脱出・1
―自壊せよ
―自壊せよ
全てが、濁った黒に染め上げられていた。
青と緑に満ちていた大地も、天高くまでそびえ立つ真っ白な壁も。
人の手によるものとはいえ、自然の美しさを完璧に表現していた箱庭が、今や鼻のもげそうな悪臭をばら撒く薄汚い粘液で埋め尽くされている。
胸の悪くなるような泡をぶくぶくと吐きながら、不規則に波打っているそれは、常人が正視し続ければ正気を喪失することは免れない。また、そうでなくとも、この汚泥に捉えられて苦痛にのたうち回りながら食われることになるだろう。もっともこの場には。否、すでにこの環状の世界には、常人など只の一人とて存在してはいないのだが。
この宇宙のどこかに存在するという、“地獄の九圏”。罪人の魂を封じ込める牢獄と言われるその地でさえ、ここよりはマシなのではなかろうか。
そんな破滅的な光景を、眼下に臨む者がいた。
巨人だ。真っ赤な髪を振り乱し、筋骨隆々とした肉体を惜しげも無く晒しながら、波打つ黒い海の上空を高速飛行している。奇妙なことに、その深紅の身体は陽炎のように揺らめき、輪郭が覚束ない。まるで、炎が人の形を模しているかのようだった。
その巨人の掌の上に立ち、スィスは汚泥を睥睨していた。
―なんと醜いことよ……
宝石のついた豪奢な杖を突き、瞬きひとつせぬまま地上を観察する。その視線の先では信じ難いことが起こっていた。泥の表面に、無数の人の顔が浮かび上がっていたのだ。いずれも苦し気な表情で口をパクパクと動かし、虚ろな目でこちらを見つめている。まるで、何かを訴えようとしているかのように。
スィスの知る限り、この真黒き泥の正体である同位体1号は、ただ巨大なだけの下等生物に過ぎなかった。だのに今やそれは、人の姿に似せて自身の肉体を変異させている。
その模倣元となったのは、おそらく“これ”の栄養源となった、犠牲者たち。今までに1号が喰らってきた数多の世界の住人たちと、この環状の世界のそれらに違いない。
彼らの無念と断末魔を木霊のようにリピートさせることで、この粘体は何を為そうというのか。
『お前たちも、いずれこうなるのだ』という威嚇か、意志疎通の一環か。“貪食”の中に自我が芽生えているのか否かの尺度になりそうであったが、今のスィスにとっては、極めてどうでもよいことだった。
「“貪食”め。貴様如きが、人を真似るか」
舌打ちをするスィスの視界の中で、不意に泥の表面にさらなる変化が生じた。
小さな丘が幾つも現れ、瞬く間にその頂点部分が盛り上がっていく。すぐにそれは、気味悪くうねる触手へと形を変えた。スィスたちの進行方向上に現れたことから、明確にこちらに対して反応を示していることが窺える。
自身の頭上を飛ぶ目障りな存在を叩き落とそうとしているのか、捕食しようというのだろう。
「汚らわしい。触れるな……!」
こちらに向かって伸びてくる触手に対し、スィスが眼を細めながら吐き捨てるように言う。すると、老人の嫌悪に呼応するかのように、巨人の姿が一層揺らめいた。
ぶしゅうっ!
巨人の身体のいたるところから、超高温の火炎が吹き出した。それは掴みかかってくる触手を瞬時に焼き払うと同時に、余波でもって地表の泥に波紋を引き起こす。
そのあまりの熱量に泥の表面が焼かれ、浮き上がっていた無数の顔が、身の毛もよだつような叫び声を上げた。
これぞ、スィスの下僕たる炎の精霊の力。
スィスがその強大な魔力によって使役する、元素の化身の本領だ。名の通りに火で構成されたその肉体は、周囲にある可燃性のいっさいを自在に焼却してのける。まさに意志をもった熱エネルギーの塊だ。
「ドスっ、ドスーーー!?」
進路がクリアになったところで、同じく精霊の手の上にいるセーミが、身を乗り出すようにして叫んだ。杖の重みでバランスを崩しかけたところを、すんでのところで精霊によって掬い上げられる。
スィスが呆れたように言った。
「騒ぐな、落ちるぞ」
「でもでも、ドスが! このままでは、1号に食べられてしまいますわ!」
「案ずるな、この程度で滅びる漢ではない。生体反応も、消えていないしな」
言いながらスィスが、胸元のペンダントを摘み上げる。団員の証であるそれは、緊急時においては他の団員の消息を掴むことが出来るのだ。“余程強力な魔力波”に中てられたのでもない限りその能力が損なわれることはなく、このような極限状況においても、ドスの無事と所在を教えてくれている。
その、ペンダント同士の共鳴反応によれば、どうやら目的地はもうすぐのようだった。
「そら、そこだ」
スィスが前方を指さす。もはや滞留する泥によってはっきりとは分からないが、ドスが大立ち回りを演じた平野がある場所の筈だった。
「全然見えませんわよ、どうするんですの!?」
「決まっている」
喚くセーミに短く答えると、スィスは杖で足元の精霊の手を一突きした。するとその意を察したのか、紅蓮の巨人がゆっくりと空中で静止する。
「焼き払え。丹念に、な」
命を受け、精霊大きく頷いた。そしてその巨体を震わせながら、先刻よりもなお強力な炎の本流を巻き起す。
瞬間、まるで光が爆発したかのような衝撃が走った。
ぶごわあああぁぁっ!
たちまち地表を覆いつくしていた汚泥が灰塵となり、熱風によって直ちに吹き飛ばされていく。さらに高い位置から見れば、一面真っ黒な板の上に、巨大なクレーターが出来がったように思えたことだろう。
如何に“貪食”が同位体であっても、所詮は膨れ上がっただけの生物に過ぎない。こうして超高温の火炎に晒してやれば、有機化合物でできた身体など、たちどころに燃やすことができる。
もっとも、このように世界1つを丸々飲み込むようなサイズになってしまっては、この炎の精霊の全力をもってしても完全に焼き殺すことは不可能だ。
そして同様に、恐るべき科学力を有していたであろうこの環状の世界の住人もまた、この汚泥を退散させることはできなかったのだろう。
焼け跡となった地表には、砂と灰のみが残っていた。その中に、ポツンと立ち尽くす大男が1人。
「あっ、見つけた! ドスーー!!」
目標の人物の姿を認め、セーミが土気色の顔をほころばせた。スィスが制止しようと声をかけるよりも早く、精霊の手から跳び下りてしまう。老人はやれやれと肩をすくめ、ほんの一瞬だけ表情を緩めた。
「我らは降りる。その間、貴様は決してあの汚物を近づけるな」
精霊は従順に頷き、スィスを地表に降ろした。そして大きく両腕を広げると、両手から炎を噴出する。それはやがて円状に展開していき、スィスたちを包み込む。直径にして1キロメートルはありそうな、炎の障壁が完成した。
この壁を維持している間、精霊は身動きを取れなくなるが、邪魔をされることはなくなった。
クレーターの外側から、性懲りも無く黒い津波が押し寄せてくるが、炎の壁に触れた瞬間に燃え上がっていく。
それを見届けたスィスは、ドスとセーミのもとへと歩み寄った。
「無事ですの!? ドス!」
「……問題ないわい」
駆け寄ってくるセーミに対し、ドスが俯きながら答える。
ひゅうひゅうと、空気が漏れる音。顔の左半分が焼けただれ、歯がむき出しになっている為だ。それだけではない。身に纏っていた胴着は完全に失われ、全身のあらゆる部分が腐食している。場所によっては、筋繊維や骨が浮き出ている始末だ。
今しがたの、精霊の一撃によるものではない。“貪食”の強力な溶解液に長時間触れていたためだ。あと数分でも遅れていれば、さしものドスであっても捕食は免れなかったであろう。
そんな危険な状況で、彼は一体何をしていたのだろうか。
「まったくもう、心配しましたわよ! 貴方ならすぐに脱出できたでしょうに、何をしてらしたんですの?」
セーミが問い詰めるが、ドスは沈黙するばかりだった。小指と薬指が失われた左手で溶けかかった頭を掻きながら、憂わし気に眼を逸らす。
「ちょっと、ドス!」
「いや、その、なぁ……」
団長のノーリと同じく孫娘のように可愛がっているセーミに詰め寄られ、ドスは言葉を濁した。実に分かりやすい男だ。後ろめたい何かを隠していると、はっきり読み取れてしまう。
スィスはため息を1つつくと、ドスを指さして言った。
「……貴様、何を持っているのだ?」
「むっ。何のことじゃ」
「とぼけるな。さっきから背中に隠している、それだ」
スィスが看破してやると、ドスは早々に観念したらしい。背後に回していた右手を、素直に差し出してきた。
「これは……ひょっとして、大帝の?」
ドスが隠し持っていた物の正体を悟り、セーミが素っ頓狂な声を上げる。
まさしくそれは、七色に輝く円盤がはめ込まれた冠。“貪食”の擬態の1つである、大帝が被っていたものだ。
「闘いの記念じゃ。放っておくのももったいないでな」
「記念って。でもドス、貴方が闘っていたのは……」
「言うな」
セーミの言葉を遮り、ドスはぴしゃりと言った。そして、怒りと哀しみと憐憫がごちゃ混ぜになったような目で、冠を見つめる。
「これは、あの若造が確かに存在し、儂と拳を交わしたという証じゃ。奴を侮辱することは、儂が許さん」
そう宣言するドスの指が、弱々しく冠を握りしめた。
―やれやれ、愚かな漢だ
スィスは親友の胸中を察し、苦笑した。
ドスは、純粋な戦闘能力だけで言えば、団の中でも上位に位置する武人だ。しかしそんな彼であっても、相手が“貪食”の如き理不尽な相手であっては太刀打ちができない。まして1人ではなおさらだ。
だというのに彼は危険を冒し、汚泥の中をはい回りながらこの冠を探していたのだ。
『武人としての矜持』、『魂の命ずるままの行為』とかいうやつなのだろう。スィスの様な人間には理解できない、実に非生産的で非合理的な思考である。
そしてドス自身、その行為に意味がなかったことは、よく理解できているに違いない。
だからこそ彼は堂々とはできず、こうして酷く体裁の悪い格好をしているのだ。
「……まあいい。釈明は、皆の前でするが良い」
「うむ、恩に着るぞ」
ドスがペコリと頭を下げる。すると何を思ったのか、セーミがそれを撫で始めた。
「仕方の無いことですわ。男の子には、譲れないことの1つや2つはあるものですからね」
「うむぅ……」
「でも、私たちを心配させたのは間違いないのですから、きちんと謝ってくださいましね!」
「わ、分かっとる……」
「とる?」
「……分かっていますです、はい」
「貴様ら、いつまでじゃれ合う積もりだ。状況を考えろ」
スィスが呆れながら言うと、セーミがようやくドスの頭から手を離した。
ドスは頭を上げると、とりなすように言う。
「この世界のすべては……1号が化けた姿じゃったのか?」
「そのようだな。何を考えてのことかは知らんが、世界丸ごとに擬態するとは」
「早まって、この世界で食事をしなくて正解ですわね」
「然り。ここで手に入れたサンプル類は、残らず破棄せねばならん」
団の方針として、新たな世界で手に入れたあらゆる物品は、結界と隔壁で厳重に防護された特別製の保管庫の中で、一定の期間にわたり保存と調査と観察を行うことになっている。団員らの身体機能を損なう可能性を考慮してのものだったが、その用心深さは今回のような予想の埒外の事態において、うまく機能したようだ。
ナインがフィエルの市場で購入した果物や、生活用品。それにタムが森の中で採取した生物の標本も、今は黒い粘体に戻り、封入器の中で暴れまわっていることだろう。とっとと帰還し、取れるだけのデータをとったら焼却処分をせねばならない。
「そう言えば、ピャーチの奴は大丈夫なのか?」
ふと、ドスが思い出したように言った。
「ひょっとしたら、儂以上に冷静さを欠いているのではないか?」
「冗談は止せ。奴は人工知能だぞ?」
「そうだといいがのぅ。なにせあやつにとって、“貪食”は……」
―自壊せよ
―自壊せよ
―自壊せよ!




