本当に、ただの一円すら入っていなかった。
「……でも、食べなきゃ。死んじゃう」
私は壁伝いに立ち上がり、ゾンビのように足を引きずりながら、そのコンビニの光に向かって歩き出した。
万引きでも何でもいい。捕まって刑務所に入れば、少なくとも三食の飯は食える。
あの八百万円の賠償金取り立てからも逃げられるかもしれない。
もう、どうにでもなれ。
社会のコンプライアンスだの、倫理だの、私がネットで偉そうに振りかざしていた言葉は、飢えと寒さの前に完全に消し飛んでいた。
私は、自分の存在そのものが、このきらびやかな街における排除されるべき不快なバグと化していることにすら気づかないまま、ふらふらと交差点へと歩を進めた。
その時だった。
私の視界の端で、何か黒い影が、異常な速度で路地裏から飛び出してくるのが見えた。
それは、私と同じように社会から弾き出され、絶望と狂気に染まった、もう一つのバグだったのだ。
その黒い影は、まるで街の暗がりそのものが実体を持ったかのように、音もなく、しかし異様な速度で路地裏から飛び出してきた。
黒いパーカーのフードを目深に被り、顔の下半分を黒いマスクで覆った男だった。
すれ違う瞬間に聞こえたのは、獣のような荒い息遣いだけ。彼は私を人間として認識している様子すらなく、ただ目の前に立ち塞がる障害物を排除するかのように、一直線に私に向かって突進してきた。
避ける間もなかった。
飢えと寒さで硬直していた私の肉体は、アスファルトに根を張ったようにピタリと動かず、次の瞬間、男の肩が私の身体に激しくぶつかった。
ドンッ、と。
腹部に、鈍く重い衝撃が走った。
「……あ」
殴られた、と思った。
男は私にぶつかった勢いのまま体勢を立て直し、私を一瞥することもなく、一言の謝罪も、罵倒すらも発さずに、そのまま深夜の大通りの向こう側へと脱兎のごとく走り去っていった。
「ちょっと……何よ……」
私は、理不尽な体当たりに抗議しようと声を上げた。
しかし、その声はひどく掠れ、自分の耳にすら届かないほどの微弱な空気の漏れでしかなかった。
腹部の奥底が、ひどく熱い。
空腹で冷え切っていた胃袋のあたりが、突然、燃え盛るような異常な熱を持ち始めたのだ。
私はふらつく足で立ち直ろうとし、一歩、前に踏み出そうとした。
しかし、膝から下の感覚が完全に消失していた。私の身体は操り糸を切られた人形のように、何の抵抗もできずに、冷たく濡れたアスファルトの上へと崩れ落ちた。
「え……?」
地面に倒れ込んだ拍子に、清掃着の薄っぺらい布地を通して、生温かく、ひどく粘り気のある液体が、私のお腹のあたりからじわじわと広がり、アスファルトの冷たさを溶かしていくのがわかった。
私は、ガタガタと震える右手を、自分の腹部へとゆっくりと這わせた。
清掃着のジャケットの切れ目から、何かがドクドクと、脈打つようなリズムに合わせて溢れ出している。
指先に触れたその液体を、目の前に持ってくる。
深夜のネオンの光に照らし出された私の手は、べっとりと、どす黒い赤色に染まっていた。
血だ。
私の血。
その鮮烈な色と、鉄の錆びたような強烈な匂いが脳髄に到達した瞬間、私の思考は完全にフリーズした。
刺されたのだ。
あの男に。すれ違いざまに、何の理由もなく、言葉も交わさずに。
「……なんで?」
かすれた声が、水たまりに反響する。
痛みが、遅れてやってきた。腹部の奥を、焼け火箸で力任せにえぐり回されているような、これまでの人生で経験したことのない絶対的な激痛。
「あ、あああ……っ!」
私は痛みに身をよじり、濡れたアスファルトの上でエビのように丸まった。
血が止まらない。両手で傷口を塞ごうとするが、生温かい命の液体は、私の指の隙間から容赦なくこぼれ落ち、六本木の汚れた路面へと吸い込まれていく。
誰か、助けて。
声を出そうとするが、肺から空気が漏れるばかりで、言葉にならない。
周囲を見渡す。
数十メートル先の大通りの交差点には、傘を差した若者たちや、酔っ払ったサラリーマンの姿がある。しかし、この薄暗い路地裏の入り口で、清掃着を着た女が血溜まりの中で倒れていることなど、誰も気づいていない。あるいは、酔っ払いが路上で寝込んでいるだけだと思って、関わり合いになるのを避けて視線を逸らしているのかもしれない。
圧倒的な無関心。
私の命が、今この瞬間、猛烈な勢いでこぼれ落ちているというのに、この世界は何一つ変わらずに、ネオンを瞬かせ、音楽を鳴らし続けている。
その時、私の脳裏に、ひどく冷酷で、残酷な皮肉が閃いた。
私は、ネットの海でGhost In the Roomという神を気取り、自分の歪んだルサンチマンを満たすためだけに、他人の人生を切り刻んできた。
アイドルの努力を嘘で塗り固め、彼らの家族を中傷し、スポンサー企業に業務妨害を仕掛け、私とは何の関係もない人間たちの日常を、理不尽な悪意で破壊して回ったのだ。
私はそれを正義だと、社会の不条理を正す高尚な批評だと思い込んでいた。
しかし、今の私はどうだ。
私に刃物を突き立てたあの男は、私の過去の罪を知って制裁を下したわけではない。私がGhost In the Roomであることなど知る由もない。
ただむしゃくしゃしていた、誰でもよかったという、底知れない暴力の衝動に駆られ、たまたま深夜の路地裏を歩いていた、抵抗できそうにない痩せこけた女を標的に選んだだけなのだ。
意味など、何もない。
そこには大義名分も、正義も、因果応報すら存在しない。
ただの、社会という巨大なシステムに発生した、突発的で無意味なバグ。
ネットの海で、匿名という安全圏から他人の人生をバグやノイズとして切り捨て、炎上させて遊んでいた私が。
現実の世界で、本物の社会のバグである見ず知らずの通り魔に、文字通り肉体を切り刻まれ、路地裏のゴミのように命を奪われようとしているのだ。
「……あ、はっ……」
血反吐にまみれた私の口から、乾いた笑い声が漏れた。
痛い。苦しい。寒い。
けれど、自分がこれから死んでいくというこの状況が、あまりにも滑稽で、あまりにも見事な喜劇の結末に思えて、笑わずにはいられなかった。
私は、巨大な権力を持つ芸能事務所の弁護団に法で裁かれたから死ぬのではない。
八百万円の借金を苦にして自ら命を絶つのでもない。
ただ、名も知らぬ通り魔の、気まぐれな暴力の通り道に、たまたま私が立っていたから死ぬのだ。
なんという無意味さ。なんという存在の軽さ。
私が人生のすべてを賭けて放ったネットの炎は、NONELという巨像の足元を焦がしただけで、彼らはより眩く空へと飛翔していった。
そして、彼らを裁こうとした私という極小のバグは、現実の路上で、別のバグと衝突して、誰にも看取られることなく、ひっそりと消去されようとしている。
私の視界が、急速に黒く縁取られ始めた。
アスファルトの冷たさが、私の体温を完全に奪い去り、痛みすらも遠ざかっていく。
ただ、握りしめたままになっていた右手のひらの中で、硬いガラスとプラスチックの感触だけが、私の意識を辛うじてこの世界に繋ぎ止めていた。
冷たい雨が、再びポツリ、ポツリと降り始めていた。
アスファルトに横たわった私の頬を、氷のように冷たい水滴が容赦なく叩く。
腹部から流れ出た大量の血は、雨水と混ざり合い、黒々としたまだら模様を描きながら六本木の路地裏の側溝へと吸い込まれていく。
「……あ、う……」
もはや痛みは感じなかった。
強烈な熱を持っていた腹部の傷口すらも、今はただ、自分の身体から命という名の質量が急速に抜け落ちていく、奇妙な喪失感へと変わっている。
指先から順番に感覚が消失し、自分の輪郭が夜の闇の中へ溶け出していくのがわかった。
視界は極端に狭くなり、周囲の景色は黒く縁取られたトンネルのように遠ざかっていく。
遠くで聞こえる車のエンジン音も、酔客の笑い声も、まるで分厚い水の中から聞いているかのようにくぐもって、現実感を持たない。
ああ、私はここで死ぬのか。
誰の記憶にも残らず、誰の涙を誘うこともなく。
明日の朝、ゴミ収集車か飲食店の店員に発見され、身元不明の行き倒れとしてブルーシートに包まれ、事務的に処理されて終わる。
それが、ネットの海で八万人を従え、社会の不条理を裁く神だと自惚れていた女の、あまりにも惨めで矮小な結末だった。
その時だった。
ブゥン、と。
血の海に沈みかけ、硬直しかかっていた私の右手のひらの中で、小さな振動が起きた。
それは、私が死の直前まで握りしめていた、画面のひび割れたスマートフォンだった。
通信契約の切れたただのガラス板が、このインテリジェントビルの周辺を飛んでいる微弱なフリーWi-Fiの電波を偶然拾い上げ、滞留していたプッシュ通知を一斉に受信したのだ。
真っ暗だった私の視界の下方で、青白い光がパッと花開いた。
私は、鉛のように重くなった首を微かに動かし、薄れゆく意識の中で、その四角い光の窓へと視線を落とした。
ロック画面に表示された、ニュースアプリの号外通知。
そこには、私の濁りきった網膜を焼き尽くすような、極彩色の文字と画像が並んでいた。
『速報:NONEL、世界最大の音楽祭にて日本人ボーイズグループ初の最優秀賞を受賞。グローバルツアーの動員数は過去最高を記録』
呼吸が、ピタリと止まった。
通知のサムネイル画像には、煌びやかな海外の授賞式のステージで、黄金のトロフィーを高々と掲げる五人の男たちの姿が映し出されていた。
センターに立つ緋月は、あの日、東京ドームの見切れ席から私が見下ろした時よりも、はるかに洗練され、圧倒的なオーラを放っていた。彼の顔には、私が捏造したスキャンダルに怯える様子など微塵もない。
ただ、世界中の熱狂と称賛を全身に浴び、自分たちが世界の中心にいることを疑わない、残酷なまでに美しい王者の笑顔がそこにあった。
「……あ」
私の喉の奥から、乾いた空気が漏れた。
彼らは、勝ったのだ。
私が人生のすべてを賭け、自分の身を焦がしてまで放ったあの業火は、彼らにとってはただの通過儀礼に過ぎなかった。私が突きつけたファンへの搾取や家族の特権といったルサンチマンの塊は、巨大な資本と彼ら自身の圧倒的な光の前に、完全に浄化され、蒸発してしまったのだ。
むしろ、あの炎上という試練を乗り越えたことで、彼らのファンとの絆はより強固なものになり、物語はさらなる劇的な成功へと昇華された。
私が放った呪いは、彼らを世界的スターへと押し上げるための、強固な踏み台として完璧に消費されたのだ。
光と闇。
勝者と敗者。
手のひらの中の小さな画面が放つ、目も眩むような成功の極彩色。
そして、その光に照らし出された、路地裏の血溜まりの中でゴミのように干からびていく、私の青ざめた顔。
その圧倒的なコントラストに、私はもう、憎悪すら抱くことができなかった。
ただ、自分がどれほど滑稽で、無意味な存在であったかという絶対的な真実が、鋭い氷の刃となって、私の精神の最後の砦を貫き通した。
私は、神でも、批評家でも、革命家でもなかった。
世界という名の巨大なプログラムの中に発生した、ほんの小さなバグ。
彼らの輝かしい物語の進行を、ほんの一瞬だけ妨げただけの、不快なノイズ。
そのノイズは、法律という名のデバッグ作業によって完全に修正され、最後は現実の通り魔という別のバグと衝突して、静かにシステムから消去されていくだけだ。
『本当にアカウントを削除しますか?』
あの日、自らの手でGhost In the Roomを消し去った時の確認画面が、走馬灯のように脳裏をよぎる。
削除されるのは、アカウントではない。
山田結子という、この現実世界における私の存在そのものだったのだ。
スマートフォンの画面が、十秒の点灯時間を終え、スゥッと暗転した。
途端に、私を取り囲んでいた世界は、完全な暗黒と冷たい雨の音だけになった。
彼らの栄光の残像だけが、網膜の裏側にこびりついて離れない。
私は、血にまみれた指先で、もう二度と光ることのない黒いガラス板を強く握りしめた。
助けて。誰か、私を見つけて。私がここにいたことを、誰か証明して。
声にならない叫びが、冷え切った肺の中で虚しく木霊する。
だが、誰も私を見ていない。
誰も私を必要としていない。
私は、インターネットという虚構の海で溺れ、現実の泥濘の中で這いつくばり、最後は誰の記憶にも残らない透明人間として、この狂った世界から完全に接続を断たれようとしている。
私の意識は、冷たいアスファルトの底へと、どこまでも深く沈んでいった。




