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嘘つき魔術師、謀られる

 その日は、空気が湿り気を帯びて重かった。


 ――奴が来る。


 唐突に、今の状況がわからなくなる――上級魔族が来るのに、なぜ周囲は準備をして迎え撃とうとしているのか。さっさと逃げた方がよくないか。イシュダヴァを残して。

 重唱魔術の担当者たちは、夜を徹して魔術を練り上げていたらしい。予定では、重唱魔術で封じた空間に、最大出力で炎の魔術を撃つことになっている。囮をつとめるイシュダヴァはもちろん、罠にかかわる人員は耐火の魔術をあらかじめ準備していた。


 ――その程度で、奴を倒せるわけがない。


 奴はすぐに――あるいは少し愉しんでから――魔術を解いて、あたりを圧倒するだろう。

 罠の中で待ち受けるのはイシュダヴァのほか、師団でも特に魔力の豊富な魔術師数名。もちろん、師団長も含まれている。

 こんな日でさえ、師団長の魔力は美しい。いつもと変わらず、安定した循環を見せている。


「君を囮にすることになって、すまない」


 そんなことを告げる師団長に、イシュダヴァは笑って答える。


「すまないのは、わたしの方ですよ。個人的な因縁に、師団の精鋭を引っ張り出して!」

「それは考え違いだ、イシュダヴァ」


 師団長は、ゆっくりと答える。落ち着いた声は耳に心地よく、魔力同様に安定している。


「違わないですよ。わたしは奴に復讐したい。師団はそれに巻き込まれてしまった」

「いいや、違う。彼奴あやつは毒だ。強過ぎて、国を滅ぼしかねないほどの。討てる機会があれば、必ず討つ」


 個人の問題ではない、と師団長はつづけた。低い声だった。


「あれは、君がいれば必ず来る。またとない好機なのだよ。イシュダヴァ、君はどうせ接敵し次第に遠くへ誘導しようと考えているに違いないが――まずは、我々にやらせてくれ」


 完全に見通されているが、まぁそうだろう。強敵があらわれたら誘導して距離をとり、一騎討ちに持ち込む。それがイシュダヴァの戦いかただ。今回も、変える気はない。奴が引き連れている手下どもは、押し付ける気満々だったが。

 なにをいっても無駄であることを、イシュダヴァはもちろん、師団長も知っている。


「効くと思いますか、重唱魔術」

「間違いなく」


 なまじ声がやわらかいので、断言されても重みが薄い。美しいのも困りものだと思ったところで、イシュダヴァの額が疼きはじめた。


「来ます」


 イシュダヴァの声に、師団長が手を挙げる。重唱魔術を完成させるため、詠唱の最後の部分を準備する魔術師たちや、それを護る護衛騎士――あからさまな罠を取り囲んだ面々の魔力が揺らぐ。期待、恐怖、疑念。

 仕込まれているのが明々白々であっても、上級魔族は臆しない。それどころか楽しげに魔力をふるわせて、上空にあらわれた。


 ――間違いない。奴だ。


 幼い日のイシュダヴァに焼き付けられた記憶が、即座によみがえる。

 おぼろになった両親や兄、姉たちの面影を、奴が塗りつぶす。イシュダヴァには自分しかいない、とでもいうように。

 魔族の印象は、混沌でしかない。その混沌の中央に、美しい――どこぞの姫君のような清純可憐な顔が浮かんで、それがイシュダヴァが肉眼で見たさいごの景色だ。

 視力を失った今でも、イシュダヴァは奴の顔をることができた。色とりどりの魔力の渦をべる、聖女のかお。くちもとに浮かべた笑みは、慈愛そのもの。眼差しは、まっすぐにイシュダヴァを射る。

 凄まじい魔力の圧に耐え、彼女は奴を見上げた。


「そなた」


 魔族の声が、空気をふるわせた。すべてを吸い上げるような声だった。

 イシュダヴァは屈しない。足に力を入れろ。倒れるわけにはいかないんだ、わたしだけは。


「よう育ったな。食い頃であろう」


 待っていた。いつか自分を食いに来るこいつを、ずっと待っていた。


 ――死ぬかもしれない。いや、わたしは確実に死ぬだろう。だが、ひとりで死にはしない。おまえも道連れだ。


 覚悟はできている。心からの笑顔で、イシュダヴァは魔族を迎えた。


「よく来たな」


 相手も、笑みを含んだ声で応じる。


「みずから出迎えるとは、殊勝であるな。さあ、我のもとに参れ」

「誰が殊勝だ。わたしの居場所は汝の胃袋の中ではない。ここだ!」


 それが起動の合図だった。

 と同時に、魔族が墜落した。イシュダヴァも、あやうく膝を地面につきそうになる。


 ――なんだ?


 魔力が動かない。師団長の魔力さえ、循環を止めているようだ。

 視界も、靄がかかったようになっている。いつもの精度が得られない。


 ――奴が仕込んだのか?


 いや、だったら墜落したりはしない。

 当惑するイシュダヴァの背後から、ルジェリが飛び出した。彼女の護衛騎士。こんな状況でも、彼の輪郭だけは鮮明だ。空間を切り裂くように、ぐいぐいと前に出る。


 ――なぜ、動ける!


 ルジェリはたちまち魔族に肉薄したが、奴の長く太い尾の一閃で、吹っ飛ばされた。

 イシュダヴァは呆然としている。なにが起きたのか、まったく理解ができない。魔族の圧で動くこともできないはずの護衛騎士たちが、次々と参戦している。

 イシュダヴァの肘を、ルジェリの手が掴んだ。吹っ飛ばされたというのに、無事なのか。いや、それより。


「どうなっている!」


 思わず叫んでしまった。動揺している。当然だ。だって、なにかが……なにもかもが、おかしい。


「イシュダヴァ様、まだ魔術を使えますか?」

「当たり前だ! ……いや、ちょっと危ないな。いつもほどには無理だ」


 かなり厳しいが、自分もこの状況に慣れつつある。魔力はゆっくりとだが循環をはじめ、視界にも今は異常がない。


「いいですか。重唱魔術が効いているあいだ、上官はここから出られません。できるのはせいぜい、護衛騎士を応援することくらいです。上官の安全は竜に委ね、自分もあっちに参加します」


 いつのまにか、竜が来ている。イシュダヴァの手は竜の背に誘導された。竜の装具を掴みながら、なんだこれ、とイシュダヴァは思った。計画的犯行だ。間違いない。


「聞いていたのと違うぞ」

「当然です。教えたら従ってもらえませんので」

「ルジェリ!」


 批難するように名を呼んでも、人型の虚無の輪郭が揺らぐことはなかった。それどころか、こちらの協力を要請してくる。


「あいつの尾を固定したり……できますか?」

「ひとりでは無理かもしれん」

「師団長があそこにいます。相談して協力してください。尾と翼はわかりづらいので、優先して封じ込めたいです」

「……許さんからな、ルジェリ」

「作戦を許可したのは師団長ですから、苦情もそちらにお願いします。では、行って参ります」


 虚無は、行ってしまった。

 竜が動きはじめたので、イシュダヴァもそれに従った――こいつ、人間の言葉をどこまで理解してるんだろう? とぼんやり思いつつ。


「師団長」

「まずは我々にやらせてくれ、ということだ」

「なんなんです、これは」

「ルジェリの発案だ。魔力を封じている。重唱魔術を重ねに重ねても完全に失わせることはできないが、動きは鈍るし、ろくな魔術も使えなくなるだろう――あれほどの上級魔族であってもな」


 なるほど、とイシュダヴァは思った。なるほど。


 ――自分にできること、ぜんぶやって生きています。


 さすがの有言実行ぶりだ。縮こまって眠るしかなかったイシュダヴァとは、次元が違う。


「……ルジェリが、尾と翼を優先して封じ込めたいと」

「なるほど。ささやかながら、我々も協力しよう。見たところ、尾が厄介なのは事実だろうね……付け根を狙って切断するのがよさそうだ。こつこつやれば、通るだろう」


 師団長らしい言葉だと思った。このひとは、ずっとそうだった。あれだけの魔力がありながら、驕ることなく、小さな努力を積み重ねてきた。だから美しいのだ。


「及ばずながら、わたしも助勢いたします」

「君が及ばなかったら、ほかの魔術師は形なしだ」


 師団長は笑って、詠唱をはじめた。いつもほどの循環はないが、それでも少しずつ魔力が巡りはじめている。この環境に慣れてきているのだ。


 ――つまり、奴も同じということだ。


 イシュダヴァの推測を裏切ることなく、魔族は魔術を併用しはじめた。上から下へと通る、ほそい雷撃。近寄った護衛騎士にだけ当てている。ほんの小さな雷撃ではあったが、痺れが護衛騎士たちの勢いを削ぎ、戦力を低下させているのがわかる。

 憎い相手だが、頭が切れるのは認めざるを得ない。

 重唱魔術で動きを封じた上で雷を当てるという作戦もあったから、そちらを採用していれば全員が耐雷装備だったのに……運がなかった。


 戦闘はつづく。厄介な尾は切断した。めくらましのように使われる翼も裂いた。それでも奴は動じることなく、延々と雷撃を――。

 イシュダヴァは、はっとして空を見上げた。雷撃は、ただこの重唱魔術でとざされた空間のみを切り裂いてはいなかった。それは空を覆う雲から、魔術の天蓋を通して地表に達する。


 ――破る気だ。


 こつこつ当てているのは、あちらも同様だった。想定より早く、重唱魔術は破られるだろう。

 まずは我々――だったら次は、自分の番だ。こまごまと術を撃って消耗するのはやめた。どうせ、今の環境では護衛騎士の方が強いのだ。


 だから、重唱魔術が割れたとき、イシュダヴァはすっかり準備ができていた。

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