嘘つき魔術師、仇敵と戦う
ルジェリに名を呼ばれた――かもしれない。
だが、イシュダヴァの意識は目の前の魔族のみに向けられていた。
魔力封じが消えた今、魔族は立っているだけでも脅威となる存在だった。放出される膨大な魔力は、あたりを薙ぎ倒さんばかりだ。実際、護衛騎士たちは動くことができなくなっている。
「よい余興であった」
魔族の言葉に、イシュダヴァは笑って応じた。
「本番はこれからだぞ」
――さあ、存分に殺し合おうじゃないか。
当初の目論見通り、雑魚はここに押し付けて行く。
イシュダヴァは飛翔した。無詠唱で飛べる距離は短い。高度もそこそこだ。それでも、魔族の囲みを抜けるくらいはなんとかなった。
――魔力の流れが悪い。
じきに治るだろうが、それは奴も同じはずだ。先ほどの圧倒的な魔力放出は、封じられていたことの反動のようなものだ。今の奴は、万全の状態ではない。
復調する前に。できるだけ早期に決着をつけたい。
「逃げるのか」
魔族の声が、イシュダヴァの背を追う。はっ、と笑って彼女は応じる。
「おとなしく食われるのは性に合わないのでね!」
地面に足を着き、わずかに詠唱した。もっと速く、高く飛ぶための魔術だ。
魔族に追いつかれる寸前に詠唱が完了し、イシュダヴァは空へと舞い上がった――地形が複雑な方がいい。できれば川とか森とかあって、魔力の流れが読みづらい場所。
障害物は、互いの感覚を鈍らせる。魔族は感覚器官のほとんどを魔力に委ねているはずだ。イシュダヴァが勝手に思っているだけで、世間でどういわれているかは知らない。だが、無駄に魔力を放出しつづけているのは、反射ですべてを把握するためと思えば納得できる。自身も必要に応じてやることだから、わかるのだ。
ひたすらに、イシュダヴァは飛んだ。
――わたしは、あいつの魔力に屈していない。
戦うための最低条件は達成済み。その上、奴は手負いとなった。肉体の欠損は、感覚を狂わせるはずだ。
飛びながら、イシュダヴァは考える。どうする? どうすれば奴を倒せる?
結論が出ないまま、着地した。
そこは清涼な流れのある沢だった。周囲は木に覆われている。なんの準備もなく登るのは無理そうな急斜面には、木が生えていない。地形を見るに、崖崩れがあったのだろう。
いきものが纏う微弱な魔力の流れだけで、イシュダヴァはそこまで判断できる。
――とりあえず、水だな。
イシュダヴァは無詠唱で水の矢を何本も作り、次々に飛ばした。材料は沢の流れから無限に入手可能だ。
「傷を洗ってくれるのか?」
上空から、魔族の声がする。そんなことをいって、一発も当たっていないようだ。そうだろうな、とイシュダヴァは思う。これが当たるとは、期待していない。
再度、イシュダヴァは大量の水の矢を飛ばした。避けることが不可能な、ほとんど面といってもいい攻撃だ。
――奴は、わたしを侮っている。
稚拙な攻撃を向ければ、愉しむはずだ――しばらくは。
次々と水の矢を飛ばしながら、イシュダヴァは重唱魔術にとりかかる。
さすがに、長い詠唱はできない。だが、狭い空間を定義するに留めれば。
――いけるか?
魔族はまだ遊んでいる。弱者を見下ろして、悦に入っている。
と、空気を切り裂くような雷撃が飛んできた。
事前に用意していた反射の術が発動し、イシュダヴァの守りが剥げる。
それでも、詠唱は止まらない。二重の魔術を、彼女は発動させた。
魔族が、墜落した。
――本日二回め。いい気味だ。
脳裏に浮かんでいたのは合成獣の罠だった。
急な重力に襲われて集中ができなくなり、まともに魔術を扱えなくなった、あれだ。
――自分がやられて嫌なこと、だったりはしないか?
さっきも、墜落したときに動揺を見せていた。……まぁ、イシュダヴァも大いに狼狽したのだが。
イシュダヴァは水の槍を練り上げ、魔族に投げた。
惜しい、ちょっと遅かった。魔族は立ち直り、槍を握ってただの水に戻した。
「そんなに洗いたいのか」
「溺れ死んでほしいだけだ」
軽口の応酬。まともに会話するのは、はじめてだ。なのに、妙に馴染む。長年繋がっているせいだろう。だから、奴も会話を愉しむのだ――それが彼女を食うまでの短い時間だったとしても。
「溺れ死ぬというには、水の量が少ないようだが」
イシュダヴァは水を集めた。
「口の中に突っ込めば、いけるだろ」
さっきより少し大きい槍を、投げつける。なにも考えていないかのように。
「可愛らしいことだ」
魔族は微笑んでいる。あの可憐な貌で、頬まで染めて。
そのまま、ゆるりと舞い上がる。
――気もち悪い。
奴の身体を循環している魔力も、もちろん周囲に放射しているものも、すべて。ひたすら猥雑で、見苦しい。
常時魔力を放出しているせいだろう、輪郭も曖昧だ。もっとビシッとせんか、と思ってしまう。
移動しながら、イシュダヴァは水の槍を投げる。この程度のこと、イシュダヴァには造作もない。無論、魔族がそれを避けるのも。
避けた水がどこに行くか――イシュダヴァは観察し、誘導する。水を、そして魔族の位置を。
「それほどの魔力があれば、もっと多様なことができように」
魔族が煽ってきた。そろそろ飽きたかと考え、イシュダヴァは雷撃をはなった。魔族がやっていたように、雲から通す――自分の魔力以外の力も借りる戦法だ。
「たとえば、こういうのとか?」
ふつうの魔族なら即死するような代物だが、こいつは格が違った。雷の矢を手にして、びりびりいわせたまま固定する。
「ようやった」
魔族は恍惚として答える。そして、可愛い獲物に向けて雷を投げた。
イシュダヴァはそれを無効化しつつ、魔力を吸い取った。効率は悪いが、少し回復する。
――もう時間がない。
あいつの魔力は、ふたたび満ちていく。仕掛けよう。
なんの裏付けもない直感だが、イシュダヴァは自分を信じた――あの魔族と繋がっている感覚を信じたといってもいい。
額がうずく。復讐だ! 思い知らせてやれ!
ごくゆっくりとした動きで、イシュダヴァは水を練った。同時に重唱魔術を短く唱える。極限まで短く、簡素に。
イシュダヴァの頬を、ぴりりとなにかが引き裂いた。魔族が飛ばした、ほそい雷。つい先刻の光景をよみがえらせるように、ほそい――しかし、数が違う。
重唱魔術を唱えきる前に、イシュダヴァは水の槍をはなった――雷がその中で爆発する。無論、魔族はそれを無効化する。
一瞬置いて、重力が魔族をとらえた。
「これしきのもので、拘束できると思っているのか?」
魔族が彼女を嘲笑う。だが、イシュダヴァは迷わなかった。
もう何回めだろう。水を集めて落下した魔族にぶつけ、魔族がそれを打ち上げた。
――かかった。
ひっそりと用意していた雷撃が、次々と魔族を襲う。魔族は地に押しつけられたまま、それを跳ね返す。耳障りな笑い声が谷間に響いた。
次いで、どぉん、と。凄まじい音がした。
山が、崩れた。
濛々《もうもう》たる土煙を切るように、イシュダヴァはわずかに飛翔する。自分まで土砂崩れに巻き込まれるわけにはいかない。
飛ぶことを好む魔族は、木がない方へと移動しがちだ。脆い斜面に誘導するのは容易だった。そこには、表面の崩れを支える植物もない。崩れやすいまま放置されていた。水と雷の衝撃で、容易に動かせた――それが、斜面の下に固定された魔族に襲いかかる。
イシュダヴァは学んだのだ。
――魔術で勝てないなら、物理で叩けばいい。
師団の皆の攻撃で、魔族は弱っている。あきらかに、魔力も減衰していた。だから、より強力な物理的衝撃を与えることができれば。
すべてが噛み合った今、イシュダヴァは魔族をあの場所に固定することに全力を注いでいた。押し潰せ、押し潰せ……奴の魔力が滲み出て来たのを、こまかな無詠唱魔術で相殺する。
必然、イシュダヴァも激しく疲弊した――だが、奴ほどではないはずだ。前哨戦で力を出さずに済んだことが幸いした。肉体的な負傷も少ない。大丈夫、勝てる。
それでも、崩れた土砂の下から魔族がぬるりと出てきたとき、イシュダヴァはもう飛ぶ力さえなく、膝を折る寸前だった。
――まだ生きているのか。
だが、瀕死だ。身体が妙な形状に歪んでいる。美しかった顔も、さだかには視えなくなっている。魔力の放出も、おだやかだ。どんどん減衰している――輪郭が、よくわからなくなるほどに。
とどめを刺そうとしたイシュダヴァの耳に、やわらかな声が届いた。
「おいで」
イシュダヴァは驚愕した。自分の足が、前に行こうとしたからだ。
魔族は言葉をかさねる。
「おいで、可愛い子。ともに行こう」
どこへ? 死の国へか? たぶんそうだ。魔族はもう死ぬ、その旅路にイシュダヴァを伴おうとしている。残った力で、彼女に魅了の術をかけようとしているのだ。
魔術で攻撃しようとしても、できない。まるで慕わしい相手に敵意を向けたような気分になり、意識をまとめることさえ不可能だ。
よろめきつつ、イシュダヴァは前に出る。その足は意のままにならず、魔族に従ってしまう。
あと少し。一歩かそこらで、魔族の手が届く――。
――よくて相討ち。
頭に響いた師団長の言葉を頼りに、イシュダヴァは身内に残る魔力を余さずふり絞った。巨大な炎で、我が身を包む――作戦前に展開しておいた耐火魔術と装備が、保ってくれることを願う。
攻撃できないなら、自分を火種にするだけだ。
「我が身が欲しいというなら……これを受け取れ!」
最後の一歩を、イシュダヴァは詰めた。魔族が延べた手が、火に包まれる。
魔族はその瞬間、まるで幸せな花嫁のような笑顔を見せて――悶え苦しむこともなく、ただ溶け消えて塵となった。
今度こそ膝を折り、イシュダヴァは地面に倒れ伏した。額が痛む。いや、頭全体が痛む。魔力を使い切ったのだ、もう身動きすらできない。呼吸することさえ、つらかった。ひょっとすると、喉が焼けたのかもしれない。
頭蓋を叩かれるような激しい痛みに苛まれつつ、イシュダヴァは大きく息を吐いた。
やり遂げた、と思った。
親兄弟や故郷の仇を討ったという実感はなかった。それより、ただ。
――皆を、守れた。
満足だ。かつてないほど――そう考えたまま、イシュダヴァは意識を失った。




