この子だけでも
あぁそうか、思い出した。
死とは本来、不可逆で。命は一度失えば、何をどうやっても、どれだけ泣こうが喚こうが祈ろうが、戻らないものだった。
安物のスーツ着た死神なんてオカシナものはいるけれど、ここはゲームの世界でもなければ、エリクサーや不死や復活の魔法がありそうな異世界でもない。
死んだら終り。
正月には初詣に行くし、近所のお寺の除夜の鐘をきかなきゃ年がくれないあたしだけれど、来世とか天国とかの存在にはピンとこない。あったらまぁ、面白んじゃない?と思う程度。
だから。
「お願い、この子だけでも……」
そう言って、身から引きちぎるように赤ん坊をさしだす血塗れの、半透明の女性になにが言えるだろう?
あたしは今夜、美味しくお酒を飲んでいただけなのに。
大学時代から交流がつづく数少ない悪友どもと、ちょっとお高いけれど抜群に美味しい蕎麦とカモ料理をだすお店で呑んで喰って、いっぱい馬鹿話をして。
終電まで間があるし、夜桜が綺麗だしと。コンビニで買ったコーヒー片手にそぞろ歩きを楽しんでいただけじゃない。
なんで高架下の暗がりで、血まみれの親子を見つけちゃうかなぁ……。
うんそうよね。人は生まれて成長したら、後は死に向かって進んでいるはずなのに、いざその時が来たら、びっくりするわよね。たぶん。誰でも。
特にこの女の人みたいに若くて美人だったら、それが今夜自分に訪れるなんて、直前まで思いもしないわよね。明日もまた当たり前のように、当然、今日と同じような日をバタバタと過ごすもんだと、それができなくなるなんてかけらも思わなかったわよね。
きっと。たぶん。
仕事帰りだったのかな? いまは血とアスファルトのかけらと砂利とそれ以外の何かに塗れてるけど、綺麗な化粧とそこそこ値段がはりそうな、たぶんブランド物のワンピース。それと対極をなすような、キルティング素材の大きな布バックとおんぶ紐とフリース素材の……おくるみ?あ、足元はスニーカーだ。
たぶんだけど、この女の人は夜のお仕事をやっている、やっていた方で。
夜間の託児所かどこかから子供を連れ帰っていたところで。
彼女の横にひしゃげた自転車が転がっているところを見ると、ひき逃げかなんかされた―――。
「うん。それで大体あってる」
「ッ! ぃきなりっ、……声かけないでよ」
酔いはすっかり冷めていたけど、思いもよらない光景に、やっぱり茫然自失としていたのだろう。それでも死神に聞かせるのは癪に障るから、悲鳴は喉もとでねじ伏せた。
「や~あれだね。たまたま呑みに来た先で、こんなの見つけちゃうあたり、もうあれだ。立派なプロだね」
「はぁ?プロって何よ、人聞きの悪い。って言うか、なんで飲んで来たってわかるのよ。それになんであんたがここに?まさかストーカーして」
「そっちこそ人聞きの悪い事言わないでくれよ。それだけ酒臭い息吐いてんだから、分かるだろ。俺はたまたま、ほんとにたまたま、この辺りを通りがかって、フリーの魂が出そうなのをキャッチしたわけ。こう言う突発的なモノの場合、管轄関係なく早いもん勝ちで獲っていい事になってるから、勤勉な俺は馳せ参じたわけだ。んで、日頃の行いのたまもので、あんたが」
「不幸にも居合わせちゃったってわけね……」
「そう言う事」
クイズやってんじゃないんだから。「正解!」ってな感じで指突き出すのやめなさいよ。思わずイラッと来てその指折ってやろうかと手を伸ばしかけたけど―――やめた。
こいつの冷たい、死そのものの様に冷たい手に、触りたくなかったから。
「……一応確認するけど。このふたり、助からないわよね?」
こっちの気持ちなどまったく気づいていない様子で缶コーヒーを飲んでいる死神に、小声で聴いてみた。
って言うか、さっきから気になってたのよね。その手に持ってた缶コーヒー。普通に飲むんだ。死神なのに。いままで見たことなかったけど、実は食事とかもするのかしら。
「うん。間違いなく死んでるね。ひき逃げされてから、結構時間たってるし。まぁ、あんたが復活の呪文唱えられるんなら別だけど」
「は?あるの?そんな呪文」
「あるじゃん。あんた達が作った物語やゲームの中に」
「ばっ……かじゃないの」
一瞬でも期待したあたしが馬鹿だった。
そりゃそうよね。死神は報酬、彼らのカネであるところの魂を得るために仕事してるんだから、もし本当にあったとしても教えるわけがない。
だから紛らわしい事言ってんじゃないわよ。彼女をこれ以上絶望させないでちょうだい!
「お願……い、救急車を、早くっ! 私は、駄目だろうけどっ、この子だけは……」
幸いにして(?)死神の馬鹿なボケが聴こえていなかったのか、いまや完全に身体から抜け出した半透明な彼女が、必死の形相で赤ん坊を突き出している。
あたしより確実に若そうな彼女のその顔は、それでも立派な母親のもので。薄情者であると自他ともに認めるあたしでもグッときて、できる事ならば叶えてあげたい。けど。
「ほら、彼女が待ってるじゃん。はやくお仕事しなよ。あ、大丈夫。今回はタダ働きじゃないよ。彼女、結構な売れっ子でね。しかも高給取りなのに、子供の将来のために毎月きっちり貯金してる。あ、失敬。してた。んで、万一に備えて保険も掛けてるから」
「っはぁ?『いえ、その子ももう死んでますから手遅れです。ところで貴女の貯金と生命保険の受け取りについてですが……』なんて、いまここで交渉しろっての?」
片手に缶コーヒーを持ったまま、もう片方の手で黒手帳をとりだしてのんきにそんな事を言う死神に、小声で怒鳴った。
確かに死神の手伝いはしてるけど、してはいるけれどね。あたしはそこまで堕ちちゃいない。はず。
「え~。だって、この間の殺されたばっかりの彼には、冷たく言い捨ててたじゃん。『ミゼラブってんじゃねぇ』って。今回も似たようなもんじゃん」
「ぜんぜん違う!」
「まぁいいから、いいから。どっちにしろ助からないんだし。資源と機会は有効活用しなくちゃ。ね☆」
「ね☆じゃないわよ。何ウィンクかましてんのよ」
「まぁまぁ、はいはい」
***
その後の事は、あまり思い出したくもない。
たぶん彼女は、自分の死だけならば、受け入れられたんだと思う。
幼子を後に残していくことになるから後ろ髪惹かれるまくりだろうし、自分のこれからに未練もあっただろう。
それでも、いきなり横合いから飛び出してきたヘッドライトに驚いた次の瞬間、身を引きちぎられるような痛みに襲われ、「あぁ死ぬんだ」と納得したと言う。
だけど、我が子まで一緒に死んでしまったことには、その事実は、どうしても飲み下せなかった。
泣いて、暴れて、叫んで、自分と子供を殺した車の、顔すら確認できなかった運転手を呪って。
「いますぐあいつ殺しに行って! いいえ私が殺してやるっっ!!」
霊体というのか、魂だけの状態なのに、熱と痛みを感じさせるような怨嗟の声をあげて。地面に横たわる本体と同じように顔に飛び散る血が、涙のように見えて。
最後にはすべてを恨んだまま、死神に回収されていった。
眠っているように見える、子供も一緒に。
「あ、うん。こりゃいつまで待ってもだめだね」
彼女の慟哭は、死神にはさっぱり届いていなかったみたいだけれど。
やっぱり死は、とても冷たいものだった。
命が零れおちた後の身体はとても冷たくてかたくて。そこから冷気が漂ってくるようで。
その周りの熱をすべて奪っていくようで。
あぁ命ってあったかい。
全ての処理が終わった後。あたしはまっすぐ家に帰って、いつものソファで3匹一緒になって丸まって寝ている猫達を、覆いかぶさるようにして抱きしめた。
迷惑そうな鳴き声と猫パンチがただただ、うれしかった。
まだプロット分終わっていませんが、しばらく書けないため、いったん完結マークをつけます。