名も無き世界・12
―お師様が言っていました。折れない心は素晴らしい、と
―逆境に立ち向かう人の姿より気高いものはない、と
殺風景だというのに、奇妙にも心惹かれる部屋だった。
そこには本棚も、寝具も、テーブルも椅子も無い。まるで、がらんどうである。
だが、顔がうつる程に磨き抜かれた板張りの床に、窓から差し込んでくる柔らかな朝日が反射する様は、ただ見ているだけで頬が緩んでしまいそうだった。何処からか聞こえてくる『チチチ……』という小鳥のさえずりも、日々のストレスからくる心のささくれを、優しく癒してくれているようではないか。
……と、似合わない考えが頭に浮かぶ程度には、この“道場”という大部屋には魅力があった。普段のナインならば、コーヒー片手にのんびりとくつろぎながら、ポエム制作にでも洒落こんでしまいそうである。
あくまでも、普段通りのナインならば、の話ではあるが。
「逃げてばっかりじゃぁ駄目よぉ! 反撃、反撃ぃ!」
「ノーリ! ひと思いにやってしまいなさいな!」
「……どっちも……がんば……」
『集中力が乱れていますよ、ナイン。このままでは、敗北してしまいます』
静謐な空気をかき乱すように、多種多様な声音の野次が飛んでくる。部屋の入口付近の壁に並び立つ、フィーア、セーミ、トリーにピャーチたちだ。ナインが特別な鍛錬をしていると聞きつけて、集まってきたのである。
いつかのドスの闘いぶりを観賞していたときもそうだったが、この連中は娯楽というものに飢えているらしい。それが長生きしすぎた結果によるものだとすれば、いずれナインもこの境地に到達してしまうのだろうか。
「うるせぇぞ、外野ども!」
野次馬連中に悪態を返しながら、スーツの上着だけを脱いだワイシャツ姿のナインは、必死に身体を動かしていた。握った両の拳を顔の高さまで持ち上げ、リズミカルにステップを踏み、小刻みに上半身を振るう。
するとその度に、身の毛もよだつような風切り音とともに、ナインの顔面を目掛けて鋭い突きが飛んでくるのだ。
「ちぇぇすっ!」
威勢のいい掛け声と共に、ナインのすぐ対面で、鮮やかな桃色の旋風が舞う。団長のノーリだ。本日は、いつものとんがり帽子にマントという奇態ではなく、厚手の白装束を身にまとっている。ドスが常日頃着用しているものとよく似た、しかし袖が破れていないそれは、“胴着”という異界のトレーニング・ウェアであるらしい。
「この調子では、私の勝ちですねっ!」
「そうはいくかっての!」
ノーリの放つ鋭い蹴り足を躱しながら、ナインは精一杯の強がりを込めて、口の端を釣り上げた。
現在のナインは、ドスによる体術の鍛錬に打ち込んでいる真っ最中である。ここ何日かに亘り、団の達人らの下で行われている、戦闘能力向上のための指導の一環だ。
いつもならば、ドスから1対1で手ほどきを受けているのだが、なぜか今日になってから、『競う相手がいた方が伸びる』などと提案されたのだ。そしてその結果、“競争相手”として抜擢されたのが、このお嬢様であった。
「ほらほらっ! そんなものですか、ナイン!?」
ノーリが余裕たっぷりの笑みを浮かべながら、跳びかかってくる。
左右の足を目まぐるしく入れ替えながら放つ、連続回し蹴り。
顔面と腹部を同時に狙った、諸手突き。
手刀を用いた目つぶしに、金的狙いの前蹴り。
少女の繰り出す技の数々は、時に豪快で、老獪で、そしてえげつない。
対するナインは、全身に汗をかきながら、息を切らせるばかりだ。
恐怖ですくみそうになる足に力を込め。
疲労から下がりそうになる両腕のガードを維持し。
目を見開いて、懸命に隙を探す。
少女の怒涛の攻めをギリギリのところで回避してはいるが、すでに体力は限界に近い状態だ。
―まったく、なんつー娘だよ……
もはやノーリの軽口に付き合うこともできなくなり、どうにか胸中で賞賛の声を上げる。
実戦組手を指示された当初のナインは、ノーリの格闘センスについて懐疑的な思いを抱いていた。
というのも、今日までの彼女の様子をつぶさに観察していれば、目を見張る部分は瞬間的な膂力のみであり、特段運動能力が優れているようには思えなかったのである。
空腹だったとはいえ、道端で受け身も取れずに盛大にスっ転ぶし、数に圧されていたとは言え、ギャング連中にすら後れをとる。不用意に小動物に近づいては、噛み付かれてピーピー泣き叫ぶ。
“気”などというオカルティックな力を行使できることは確かに脅威であったが、しかし純粋な戦闘という場面においては、ナインの方が秀でていると高をくくっていたのである。
だがそれは、大いなる勘違いだった。
ノーリの攻め手は、実に多彩で変化に富み、ナインに息つく暇すら許さない。流れるような一連の動きは、まるでダンスをしているように思えてしまいそうだ。
おまけに、基礎体力が信じられないほどに高い。組手が始まってから20分に達しようとしているが、すでにナインの方は足腰がガタガタだというのに、この娘は未だにピンピンしているという有様である。
どうにかクリーンヒットは避けてきたが、このままではいずれ“いいもの”を貰ってしまうだろう。
どうやらノーリの方も、その事実を察したようであった。
ギラリと眼を光らせると、一気にナインの懐へと飛び込んでくる。
「ちぇぇすとぉっ!」
ごぉぉぉっ!
ほとんど密着するほどの距離から、正拳突きが放たれた。空気を切り裂くその轟音は、少女が打つことのできる拳の威力を、大きく逸脱している。
「ぬぉぉっ!?」
脳裏に走馬燈がちらつく中、ナインは首をひねることで、どうにかその丸太の様な一撃を回避した。するとノーリの右腕は、ほとんど抉るような勢いで、ナインの頬を掠めていく。
まったくもって、とんでもない威力だ。まともに喰らえば、怪我どころか首から上がごっそりと消し飛ばされていたかもしれない。
しかし、それだけの力が込められていたぶん。
ノーリの右腕は、完全に伸びきっていた。
「このっ!」
好機をとばかりに、ナインは少女の細腕を掴んだ。そしてくるりと振り返ると、上半身をかがめ、ノーリの身体を巻き込むようにして重心を落としていく。
相手のベクトルを利用して、そのまま一気に床にたたきつけて……
「甘いっ!」
勝利を確信したナインの耳元に、鋭い叫びが届いた。と同時に、背後から膝の裏を蹴とばされ、大きくバランスを崩してしまう。
「ぐぁっ!?」
「もらったぁっ!」
がくりと腰を落とした瞬間、ノーリがすぐさまナインの首に腕を回してきた。そのまま、がっちりとヘッドロックを決められてしまう。慌てて指を差し込もうとするが、完全に頸動脈を抑えられてしまったらしい。
必死にもがくが、ものの数秒も経たないうちに、ナインの視界は真っ白に染め上げられていく。
「それまでっ!」
気が付くとナインは、板張りの床に横たわっていた。頭の中がぐわんぐわんと揺れ、全身が虚脱感に包まれている。どうやらほんの数秒間だけだが、完全に“落とされて”しまっていたらしい。
完敗だ。
「よう頑張ったな、ナイン」
野太い声とともに、ナインの身体が強い力で引っ張り起こされた。武人のドスだ。この“道場”の管理人にして、今回の組手の立会人である。
「まだ、立たんでおけ。かなり無理をしておったようじゃからな」
「……なんだよ、お見通しってか」
「当然じゃ。5分を過ぎたあたりから、目に見えて動きが悪くなっておったからのう」
そう言ってドスが、ちらりと視線を動かす。床に座り込んだままそちらの方を見ると、得意満面の笑みを浮かべたノーリが、団員たちから賞賛を受けているところだった。
「さぁ~っすがはノーリちゃんねぇ、見直しちゃったわぁ!」
「そうでしょうとも、そうでしょうとも!」
「何だかよく分かりませんでしたけど、凄かったですわ!」
「当然ですとも! これでも私は、鍛えていますからね!」
「……ひゅーひゅー……」
勝利の余韻に頭の先までどっぷりと浸り、薄っぺらい胸を反らせるノーリ。それに加えて、時折ちらちらとナインの方に視線を送ってくるものだから堪らない。どうやら彼女の方は、まだまだ十分に余力を残しているようだった。
「クソが。散々逃げ回ってこれじゃあな……」
「そう“気”を落とすでない。もとよりあの娘は、お前より先輩なんじゃ。実力差はあって当たり前よ」
項垂れるナインの肩を叩きながら、ドスが厳かに言う。
「それにお前さん、筋は悪く無いぞ。“気”を練ってもおらんのに、よくノーリの攻めを躱しておった。ひょっとして、何か習っておったのか?」
「……まあ、一応な」
やや不貞腐れるような口調で答えながら、ナインはのっそりと立ち上がった。
ナインが習得しているのは、いわゆる軍隊式の近接格闘術だ。徒手空拳による殴打、投げや締め技だけでなく、銃やナイフなど、種々の道具を用いた戦場での殺法である。
ドスやノーリが行使する“拳法”とは違い、より実戦向きで殺傷能力が高い筈なのだが……如何せん、使い手が悪くてはその能力も存分に活かせるものではないようだった。
「まったく。今からこれじゃあ、先が思いやられるぜ」
「初めての組手にしては、上々の結果じゃよ。まだまだ伸びしろはあるわい」
「お優しい言葉だね。五臓六腑に染み渡るぜ」
慰めの言葉と共に肩を優しく叩かれたが、ナインはそれをやんわりと払いのけた。
目下ナインが目指すところは、団長であるノーリを守護できるだけの実力をつけるという一点にある。それなのに、そのノーリにすらまったく太刀打ちできないというこの有様では、泣き言の一つも言いたくなるものだった。
しかしそんなナインに対し、ドスが急に真顔になった。昨晩酷く泥酔して、醜態を晒していたとはとても思えないような、真摯な眼でナインを見つめてくる。
「負けるのは恥ではないぞ、ナインよ。重要なのは、その後じゃ」
「どういうことだよ?」
「このまま尻尾を巻くか、踏ん張るかってことじゃよ。少なくともノーリは、“まだ”諦めておらんぞ」
「……」
何を、とは聞かなかった。否、聞くまでもないことだった。あのノーリの部屋を見れば、彼女が未だに努力を積み重ねていることは、はっきりと理解できる。何年か、何十年か、何百年か。ああやってドヤ顔をしてはいても、寄る辺とできるのが“世界渡り”という名の超魔法ただ一つであることに、決して満足できている筈はない。
―そう言えばあの時、ひでぇ顔をしてたよな……
ナインがノーリに、魔法を使ってみろとけしかけたときのことだ。彼女は、悔し気な顔をした。とても、悔しそうな顔を。それは間違いなく、彼女が今でも魔法に対してひたむきであることの証明であろう。
ならば、そんな彼女に誘われたナインは、どうあるべきなのか。
当然、このままではいられない。ノーリを守ると決めた以上、必要な手段はすべて講じるべきなのだ。それに第一、負けっぱなしままでいるのは、格好が悪い。そんなものは、ナインが信ずるところの男としての振る舞いではない。そして勿論、ノーリの仲間としても相応しくないだろう。
「ふん。まあ、このまま終わりにする気はねぇよ。せめて、あのお嬢さんに勝てるくらいにはなりたいからな」
そうぶっきらぼうに返すと、途端にドスはにんまりと笑った。
「その意気じゃよ、ナイン。儂の故郷ではな、“千里の道も一歩から”と言うもんじゃ。何事も、積み重ねよ」
「人を乗せるのが上手いオッサンだな……」
つられて笑いながら、この男に教えを請うたことは正解だった、とナインは思った。
このドスという人物は、堅物で飲んだくれというろくでもない一面もあるが、胸の内に確固たる信念をもっている。好敵手として立ち塞がる者には容赦しない苛烈さを見せるが、そうでなければ意外と面倒見の良い、頼れる兄貴分として振る舞うのだ。だからこそノーリも、あれ程の使い手として鍛えられたのだろう。
―他にあても無いんだ。オッサンを信じて、せいぜい鍛えて貰おうかね
そんなことを考えていると、出し抜けに道場の扉ががらりと開かれた。
「おぉーう。ここにおったか、ナインよぉ……」
間延びした声に、その場の一同が一斉にそちらの方に顔を向ける。すると、そこに立っていたのは、しかめっ面のタムだった。否、この青ざめた顔色は、間違いない。彼女の身体に乗り移っている、ジーグの方だ。大方、昨晩の大酒が祟って二日酔いに苦しんでいるのだろう。
「何の用だよ、ジーグ」
嫌な気分の時に一番出会いたくない男が登場したので、ナインはあからさまに眉根を寄せた。
「朝食の席にもいなかったが、何処行ってたんだ?」
「いやぁ、お前さんのために客を連れてきていてのぉ……ぐおぉぉ、頭いってぇ……」
そう言ってジーグが、右手でこめかみを抑える。やはり、相当に辛いらしい。いい気味だと笑うべきか、それとも麗しのメイド様の身体に負担をかけやがってと怒鳴るべきか、少々悩ましいところだった。だがそうなると、同じように呑んだくれていたドスの方は、どうして平然としていられるのだろうか。
そんな益体も無い疑問が頭をもたげたが、それよりも気にするべきことがあった。
「客だぁ?」
客と言われても、ナインにはまったく心当たりがなかった。よもや、昨日喧嘩別れになった森人たちではあるまい。とすれば、ジーグと同じ存在である神々、アリシアとルインとかいう2柱が思い浮かぶが、彼女らは今頃“打合せ”の最中の筈だ。全体、団長ではなく末端のナインに声をかけるなどという、不自然なこともあるまいし。
などと懸念するナインだったが、返ってきたのは予想だにしない答えだった。
「メアリじゃ」
「なっ!?」
思わず大声を上げると、ナインはジーグに詰め寄った。そして彼が、『怒鳴るなや、頭に響くんじゃ』などとぶつくさ呟くのにも構わず、胸倉をつかんで身体をゆする。
「お前、あの娘に会ったのか!?」
「会ったともよ。昨日あんなことがあったでな、気になって様子を見に行ったんじゃ。そしたら……」
「そしたら?」
「『今日も行きましょう』、だとよ」
―お師様、どうか私に勇気を下さい
―困難に立ち向かう勇気を、どうか私に……




