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52 トレーニング準備室2

 この危機的状況に逃げなくては、と頭では思っているのに足が動かない。


 もうだめだ


 咄嗟にぎゅっと目を瞑った瞬間、右腕が強い力に引っぱられた。突然力が加わりバランスを失った体はそのまま前のめりに倒れ込む。この体勢はヤバい、顔から落ちる…!

 そう思った時には、鈍い音を立てて私の体は硬くも柔らかくもない何かの上に軟着陸していた。続いて、金属の塊が床に落ち転がる轟音。


 何が起きたの?


 状況はわからないが、重たい金属の直撃は免れたようだ。

 心臓が激しく脈打ち、体が硬直して目を開くのにしばらく時間が必要だった。2秒? 5秒? 大した時間は経っていないかもしれないけど、しばらくの沈黙の後、うつ伏せのまま少しだけ頭を上げて薄目を開けた。


 まず視界に入ってきたのは、見覚えのある濃紺の生地に金の飾緒。そのまま視線を上にやると、逞しい肩が見え、そして肩から伸びた腕が私の頭を庇うように抱えているのがわかった。その肩の向こうに、転がっている金属のウェイトやらダンベル類が見える。十個以上はあるだろう。あれが頭の上に降ってきていたら、と思うと背筋に冷たいものが走る。

 状況を把握しようと体を強張らせたまま目線だけを動かしていると、私が下敷きにしている人物が起き上がろうと身動ぎしているところだった。


 私が下敷きにしていたのは、マクアダムス卿だった。


「お怪我は?」


 組み敷いた体の下から問い掛ける声がし、密着している胸に直接響く。


「あ、あの、大丈夫です。マクアダムス様は、大丈夫ですか」


 声の方向を向いて返事をすると、形の良いおとがいがすぐ近くに見えた。いい眺めである。


「体を起こしたいので、上から降りてもらえないでしょうか」

「あ、すみません!」


 ハッとして上体を起こそうとすると、私の頭と背中に回されていた腕が解かれた。今更ながらとんでもない体勢だ。私は騎士殿の腕の中で胸にしがみつくように重なって、その上いつの間にか左手で騎士殿の制服を握りしめていたのだ。

 急いで体を起こして、騎士殿の脇に移動する。上体を起こすマクアダムス卿を手伝おうと手を添えてはみたものの、その必要はなかった。


 わざわざ尾行を撒いてまで遠ざけた騎士殿が、またしても私のピンチを救ってくれた。

 私が騎士殿の上であられもない体勢になっていたのは、金属のウエイトが降ってくる直前に私の体を引いて、着地の際の下敷きになってくれたからだろう。

 全体重を預けてしまった上、そのまま床に倒れ込んだらその衝撃は相当なはず。どこか痛めてないだろうか。

 床に座ったまま優美な所作で肩や袖の埃を払っている騎士殿に声を掛けた。


「あの、どこも痛くありませんか」

「そうですね。少し首が…まあ、問題ありません」

「背中はどうですか?」

「大丈夫です」

「頭は打たれませんでしたか」

「はい」


 よかった。


 ほっとするのも束の間、罪悪感と、もし私か騎士殿があの金属の下敷きになっていたら、という恐怖や後悔が押し寄せてくる。やっぱり、あんな怪しい手紙の誘いに乗ってしまったのはバカだった。すんでのところで助かったが、騎士殿にも大怪我をさせてしまうところだった。

 申し訳なさが込み上げる。

 私はすぐさま足を正座に正し、精一杯慇懃に騎士殿に平伏した。


「本当に、本当に、本当に申し訳ありません。私が軽率だったせいで、マクアダムス様にご迷惑をおかけしてしまいました」


 渾身の謝罪。許してマクアダムス様!


「今日、マクアダムス様がこちらに向かわれないようにしたのも私です。危ない所に立ち入ってしまい…本当に浅はかでした。お許しください。」


 一瞬の沈黙。今日こそ本気でキレられても文句は言えない。面倒くさいトラブルメーカーだと思われているだろう。

 どんな辛辣な言葉も自業自得だ、さあ来い。私は身を硬くして次の言葉を待ち受ける。


「いえ、謝罪には及びません。それに…御令嬢がそんなに風に額突いてはなりません、さあ、立てますか」


 返って来た言葉に拍子抜けしつつも、促されて手を取られる。助け起こしてくれるマクアダムス卿。立ち上がりざまに足に力が入らずよろめくと、しっかりと肩を支えられた。

 怒っているだろうか、とおずおず見上げると、その青い瞳が私の上でちょうど止まる。視線が絡まった瞬間、マクアダムス卿は二、三度素早い瞬きをしただけで、表情に苛立ちは感じられなかった。呆れているだけかもしれないけど。


「とにかく、今後は人気のないところに一人で行かないと約束してください。どこかに行かれる際は、いつものようにご友人と賑やかにご移動ください」

「ええ、はい、わかりました。お約束します。――今日も助けていただいて、ありがとうございました」


 私は再び深々と頭を下げた。

 尾行を振り切ったつもりだったが、もし騎士殿が来てくれてなかったら、大怪我をしていたかもしれない。

 ふと、ここに来るまで、ミシェルに変装していたことを思い出し、尋ねる。


「そういえば、マクアダムス様はなぜこちらにいらしたんですか」

「あなたが部屋を出られた時から、後ろにおりました」

「部屋から? 今日は髪型も服もミシェルのものですし…」


 しっかり変装しているつもりだったんですが。


「あなたは考え事をされる時、左手を頬に当てるくせがあるようですね」

「…?」


 そう言われて、今も頬に手を当てていることに気付き、慌ててその手を下ろす。


「見覚えのある仕草で部屋を出られたので、ビノッシュ嬢ではないことがわかりました」


 そのまま尾行して来た、ということか。


「そうでしたか…」


 恥ずかしい! 恥ずかしすぎる。変装が見破られていた上、自分の知らない妙な癖まで指摘され、部屋を出てからずっと後ろにいたとは。

 自分の子どもっぽい小細工を見透かされていた気まずさに言葉を繋げず黙っていると、入り口から大声と足音が聞こえてきた。


「レイラさまー!」


 パティの声だ。続いて慌ただしい足音。きっと心配して走って様子を見に来てくれたんだ。

 我に返ると、無意識のうちに騎士殿との距離がかなり近かった。半歩後ろに下がってから、入り口に呼びかける。


「パティ!こっち!」


 戸口に現れたパティが駆け込んでくる。


「急に声が聞こえなくなって、心配で来ちゃいました~。

 あれ、マクアダムス様…!」


 騎士殿の姿を見て、驚くパティ。続いて、床に散乱している金属の機材に気付いて「もしかして、何かありましたか?」と血相を変える。

 そこへ、風紀委員の残りのメンバーが小走りにやってきた。みんなの顔を見たらなんだかホッとした。例の装置の音声が急に途切れて、皆心配してくれていたようだ。急に賑やかになった室内で、私は今起きたことを矢継ぎ早に話し始めた。

 こんなにいい仲間がいるんだから、これからはなんでもみんなに相談して単独行動は慎もう。

 ただし、今日起きた事をみんなに報告するとしても、騎士殿の上に着地したことは黙っておかないと。私を取り囲む友人達の肩越しにマクアダムス卿を盗み見ると、ぱちんと視線が重なってしまった。

 申し訳なさから、不自然なほど性急に目線を逸らしてしまう。私が友人とのおしゃべりに戻っても、マクアダムス卿の視線が私に注がれている事を感じていたが、再びそちらを見ることはできなかった。

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