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名も無き世界・1

―私の名前はメアリ。みなしごです。

―最近140歳になりました。一応、女です。


 まったくもって。

 どうして朝の寝台というやつは、こうも魅惑に溢れているのだろうか。


 うすぼんやりと霧がかかった意識の中で、メアリはそんな益体の無いことを考える。


 森の涼しい風を撥ね退ける、適度な暖かさ。

 すべてを受け止めてくれる、柔らかな包容力。

 燻した木の葉の、いい匂い。


 それらのすべてが、一日の始まりという理不尽な現象からメアリを護ってくれているかのようだ。天上もかくやというこの快楽は、手足どころか身体の全体を優しく拘束し、放してくれない。


―あのひとも、これくらい私に執着してくれれば良いのに……


 そんなはしたない想いを抱きつつ、メアリはごろりと寝返りをうった。するとその拍子に、顔に何か温かいものが触れる。重さも圧力もないのに、確かな力を感じ取れるそれは……光。


 朝日だ。


「……あ、いけないっ」


 メアリは小さく叫ぶと、むっくりと身体をもたげた。この森でも一等立派な大樹の葉で編んだ掛布を払いのけ、寝台の脇に向かってごそごそと手を伸ばす。

 思った通りの位置に、柔らかくもしっかりと手に納まってくる、慣れ親しんだ感触。神木の枝から削り出した、愛用の大弓だ。


「おはよう。今日もよろしくね」


 寝台に立て掛けてあった相棒を手繰り寄せると、メアリはのたのたと床に両足を下ろした。体重をかけた途端に安定を崩し、あわや頭から床へ飛び込むといったところを、どうにか弓を支えにすることで耐える。


 メアリにとって朝というのは、至福の時であると同時に艱難の時だ。あの素晴らしい温もりの中で貪る微睡に勝る快楽など、この地上には数える程しかあるまい。そしてそれがゆえに、起床という地獄を毎日味わわなければならなくもある。

 低血圧のメアリとしては、あと30分くらいはぐだぐだと横になっていたいところなのだが、しかしそうもいかない。


 早寝早起き。決して夜更かしはせず充分な睡眠をとって、日が昇る前には起きる。

 規則正しい生活習慣は健康を維持するために必須の要件であるから、継続しなくてはならない。

 メアリが敬愛する師から、耳が丸くなるくらいに繰り返し言われていることなのだ。


「はぁ…」


 弓の本筈もとはずを床につき、杖の様にして体重をかけながら、のろのろと箪笥の方へと移動する。そして蓋を開けて手を突っ込み、普段着を手繰り寄せた。

 いつもと同じ、生糸で編んだ地味なワンピース。師は、『良く似合っている』といつも言ってくれるのだが、女のメアリとしてはたまには別の種類の衣服を着てみたくも思う。

 故郷の仲間たちが着ているような、動物の毛を結い合わせたドレス。 

 戦士階級の、神聖な木皮鎧。

 あるいはかなり大胆だが、大きめの葉で秘部を隠すのみという、下着の様な格好もいいかもしれない。

 自分には、そららの違いなど“ほとんど”理解できない。だが彼が、『似合う』以外の何か新しい反応を見せてくれるかもしれないからだ。


「まあでも、そんなの着たって無駄よね。私、貧相だから」


 寝巻を脱いで畳みながら、そっと自分の身体に手を這わせる。“齢140”を数えたばかりの肉体には、さしたる膨らみも、はっきりしたくびれもない。要するに、まだまだ子どもの身体つきだ。こんな小娘が少しばかり着飾ったところで、あの人はメアリを“そういう”対象としては見てくれないだろう。


「おっと、こうしちゃいられない!」


 起き抜けの憂鬱な気分に引っ張られそうになるところを、メアリは気合を入れて踏ん張った。

 外からはもう、小鳥たちの元気のよいさえずりが聞こえ始めている。いつもの起床時刻から大分遅れているに違いない。これ以上時間をかけては、またぞろ口うるさい師から、有難くも無いお小言を頂戴する羽目になってしまう。

 

「それにしても、どうして今朝は声をかけてくれなかったのかしら」


 着替えをしながら、少しだけ恨みがましい口調で呟く。

 あの几帳面な男は、それこそ“無能人”がこさえる時計細工のように、律儀にも毎日毎日同じ時刻にメアリを叩き起こすのだ。それなのに今日に限っては、妙に静かである。


 不審に思いながらメアリはいそいそと、しかしたっぷり10分以上の時間をかけて着替えた。そして自室の扉の前に立ち、いったん止まる。

 手早く髪指ですき、衣服を撫でまわして乱れが無いかを確認する。これもまた、師からの言いつけである。

 人の価値は外面だけで決まるものではないが、かと言って疎かにしていいものでもない。向こう側の居間では、今しもメアリの師が待ち構えていることだろうから、念入りにだ。


「寝ぐせ無し、皺無し、変なところ……無し!」


 そうやっているうちにまた時間が過ぎていくが、すでに遅刻は決定事項だ。ならばせめて、身だしなみくらいは完璧に仕上げねばならない。


―よし、準備完了!


 メアリは大きく深呼吸をすると、いよいよ勢いよく扉を開いた。

 そして背筋を伸ばし、お腹に力を入れて叫ぶように言う。


「お師様! おはようございます!」


 直後メアリは、ぜいはあと息をついた。心臓が早鐘を打ち、緊張のあまり汗が噴き出る。

 かように大声を出すのは、気と肝の小さいメアリにはなかなかしんどい行為だ。だが、自身の意志を伝えるにははっきりと言葉にしなければならないと、師から教わっているのだ。辛いことだが、我慢しなければならない。

 

 しかし。


「…あれ、お師様?」


 そんなメアリの懸命さとは裏腹に、返答は一切なかった。

 毎朝必ず『おはよう、メアリ』と呼び掛けてくれるあの声が、今日は耳に届いてこない。否、それどころか、気配すらない。わずかばかりに、彼の匂いの残滓が漂うばかりだ。


「……おかしいな?」


 メアリは訝りながら、居間へと足を踏み入れた。弓を突いて首を左右に振りながら、部屋の中央に置かれている大きな卓へと歩み寄る。

  

 卓上に右手をかざしてみると……あった。

 師からの“書置き”だ。


「『緊急事態』……『否定、心配』……『継続、鍛錬』? はぁ……」


 どうやらこれによれば、何かのっぴきならない出来事が起こったらしい。緊急事態とはさも大事のようだが、恐らく彼のことだから、そう慌てることもないだろう。

 またぞろ“無能人”の町で特売だか、あるいは飲み会でもあるに違いない。帰宅がいつ頃になるのかは分からないが、兎に角この言いつけの通り、鍛錬はやらなければならないらしい。


 メアリは軽く鼻を鳴らすと、右手を滑らせるように脇に動かした。そして“書置き”のすぐ隣に籠が置いてあることを確かめると、中に入れてあった果物を引っ掴み、齧り付く。

 これから面倒な日課をこなさねばならないのだ。先に朝食を頂いても良いだろう。どうせ誰も見ていないことだし。


 はしたなく歩き食いをしつつ、次にメアリは玄関へ向かった。脇に置いてある矢筒を拾い上げて肩にかけると、外への扉を開く。すると途端に飛び込んでくる、小鳥やリスたちの鳴き声。いつも通り、森の仲間たちのお出迎えだ。


「おはよう、皆。今日はちょっとだけ、お寝坊しちゃったわ」


 一斉に肩やら頭やらに飛び乗ってくる小さな者たちに挨拶をすると、メアリは扉を閉めた。そして持ってきた果物を分け与えてやりながら、ゆっくりと歩き出す。


 ここは、メアリとその師が住まう森のはずれだ。

 仲間たちの集落からは大分離れているので、近くにいるのはこんな小さな動物たちと、せいぜいが山犬ばかり。師も森の外に出かけているのだろうから、今はこうして1人きりである。

 そんなメアリが、何をするのかと言うと。

 

「じゃあ皆、ちょっと離れていてね」

 

 ほんの数分も歩いたところで、メアリは立ち止まった。そして動物たちを遠ざけると、杖代わりにしていた大弓を左手に持ち直す。


「ふぅ……」


 深呼吸をして、気持ちを落ち着ける。

 身体は真半身。

 矢筒から矢を一本取り出し、右手でつがえる。

 得物を持った両手を一旦頭上まで持ち上げ、それを開くようにして弦を引き絞る。

 

 ひょうっ!


 小気味の良い風切り音と共に、メアリの手から矢が放たれた。直後、前方約50歩の位置から、カツンという乾いた音。狙い通り、木の幹に命中したのだ。


「うん、よし!」


 メアリは軽く頷くと、拳を握りしめた。


 この弓術の鍛錬は、師から言いつけられていた日課だ。余程のことが無い限りは、こうして毎朝必ず行う、大切な儀式でもある。

 いつもならばすぐ脇に師が立ち、姿勢や力加減、残心の出来栄えを評価し、場合によっては手を取って教えてくれるのだが……残念なことに、今日はそうではない。その1点でさえも、やる気を損なう要因となってしまう。


 だがそうだとて、ずるける訳にはいかない。 

 身に着けるより錆び付かせる方が時間がかからないとは、師の言である。面倒くさいとも思うが、誤って師の眉間を射貫いていた頃に比べれば、格段に進歩しているのだ。

 ようやく掴みかけたこの技能、できることなら極めるところまでいってみたい。


―そうすればきっと、お師様も褒めてくれるよね

 

 メアリは自身を奮い立たせながら、再び矢をつがえた。


「ん?」


 そこでふと、強い違和感を覚える。何か、森の様子がいつもと異なっている。気が付けば、周囲から動物たちの気配が完全に消え失せている。一体何故、何処に行ってしまったのか。


「…いや、違う?」


 完全に消えてはいない。何か、うっすらと感じられるものがある。

 メアリはせわしなく首を振りながら、鼻をヒクつかせた。


 耳に届く、風のそよぎによるものではない草のざわめき。

 師の所有する武具類とは少し違う、嗅いだ覚えのない金属の匂い。

 そして何より、肌をチクチクとくすぐるこの視線。

 

 動物たちのものではない。

 何か、別のものがいる!

 

「だ、誰ですっ!?」


 全身を粟立たせながら、メアリは叫んだ。

 弓に矢をつがえ、感覚を頼りに狙いをつける。


 気配が一層強まった。

 荒い呼吸と、ほんのわずかに漂ってくる汗の匂い。どうやら相手も、メアリに存在を悟られたことで動揺しているらしい。だが、それ以外の反応はない。

 

 いったい何者で、何が目的なのか。混乱する頭でメアリは必死に考えた。

 密猟者、盗賊、奴隷商人、殺人鬼。聞いたことしかない、“無能人”の悪逆非道さを証明する悍ましい者たち。ひょっとしたら、メアリを拐かしに来たのだろうか。

 

―お師様、救済の女神様! どうかメアリをお守りください!


 胸中で祈りを捧げ、深呼吸。

 どのような事態に陥っても、まずは落ち着くこと。感情に飲まれて死に捕らわれるなと、師から教わっているのだ。

 

 メアリは恐怖を押し隠すようにして、何者かに向かって警告をした。


「居るのは分かってます。出てこないと、よ、容赦はしません!」


 そして、震える指先で弦を引き絞る。

 

 すると。


 がさ、がさり。


「あー……分かった、ちょいと待ってくれ」

「……っ!」


 男の声。

 師とは違う。もっとずっと若く、活力を感じさせる声。

 それに“無能人”とはどこか違うような、しかしメアリとも違うような匂いだ。


「驚かすつもりはなかったんだよ。ほら、この通り抵抗はしない」


 言いながら、男が草を踏み分け近づいてくる。革製の靴と、草に擦れる布の匂い。それに、わずかに聞こえるチャカチャカ”という軽い音は、懐から響いてきているのだろうか。


―きっと武器を持っている。私が油断したところを狙う積もりね!?


 メアリの恐怖心が、再び膨れ上がる。


 死にたくない。

 でも、殺したくない。

 だけど、殺されたくもない!


「近づかないでっ! 近づくと……」


 男は止まる気配がない。こうなってはもう、仕方がない。 

 矢尻の向きを大幅に下げ、男の足元に狙いを定める。威嚇のつもりで、メアリが一矢を放とうとすると。















「……ちょい、待ち……」

「ひえぇっ!?」


 突然、耳元で何者かが囁く。 

 実に倦怠感たっぷりなその女の声に、メアリは跳び上がった。


―私にはお師様がいます。とても素晴らしい方なんですが、その……

―なんというか、色々と、その。欠点が多くてですね……

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