第1話 税金に襲われます!
三月上旬。
出口の見えない長いトンネルで彷徨い、ようやく光が見えてくる頃だった。
会計事務所に勤めていると、年明けから三月中頃までハードワークになる。心も体も疲れ切っていたが、光が見えたことでラストスパートをかけることができた。
プー、プー。
頭で理解する前に内線を取る。
「はい、石黒です」
「お疲れ様です。受付の紫藤です」
紫藤は会計事務所の内勤で、主に事務と受付を担当している。周りからは顔採用だと言われるくらい整った顔立ちと恵まれた頭身を持っている。仕事上では不愛想なことも多く、彼女と仲良い人はだれ一人思いつかない。
「医療法人社団開成会の赤坂様がお見えです」
「ありがとうございます。いま伺います」
とはいえ仕事はとても丁寧だから、他の内勤の人より気に入っている。
応接室に向かうため、急いで席を立つ。
これでやっと確定申告が終わる。そんな期待を胸に抱きながら向かっていると、来客対応室から出てきた紫藤と目が合った。
急いで会釈をするも、紫藤は二秒ほど静止する。我に返ったように目を見開かせると、彼女は左手を、戸の閉まった来客対応室に向ける。
「こちらです」
「あ、ありがとう」
「もう少しですからね」
「あ、え?」
彼女が残した言葉に戸惑っていると、俺の横を通り過ぎる際に彼女は呟くように言った。
「なんだか楽しそうな顔をしていたので」
無意識に笑みを浮かべていたのいうのか。少し恥ずかしい。体温がじわじわ上がっていくのを感じる。
まるでさっき心の中で呟いたことを見透かされているようだった。それくらい的を射た言葉をかけられた気がする。
戸の前で深呼吸をして、俺は応接室に入った。
ようやく終えることのできる確定申告。この人――赤坂理事長――は、医療法人の代表を務める傍ら、複数の不動産で収入を得ている。その他にもふるさと納税も大量にやっていて、毎年確定申告の資料を送付することを忘れ、何度か催促してやっと資料を持ってきてくれる。
人の行いには厳しいのに、自分のそういう行いには目を瞑る人。
俺も最初の頃、名刺交換や敬語などで酷く注意されたものだ。そのおかげで身に着いたものもあるが、基本的にはストレスになって蓄積される。
大金を得れば、ごく普通の社会人は見下される運命なのか。
何はともあれ、資料を回収することに成功した。この人と話すことは微塵もないし、また来週に打合わせで伺うことになっている。俺は予定にもない外出を理由にして赤坂理事長を帰らせようとした。
そこで疑問に抱く人はまずいないだろう。赤坂理事長も出されたお茶を少し飲むと、「じゃあ後はよろしく」と肩に手を置いて言い、応接室を出た。
エントランスまで一緒に歩き、受付にいた紫藤と一緒に頭を下げて見送った。
赤坂理事長が見えなくなったのを確認して、俺は紫藤に向かって小さく頭を下げた。
「対応ありがとうございました」
「いえ。お疲れ様でした」
それ以上に会話は無い。むしろ、紫藤と話を弾ませられる人がこの会社にいるのだろうか。
義務で笑っているのは何度か目にする。それはあまりにもぎこちないというか、相手を拒絶しているなっていうのが伝わる笑みだから。
まあいい。とりあえず俺はこの確定申告を終わらせる。デスクに戻ろうと一歩を踏み出した――そのときだった。
「助けてくださいっ!」
エントランスの自動ドアが開いた瞬間、絶叫ともいえる声が飛び込んできた。
そこには、三月とは思えない格好の若い女性が立っていた。ぬくぬくと過ごしていたであろう薄手の部屋着に、慌てて羽織ったであろう厚手のガウン。彼女は激しく肩で息をしていた。
ここに来る途中で転んだのだろうか、剥き出しの細い脚にはいくつか痣があった。
さすがの緊迫した状況に、紫藤は急いで彼女のもとに駆け寄る。
何か事件でもあったのか。それとも誰かに襲われて逃げてきたのか。
彼女は俺の顔を見るやいなや、縋りつくように両肩に手を置いて、「助けてください! お願いします!」と言った。
酷くパニックに陥っているのか。この人の容姿などを考慮すると、ストーカーの線は大いにあり得る。
「落ち着いてください。何があったんですか?」
努めて冷静に問いかけると、彼女は溢れ出しそうな涙をこらえ、息を整えてから言葉を発した。
「税金に、襲われます!」




