9
魔族は、分厚い雲を破って降りてきた。
全員、あれがそれだとわかった――圧倒的な魔力だ。
魔力圧を軽減するための装備を使ってなお、身体が凍りついた。あれは無理だと魂が悲鳴をあげる。
――無理じゃない。
いや、この状態のルジェリには無理だ。それは認めざるを得ない。
イシュダヴァを中心に、数名の魔術師とその護衛騎士が彼女を囲んでいるが、魔族はなんら気に留めることはなかった。
これが罠だということくらい、魔族にもわかるだろう。周辺に重唱魔術の準備があることは、隠していない。隠しても無駄だからだ。魔族は魔力を視る――それこそ、イシュダヴァ以上の精度で。
だが、重唱魔術の準備があることは感知できても、どんな魔術が仕込まれているかはわからないはずだ。
全員を見下ろす位置で――長身の師団長の頭よりさらに高いところで、魔族は止まった。角がある。尾がある。翼がある。組んだ腕は太く、爪は長くするどい。それでいて、顔立ちは清純無垢な乙女のようだった。肌は蒼白く、血の気がない。それも当然、魔族には赤い血が流れているわけではないのだから。
「そなた」
魔族の声は低かった。雷鳴のように空気をふるわせた。
虹色の眸が、イシュダヴァを見下ろしている。
「よう育ったな。食い頃であろう」
イシュダヴァは不敵に魔族を見返した――と思う。目隠しのせいで表情はわかりづらいが、口角は上がっていた。
その口が、言葉を紡ぐ。心地よい、落ち着いた声だ。
「よく来たな」
イシュダヴァは、相手の魔力に抗し得ることを証明した。大丈夫だ。できる。
「みずから出迎えるとは、殊勝であるな。さあ、我のもとに参れ」
「誰が殊勝だ。わたしの居場所は汝の胃袋の中ではない。ここだ!」
イシュダヴァの叫びは、起動の鍵だった。
一斉に、重唱魔術が起動する。一重ではない。二重、三重、四重――どこまでも展開し、封じこめていく。
重唱魔術とは、特定の空間を独自の決まりごとで定義づけるものだ。だから、囲うのと定義づけで二重の魔術を同時起動する必要があり、それで重唱魔術と呼ばれる。
イシュダヴァたちを覆った空間の定義は――。
「む」
魔族が墜ちた。
真っ先に動いたのは、ルジェリだった。イシュダヴァの背後に控えていたから、距離が近い。どこでもいいから一撃入れてやりたいが、できれば尾を切り落としたいと思った。
尾は人間にはないもので、読みが難しい。すぐに意識から消えてしまい、視界の外からいきなり攻撃されることもある。危険な部位だ。
だが、ルジェリの剣はほかならぬ尾ではじかれた。剣を取り落とさなかった自分を褒めてやりたいと思うほど、重たい一撃だった。
「どういうことだ」
魔族は立ち上がっていた。眼球がぐりぐりと動いている。虹の光輝が失われつつあるのは、魔力が乏しいせいだろう。
この空間は、魔力を消すためのものだ。
魔力比べでは、イシュダヴァくらいしか太刀打ちできない。全員倒されて終わりである。
だったら、魔力を奪ってしまえばいい。こちらが魔術師団だから、まさか魔力を消してくるとは想像しないだろう。みずからの力をわざと減じるような作戦、魔族は思いつかない。魔族にとって、力こそがかれら本来の在りかたなのだから。
そこに付け入る隙がある。
だが、重唱魔術を最大限に重複させても、上級魔族の魔力をすべて奪うことは不可能だ。イシュダヴァや、上位魔術師の何名かも同じだ。
すべては奪えなくとも、減らせれば――そう師団長に直訴したのは、ルジェリである。立場を鑑み、ほかの魔術師を経由すべきか少し考慮したが、とにかく急ぎだと自分で訴えた。
師団長はすぐに飲み込んで、部下に重唱魔術の設定変更を命じた。担当者は徹夜で作業にあたった。間に合ってよかった。
魔力の圧さえ消えれば、護衛騎士が戦える。同僚たちへの根回しは容易だった。積年の鬱憤を晴らしてやる! と、皆が前のめりで賛成してくれた。
「どうなっている!」
この叫びは、一旦引いたルジェリに向けられたイシュダヴァのものだ。
哀れ、彼女は作戦の変更を知らされていなかった。嘘つきのクソ魔術師を騙し返しただけなので、ルジェリの心には一点の疚しさもない。
魔術師の腕を掴み、ぐいぐい引っ張って魔族との距離を空けた。
「イシュダヴァ様、まだ魔術を使えますか?」
「当たり前だ! ……いや、ちょっと危ないな。いつもほどには無理だ」
重要なことだと認識したらしく、後半は正直だった。
ルジェリは指笛で竜を呼んだ。陣の端に控えさせておいたのだ。賢い竜は、すぐイシュダヴァの隣に来た。竜は魔力がなくても動けるが、残念ながら火は吐けなくなる。それが可能だったら、囲んで燃やしておしまいだったのに。
……ま、護衛騎士が手柄を上げる、滅多にない機会が得られたのだから、それでいい。
「いいですか。重唱魔術が効いているあいだ、上官はここから出られません。できるのはせいぜい、護衛騎士を応援することくらいです。上官の安全は竜に委ね、自分もあっちに参加します」
同じく陣の端に控えていた腕利きの同僚たちが、魔族を囲んでいる。魔力を失ってなお、多勢に無勢である程度戦えているあの魔族には、少しだけ感心しなくもない。
「聞いていたのと違うぞ」
「当然です。教えたら従ってもらえませんので」
「ルジェリ!」
ルジェリは剣を構え直した。やっぱりあの尾だ。太くて長くてぶんぶん動く尾。あれを、なんとかしたい。
「あいつの尾を固定したり……できますか?」
「ひとりでは無理かもしれん」
「師団長があそこにいます。相談して協力してください。尾と翼はわかりづらいので、優先して封じ込めたいです」
「……許さんからな、ルジェリ」
「作戦を許可したのは師団長ですから、苦情もそちらにお願いします。では、行って参ります」
ルジェリは同僚たちと並び立った。
魔族は糸のようにほそい稲妻をあやつり、その腕に斬りつけていた護衛騎士をしりぞけた。一本、二本。稲妻は、何回もあらわれて空間を切り裂く。
ルジェリも一回はそれにふれた。大した痛みでもないが、一瞬でも痺れるのが困る。動きが止まってしまうからだ。
それでも、皆の攻撃で徐々に魔族は弱っていく。懸案の長い尾も、切り落とすことができた。翼もまともに動かせまい。骨を折ったからだ。
――けど、魔力さえ復活すればなんの問題もないだろう。
肉体が痛めつけられていても、あの魔力があれば。
重唱魔術の効果時間にはまだまだ猶予があるが、一刻も早く終わらせたい。なにか嫌なことが起きそうな気がする。
正体不明の焦りを覚えつつ、ルジェリは剣を構え直した。汗で握りが滑りそうだ。そこにまた、糸のような雷撃が来る。躱したものの、すべって体勢を崩し――ルジェリは空を見た。
「……まずい」
あたりを覆う魔術の天蓋に、罅が入っている。
原因はすぐに知れた。あの雷撃だ。雷を呼ぶことで、外の雲と繋がっている――繋がった魔力が重唱魔術に干渉し、その殻を壊そうとしている。
「急げ!」
仲間に叫んで、ルジェリ自身はイシュダヴァを目で探した。どこだ。いない。嘘だろ。いるはずだ。冷静に探せ。
いた。
イシュダヴァも、空を見上げていた。
隣に立つ師団長は、まだ気づいていない。
「イシュダヴァ様!」
ルジェリは叫んで、彼の魔術師を目指して地を蹴る。
そのとき、天蓋が割れた。
耳を圧する轟音。たちまち萎えてしまう手足。そして、魔族の低い声。
「よい余興であった」
「本番はこれからだぞ」
魔族に応えたのは、もちろんイシュダヴァ。
彼女は少し屈み――移動魔術を使う前の予備動作だ。ルジェリにとっては死ぬほど見慣れた、呪わしい動きである――そして消えた。
魔族もそれを追った。魔力の圧に伏していた護衛騎士たちも、急いで詠唱をはじめた主力級の魔術師たちも、誰も間に合わなかった。かろうじて師団長は魔族の翼に一撃当てていたが、魔族は意に介さなかった。翼で飛んでいるわけではないのだ。
あれは、魔力そのものだ。
「外から来るぞ!」
上位魔族が姿を消しても、彼が率いた魔族どもは残っている。ルジェリたちが重唱魔術の空間で戦っていたあいだも、外ではほかの魔術師や護衛騎士たちが支えていたのだ。
魔力の圧が消えて立ち上がった護衛騎士たちは、くそっとつぶやきながら、それぞれの魔術師を探して散った。
「ルジェリ」
師団長に声をかけられたルジェリは、すでに竜の背にいた。
「上官を探しに行きます」
「……ああ、行ってきたまえ。無事の帰還を祈る」