閑話・災厄来る
―よぉ、赤毛の! いつも通りに時間ぴったりじゃのぉ
―やぁドス殿。待ちわびましたよ
最近には珍しく、とても穏やかな1日の始まりだった。
空は何処までも青く澄み渡り、一切れの雲も見えない。太陽で暖められた空気の中、静かに通り抜けていく風が心地よい。
世はすべて事も無し。最近の天気の荒れ様は、きっと神々の気まぐれか悪戯だったのだ。
生命あるものたちはいずれもそのような感想を抱き、各々に今日と言う日を生きていく。まるでそうでなければ困ると、胸の内の言い知れぬ悪寒を押し隠すようにして。
しかし。
それは、確かに起こっていた。
びしりっ!
遥か天空。矮小なる者どもではどうあっても到達できない領域で、何かが激しく振動するような、そんな音が響き渡っていた。そしてその発生源を中心にして、何羽もの白い鳥が群れが見える。
否、鳥ではない。白い翼と薄衣に身を包んだ人の姿。天使たちだ。まるで、揺れる虚空を覆いつくさんばかりに、凄まじい数が集まっている。
びしりっ! びしりっ!
天使たちが苦悶の表情を浮かべる中、不安を掻き立てる予兆は途切れることなく鳴り続けていた。硬いものを力任せに叩くようなそれは、段々と勢いを増しているようだ。
……事実として、“それ”は勢いづいているのだろう。今日こそはこの世界に足を踏み入れてやろうと、息巻いているに違いない。
「ミカエル様っ! もうもちません!」
必至に念じていた天使の1人が叫んだ。もたないというのは、天使の軍勢の半数以上を投入して形成したこの結界のことと、底を突きつつある天使たちの体力の両方を指しているのであろう。見れば部下たちのほとんどが、青ざめた表情で肩を震わせているではないか。
天上でももっとも古参の大天使であるミカエルは、その様子に歯噛みをしていた。今日日の新人たちの根性の無さと、それ以上に底知れない力をもつ“彼の存在”に対して、どうしようもない怒りを抱いてしまう。
「堪えろ、何としても。可能な限り、時を稼ぐのだ……っ!」
そう叫びつつ自身も結界を支え続るミカエルであったが、彼もまた限界が近かった。同僚であるアリシアやルインらの頼みにより、天上における最高指揮官である彼までがこうして現場で踏ん張って、早3週間。開きつつある虫食い穴は、すでに止めようがない程に活性化しつつある。
準備が整うまでの今しばし、時を稼がねばならないというのに。
最悪の事態の到来を悟った部下が、眼を血走らせながら叫ぶ。
「こうなれば、主上にご降臨していただくしか……!」
「愚か者! そんなことが出来るか!」
「しかしミカエル様、このままではっ」
「ならん! それだけは、それだけは……」
主上。つまり、この世界の創造主にしてすべて生命の父であり母でもある、名も無き神。確かにあの御方が一度お降りになれば、かように下劣な存在などたちどころに打ちのめしてくださることだろう。
だが、今は無理だ。
遥か過去、この世界における原初の闘いで負った傷が未だに言えぬあの方の御力を、今お借りする訳にはいかない。何より、この機に乗じて主上に傷を負わせたその原因である邪神の皇子が闖入していくる可能性だってあるのだ。
地獄を治める兄弟とその仲間たちも含め、その最悪中の最悪の事態への備えは、おいそれと切ることはできない。
「ぐぁっ……」
「ぬぅ……」
押し問答をしているうちに、何人かの天使たちが力尽き始めた。奇跡を行使しすぎたのだ。1人、また1人と、地上に向かって堕ちていく。すると虫食い穴が余計に重みを増していき、そしてそれに耐え切れなくなった天使たちがまた数を減らしていく。
もはや防衛線は、完全に破綻した。これまでのようだ。
びしりっ!
一際大きな振動と共に、中空に幾本もの亀裂が走った。それは見る間に崩れていき、巨大な“孔”となる。こことは別の世界。話によれば、すでに“喰われてしまった”という世界とつながっている、異次元の通路だ。その向こうには、怪しく輝く無数の光点がぎょろぎょろと……
「来たか、邪神めっ!」
ミカエルは歯をむき出しにして叫んだ。嫌悪感もあらわに睨みつけるその先では、どす黒く不定形のタールのようなものが、どろどろと止めどなく溢れ出てくる。その表面にびっしりと浮き出た眼玉が、こちらを睨み返していた。
「あ、あれが」
「なんと醜く、悍ましい……」
天使たちが距離を取りながら、呻くようにして言う。原初大戦を経験していない“初心な”彼らには、こんな汚らわしい存在は眼に入れることすらしたくないのだろう。ミカエルとて、同じ気持ちだ。
鼻の奥を貫くような悪臭と、見ているだけで吐き気を催すその姿。あれこそが、この世界を喰らわんと現れ出でた化け物。あんなものが地上に降り注げば、主上の創り給うたすべてが穢しつくされてしまう。
「ミカエル様?」
「うむ……口惜しいが、やはりあの不死人どもに頼らざるを得ないようだな……」
元より、この邪神が到来することは決まっていたことだ。その原因に、例の不死人の集団の関係が疑われるにしろ、もうここまで来てしまったら他に手段がない。
主上が、そして兄や親友たちがその身を賭して守り抜いたこの世界。どうあっても、護りぬかねばならないのだ。
「地上のジーグを介し、連絡を取れ。『盟約を果たせ』とな」
スィスと、“その女性”の居る部屋は、酷く雑然としていた。大した広さが無い空間の中で、無数の書籍や書類、薬瓶や巻物が所狭しと積み上げられ、その上には分厚い埃がまんべんなくトッピングされている。
家具と言えば、部屋の中心の小さなテーブルと、女性が腰掛ける椅子ぐらいなものだったが、ふとしたきっかけで雪崩でも起これば、それらも飲み込まれてしまいそうであった。
団の最高権力者のそれと同じような、本来のスィスならば眉をひそめてしまうような惨状だ。それなのに、これが“彼女”の住まい兼研究室であるというその一点だけで、全てを許容しようという気持ちになってしまう。
―同じ女性であり、同じく魔法に対して真摯に取り組む姿勢を表しているというのにな
ここまで盲目になる程の恋を患ってしまうとは、我ながら実に滑稽であった。しかし、今更それをひるがえそうとも思わない。
全体、本来スィスとは世の全てを自身の都合のように解釈し、扱う男だったのだ。この程度の二重規範など、些細なものではないか。
「さあ、どうぞ」
栗毛色の髪を揺らす女性の眼の前に、湯気の立ち上るティーカップを差し出す。
紅茶好きだったことを明言するこの女性のために、団のメイドが手塩にかけて育て上げた茶葉と、団長から無理を言って譲り受けてきたティーセットを使用して淹れた、渾身の贈り物だ。調理場どころか水場さえないこの場で、わざわざ水と炎の精霊を召喚して用意した一品である。
……スィスと同じく不死であるがゆえに、すでに一切の食事や睡眠といった行為を放棄したというこの女性。これならばきっと人間らしさを。この女性が、かつてもっていたであろう魅力を取り戻すことができる筈だ。
そして彼女は、完成する。永遠と知性と美を融合させた、神をすら凌ぐ究極の存在に。
―あの偉そうな神々の支配する世界で、さぞや窮屈な人生だったであろう。それも、もうすぐ……
そう意気込みながら、テーブルの上にカップを置いた、まさにその時。スィスは少しだけ顔をしかめた。『何もこんな時に』と口走りそうになるのをぐっとこらえ、伸ばした手を引っ込める。
胸元のペンダントが鳴動している。団員のいずれかからの通信が入っているのだ。
「失礼。どうやら、喫緊の連絡のようで」
努めて穏やかな口調で断わりを入れつつ席を立つと、テーブルを挟んで対面に座るその女性は、微笑みを浮かべて頷きを返してくれた。せっかくの良い雰囲気をぶち壊しにしてしまったが、それがやむにやまれぬ事情によるものであると察してくれているのだ。
彼女とはまだ、両の手で数えられる程度しか逢瀬を重ねていないというのに、すでに関係は構築されつつある。やはりこの女性こそ、スィスの永久の伴侶に相応しい女性だ。
あらためてその事実を確認しつつ、スィスはその女性に背を向けた。そして高級スーツの内ポケットで喧しく震えるペンダントを引っ張り出す。
予め団の仲間たちには、重要な用事があるので余程のことでない限り絶対に邪魔をするな、と釘を刺してある。恐らくその“重要な用事”の内容についてしっかりと理解をしているであろう彼らが、それでもこうして水を差すようなことをしてきたということは、のっぴきならない事態であろうと推測が立つ。状況的に、間違いなく“奴”のことだ。
ペンダントの突起部分を軽く突き、通信を確立。静かに語り掛ける。
「……私だ」
『スィス!? 大変っ、大変ですよっ!』
途端に、耳を塞ぎたくなるようながなり声が返ってきた。団長であるノーリのものだ。桃色の髪を振り乱しているのが頭に浮かぶような、そんな慌てぶりである。
スィスは小さく舌打ちをし、たしなめるように言った。
「……少し落ち着け、団長。騒がしくして、彼女に迷惑をかけたくはない」
『落ち着いてなんていられますか! “貪食”が来てしまったんですよ!?』
「ふむ、やはりか。想定より大分早いな」
『そんな他人事みたいに! この世界の危機なんですよ!? それに、私たちにとっても!』
「喚くな。分かっているとも」
無論、他人事でいられる筈がない。内心では、この素晴らしいひと時を台無しにされたことに対して、憤りが込み上げてきているところだ。
だが、ものは考えようだ。天上の者どもとの契りを果たせば、めでたく件の報酬を勝ち取ることが出来る。そうなればいよいよ、スィスの目的が遂げられるというもの。
全体、この世界の危機とはすなわち、そのまま彼女の危機に直結してしまうのだ。何がどうでも、対処せねばならないに決まっているではないか。
「すぐに向かう。皆にも声をかけておけ」
それだけ言うと、スィスは返事も聞かずに通信機能を終了した。そして、女性の方へと振り返る。
「大変申し訳ない。どうやら、行かねばならないようです」
するとまた、女性は頷いた。やはり微笑んではいるが、今度は少しだけ寂しそうに見える。なんとも後ろ髪を引かれる思いだ。いっそ全てを放り出し、2人だけで逃げてしまいたいという衝動に駆られてしまう。
だが、それでは駄目だ。この女性の心を掴むのは、この紅茶の如き浅薄な手段によってではない。それはひとえに、行動によってのみ成り立つ。
悪友の言葉を借りれば、“男を示す”とでもなるだろうか。
「これより我は、この世界に降りかかりし災厄を払わねばなりません。……“お返事”は、その後でお聞かせいただくとしましょう」
スィスが去り、1人きりになった部屋の中で、その女性はポツリと呟いた。
「素敵な男性ね。理知的で、でも情熱にあふれていて。老練で、でも精力的で……」
その上、己の目的のためにはどのような手段でも講じようとする邪悪さと、それでいて好意を持つ相手に誠実であろうとする真っすぐな部分も感じ取れる。とても複雑で……独特だ。
だが間違いなく、彼女が“永い人生”の中で出会ってきた男達の中でも、三指に入るほどに魅力的だ。並みの女ならば、即座に身も心も許してしまうことだろう。
だが残念なことに、彼女はそうはならない。
何故ならすでに。ずっとずっと、ずぅっと前から。
彼女の相手は決まっているからだ。
少しだけ悲し気に笑いながら、その女性は自分の眼の前にあるカップを手に取った。適度に冷めて飲みやすくなった紅茶を、一口含んでみる。
「うーん……まぁ、いいとこ60点てところかしら。やっぱりアイツには及ばないわね」
辛口の採点をしながら、カップをまたテーブルの上に戻す。残念ながら、飲み干すには値しない。精霊の力を使って沸かしたものだから、水の質が変わっているのだ。まだまだ精進が必要だろう。
だが、とても想いが籠っている。久しぶりに人間らしいことをしたというのもあるが、とうの昔にがらんどうになってしまった胸の内が、少しだけ温かくなったような気がした。
「さぁて。楽しいお話もできたことだし、少しはお返しをしなくちゃね?」
女性は立ち上がると、テーブルに立てかけてあった杖と、お気に入りのとんがり帽子を手に取った。
どうやらこの世界に、また危機が訪れているらしい。ならばのんびりと隠居しては居られない。
―誘いに乗っといてなんじゃがなぁ。真昼間から酒とは、お前さん本当に聖職者かぁ?
―これもまた、人間らしい生き方というやつですよ。さぁさぁ飲みましょう




