名も無き世界・15
聖域たる森人の里、その中心部にある社の中で、幼いレインはただ懸命に痛みに耐えていた。全身に脂汗をかきながら、まんじりともせずに見つめるその先では、少女の柔肌の上に何本もの鋭い針が突き立てられている。
その凄惨な光景と絶え間なく押し寄せる苦痛は、もうかれこれ2時間に亘ってレインの精神を蝕み続けているのだ。
「どうだね。平気かい?」
レインの腕から眼を放さないままに、師であるコンフュシャスが問うてくる。家にいるときと同じ、父親としての優しい声音だが、レインを苛むその手を止めることは無かった。
レインは、ほとんど殺気めいた感情を込めた眼でそれを睨みつけながら、それでも冷静さを保とうと押し殺した声で答えた。
「……平気です」
「そうかね」
それきり父親は、沈黙した。愛娘の硬い表情など目に入らないとばかりに、小刻みに手を動かし続ける。“作業”に集中したいというのもあるだろうが、それ以上にレインの心境など、聞くまでも無く分かっているのであろう。なにせレインの師である彼も、同じくらいの年頃の内に、“これ”を味わったのだから。
そして同時にそれは、レインに対する無言の要求と、期待でもある。自分は耐えられたのだから、娘であるお前も耐えるべきだ、と。お前ならきっと耐えられる、と。
だからレインも、我慢するのだ。本音を言えば、床をゴロゴロと転がって泣き叫びたいところだし、すでに飲み込んだ『止めて!』という懇願で腹がはち切れそうになっているのだが。
「さあ、これで出来上がったぞ。見てごらんなさい」
そう言ってコンフュシャスが、レインから離れた。レインは自由になった右腕を顔の前に近づけると、ゆっくり指を握ったり閉じたりしてみる。するとその度に、皮膚が脈打つように動き出す。同時に、その“腕の上に描かれた模様”も。
「お前は色白だから、やはり黒色の墨が映えるだろう?」
「はい。すごく、綺麗です」
「それは良かったよ」
コンフュシャスが、どことなく誇らしげな表情で右手の鑿をくるりと回す。レインは頷きを返しながら、自分の右腕に引かれた無数の黒い線を撫でた。それは父親の腕にあるものとまったく同一の、森人文字の紋様。
入れ墨である。
「では、反対側にも取り掛かろうか。左腕を出しなさい」
「う……」
「今日中に、上半身を終わらせると言ったではないか。さあ、レイン」
「はぁい……」
一転、不機嫌な声を出しながら、レインはがっくりと肩を落とした。そしてのろのろと、父親に左腕を差し出す。
レインの師は頷くと、右手の鑿を足元の墨壺に突っ込んだ。そしてまたレインの腕を突き刺し始める。激痛と共に、真っ白い画布の上に黒い模様が描かれだした。
拷問の再開だ。
「うう……」
「我慢なさい。これが終わったら、お昼ごはんにするから」
相変わらず駄々っ子をあやすような優しい声で、レインを諭すコンフュシャス。実際、レインは森人の中でも幼子に分類される年齢であるが、そうなるとこれは立派な虐待なのではなかろうか?
そんな世迷いごとが脳裏をよぎるが、レインはそれを必死に振り払う。
これはレインが父と同じ領域に、すなわち“いと高き森人”に至るために必要な儀式なのだ。それを思えば、途中で投げ出すことなどできよう筈がないし、全体、誇り高き森人の頭領の娘として、泣き言を吐くこともできない。
だがそれでも、痛いものは痛い。
―そもそも父上は、考え方が古いのよ!
再び芽生えてきた憤りから、ついにレインの思考は伝統批判にまで波及してしまう。
生まれたときからこの聖域で生きてきたレインではあるが、外界に対して全くの無知という訳では無かった。森の外にある無能人の町の、その利便性に富んだ暮らしについては、ある人物からおおよそ聞き及んでいる。そんな彼女にとっては、こういう類の古いしきたりというものが、理不尽だったり効率が悪かったり思えてしまうことがあるのだ。
例えばこの手彫りだ。森人の崇高な文化だかなんだか知らないが、無能人の若者たちの間で流行っているという“機械彫り”とやらを使えば、こんな酷い痛みを長時間味わう必要などない。
他にも、とりわけ“彼女”のことだって……
そうやって悶々としているレインを、ついに見かねたらしい。やはり手を動かしながらではあったが、コンフュシャスが声をかけてきた。
「何か話をするかね? 退屈だろう」
「別に……私は退屈なんてしていません」
「そうか。では私の気を紛らわせてはくれないかね。こうも静かだと、かえって手元が狂いそうでね」
そう言ってこちらを見ないままに、くすりと笑う父。こちらの心情を見透かした上で、それでもレインを立てるような物言いいである。まったくできた心遣いではあるが、しかし色々と切羽詰まった状態の彼女には、それが癇に障ってしまった。
―まてよ? そうだ、この際……
そこで、はたと気づく。要らぬ気づかいと突っぱねることもできるが、今はこの社にレインと父が2人きり。誰に気兼ねをすることもない、好機ではないか。
「では、質問をしてもよろしいですか」
「なんなりと」
心なしか、父親の声が弾んだように聞こえた。そのせいで一瞬罪悪感が芽生えたが……ええいままよ、とレインは思い切って訊ねることにした。
「メアリ様のことを、お話ししてくださいませんか」
ぶすりっ!
一際鋭い一撃が、レインの腕に突き刺さった。
「痛ぁ!?」
「むっ!? す、すまぬ……」
仰天したレインが大声で悲鳴を上げると、コンフュシャスが慌てて鑿を握る手を下ろした。そしてややあってから、ようやくレインの言葉の意味に気付いたかのように、表情を強張らせる。
「レイン! お前、盗み見をしていたのか!?」
「……ええ! 見ていましたとも! 父上たちが、あの方にすげなくするところを!」
すでに限界まで高ぶっていた感情の、その勢いに任せるままに。半ば八つ当たりの様にして、レインはたたみかける。
「どうして父上たちは、あの方に酷い仕打ちをするのですか!? 同じ森人でしょう!?」
「前にも言ったであろう。此度の事態については、お前にはその終始が理解できぬと」
「またそんな! そうやって子ども扱いして!」
「事実なのだ。あの者の境遇については、お前が知るにはまだ早い。それに、理解などとても……」
「“伯母上”が捨てられた件については、すでに聞いております。その後のことについても」
「なっ……!?」
絶句し、硬直するコンフュシャス。まさかまだ幼い自分の娘が、誇り高き森人の暗部について知り及んでいるとは、夢にも思わなかったのであろう。
レインはそんな父親を見据えながら、左腕を差し出した。
「さあ、父上。続けましょう」
「……うむ」
ほんの一瞬、気圧されたような様子を見せた父ではあったが、流石は一族の頭領。即座に表情を改めると、再び鑿を構えた。だが平静を装ってはいても、指先がわずかに震えている。
コンフュシャスが、わずかに怒りのこもった声で問うてきた。
「あの怪しげな女だな? まったく要らぬことを……」
「いずれ私も、父上のように頭領となるのです。ならば知るべきことを知っておいて、悪い事などないでしょう」
「時期というものがあるのだ。……それにあれのことは、私にとっても望んだことではなかった」
「そのことについても、よく聞き及んでおります。お爺様があの方を捨てようとしたとき、どれだけ父上が反対なさったか」
「そんなことまでか。まったく、あの女は……」
そう罵る父親だったが、瞳の中には哀し気な光が宿っていた。立場上、皆の前ではああして高圧的に振舞わねばならないが、それでも血を分けた妹だ。父とて、彼女に辛くあたるのはそれこそ辛いことだっただろう。
森のはずれに住む賢者の話によれば、あのメアリという女性は生まれながらにして盲目だった。だがこの里には、そういった障碍をもつ者を養うだけの余裕はない。
如何に森に慣れた種族とはいえ、自然の中で生きるというのは容易いことではない。森人は他種族に比して長命とされるが、それでも死ぬときは死ぬのだ。
山火事や、突発的な魔物の襲撃。
訓練や狩猟中の事故。
それに、メアリが先天盲になる原因となった、無能人がもちこむ流行り病。
年がら年中発情している獣や無能人どもと違い、森人は決まった時期にしか孕むことができない。連中の様に極端に人口を増やせない為、降りかかる災厄によって、一族郎党が死に絶えることだってあり得るのだ。
そんな環境で、将来的に確実に足手まといとなる存在を淘汰するのは、自然の摂理だ。
メアリは、当時の頭領だった祖父の手によって、獣たちの領域に捨てられた。自然の摂理に従うというお題目の下。森から頂いた命を森に返すという、もっともらしい言葉とともに。
だが自ら歩くことすらできなかった赤子が、どういう訳か生き延びていた。しかも、あんなに立派に成長して。
里の森人としては、認めがたい事実であろう。
「彼女の嘆願を無下にするのは、彼女が追放された身だからなのですか? この里にとっては汚点であるから」
「いいや、違う。私が拒絶しているのは、あくまでも無能人の要求だ。……その理由については、お前とて納得できるであろう?」
「それは……でも、それだってもう、昔のことではないですか」
レインは必死に、頭の中の記憶をあさった。師である父からの講義により、森人と無能人との確執の歴史は学習済みだ。
赤毛の残虐帝と、その一族。
悍ましき奴隷制度。
そして、軍神による解放運動。
それらはいずれも、レインが生まれるよりも“少し”昔のことだった筈。
「すでに決着はついています。無能人との関係だって、見直しても良いのでは?」
「いいや、違う。違うぞ、レイン。確かに1000年ほど前、私たちの一族は解放された。だがそれは、あくまでも表向きのことだ」
「表向き? どういうことなのですか?」
「そのときの無能人どもが制定した憲法とやらでは、そのようになっていたがな。実際には、奴らは相変わらず我らを奴隷として扱っていたのだよ。その……“愛玩動物”としてな」
「あいがん……どうぶつって……」
「町の無能人どもが、何を密猟しにこの森に入ってくると思う? 我ら森人を、特にお前の様な女子どもをかどわかすためだ。法が敷かれてから幾分かマシにはなったが、“今でも時折”な」
「そっ……」
突然腕の痛みが強まり、レインは顔を上げた。見れば、鑿を握る父の手が激しく震えているではないか。
―そう言えばお爺様とお婆様は、密猟者と闘って亡くなられたと……
酷い痛みに仰け反りそうになりながらも、レインの胸中には悲哀の感情が溢れる。
先代の頭領とその妻は、優れた戦士だったと聞いている。その息子である父は、さぞや誇りに思っていたであろう。しかしそんな素晴らしい肉親を、無能人のせいで失うこととなったのだ。父にとって、無能人とは不倶戴天の仇に他ならないのだろう。
だが、しかし。しかしだ。
「……捨てられたメアリ様を救ったのも、また無能人だそうですね? 聞けば父上も、その方と懇意にしておられるとか」
ぶすりっ!
この数時間の中でも痛恨の一撃が、レインの腕に突き刺さった。
「痛ぁ!?」
「むっ!? す、すまぬ……。ではなくてだな、レインよ。お前、そこまで聞いてしまったのか?」
「そ、そうです! 賢者様からしっかりと、この両の耳で!」
「っ! まったく余計なことを……」
「やはりそうなのですね。メアリ様のことを心配して、その無能人に会いに行ってるんでしょう? そうなんでしょう!?」
コンフュシャスは答えなかった。そしてこれ以上の無駄口は御免被るとばかりに、鑿を握る手に力を込めてくる。
痛みが強まり、レインの目の奥が熱くなった。年相応に泣き出したい衝動に駆られたが、レインは奥歯を噛み締めながらそれに耐えた。そして、黙って父親の言葉を待ち続ける。
じっと見つめていると、やがて父は観念したように小さく頷いた。そして、ぽつりぽつりと零すように語り出す。
「……確かにそうだ。あの娘のことで、もう何度も話をした。転ばずに歩けるようになったとか、たどたどしいが話せるようになったとか、文字が綺麗に書けるようになったとか、弓を持てるようになったとか……」
そう言って俯く父の瞳に、再び光が宿る。だが今度のそれは、深い深い慈愛の光だ。実の娘であるレインが、嫉妬する程の。そして同時にその中には、その無能人への感謝の念も含まれている筈だった。
親を奪った仇であり、妹を救った恩人でもある。
一族を脅かす外道どもであり、対話を望む理知的な集団でもある。
果たして無能人の正体とは、そのどちらなのか。
決まっている。その両方だ。
レインは静かに、諭すように言った。
「父上。私は一族を守って死んでいったお爺様を、誇りに思っています。ですが同時に、まだ赤子だったメアリ様を捨てたことを許せません。それは紛れも無い悪義です」
「……そうか」
「無能人もそうなのではないですか? 悪しき行いをする者もいれば、善き行いをする者もいる。あの連中がそのどちらなのか、それを見極めるためにも、お話を聞いてやっても良いのでは?」
「……」
再び社の中を沈黙が支配した。
全身に脂汗をかきながら、ひたすらに耐えるだけの時間が続く。
だが、ふとした拍子に父の手が止まった。
「考えておこう」
消え去りそうなその声に、レインは大きく頷いた。




