環状の世界・28
―戦力の誘引、及び分散に成功……
気の遠くなるような昔こと。
とある世界の、とある小国の、とある小さな村の、医師の家庭に少年は生まれた。
生まれつき身体が弱く、体力も無く、従って同年代の子どもらがするような遊びには参加することが出来ず。親も辺鄙な土地でただ1つきりの診療所の切り盛りで、毎日毎日大忙し。仕方がないのでその少年は、時間さえあれば、もっぱら1人で書物を読みふける毎日を過ごしていた。
しかし、閉鎖的で娯楽の少ない環境では、かように浮いた存在というのは目立ってしまうもので。たちまちのうちに少年は、悪童どものからかいの標的になってしまった。
学び舎では『末成り瓢箪』だの『本の虫』だのと蔑まれ、道ですれ違えば小突かれて服を汚され、使い走りに出れば足を引っかけられて、晩飯のおかずを台無しにされる。
その少年が抵抗することも、悪態をつくこともしないものだから、その行為は段々と激化してゆき。ついには密かな愉しみだった、人気のないお堂での読書までもを邪魔されるようになってしまった。
少年は、己の小躯や貧弱さを揶揄されることには、まだ我慢が出来た。村の子どもたちに比すれば、自身の肉体が劣っていることは明らかだったからだ。
同じように、手を出されることにも耐えられた。弱肉強食が世の理であるということを、齢五つを数える前には理解していたからだ。むしろ戦や飢餓、疫病でバタバタと人が死んでいくこの救いようのない世にあって、大した怪我を負わされることもないのだから上出来だ、と。
しかし、大好きな書物を台無しにされたことだけは許せなかった。
両親から貰い受けた知識本。街で流行っているという、妖怪の冒険譚。著名人たちの素晴らしい詩集。時間をかけて集めた宝の山が、悪童どもの付け火の着火剤にされ、隠れ家ごと焼き払われてしまったその日。
少年は、そいつらを残らずぶちのめすと心に決めた。
医師である父親の専門書を盗み読んで、人体の構造を知り尽くし。効率的に肉体を鍛え。急所を狙い撃つ手段を編み出して。1人、また1人と悪童を打倒し。
そうして数年がかりで、村一番の餓鬼大将の座を勝ち取った頃。少年には、すでに輪郭が見え始めていた。
“武術”
戦場で培われた“殺法”とは異なる、弱者が強者に抗わんがために編み出した理論体系。徒手、武器、環境のあらゆる手段を用いて脅威を排し、勝利をもぎ取る筋道。
故郷にて一等となった少年は、やがてその魅力に取り憑かれ、傾倒していった。
更なる術理を得んがため、物理化学に兵法の書物を読み漁り、人に見立てた巻き藁を相手に技の練習。腕の立つ男と顔が知られるようになったので、方々で売られる喧嘩を安く買いたたいては、実地訓練。
月日は流れ、少年が青年になり、青年が壮年になり。老年になったあたりで“気”の制御方法を覚えてしまうと、もう終着点すら見え始めていた。
肉体の寿命を克服し、並み居る達人共を払いのけ、己の流派を完成させて。やがて人々から仙人と呼ばれるようになると、世界のどこにも己に比肩しうる実力者は存在しなくなっていた。
そうなってしまうと、もはや力への渇望も、研鑽への情熱も薄れゆくしかない。戦うに値する者は地上におらず、さりとて人全体、世界全体に向かって喧嘩を売るほど愚かにもなりきれず。
燻り、人里離れた山深くに隠遁していた彼の下に、あの少女が現れた。
強壮なる“守護女神”を従え、“世界渡り”の魔法を携えた、桃色の髪の旅人が。
ドスという新たな名と、新たな生きる目標をくれた、あの素晴らしい娘が。
「堪らんなぁ、まったく」
ゲルム兵たちの歓声が響き渡る中。大帝の眼前で血を吐きながら、ドスがふらふらと立ち上がった。
未だにその顔から笑みは消えていないが、生まれたての小鹿のように震える脚は、もう満足に身体を支えていられるようには見えない。先の激しい攻防の最中に、大帝がこの大男の胸元に叩き込んだ一撃。心臓を狙った拳による突きが、彼の体内に確かな損傷を与えたのだろう。
もはや勝敗は明らかだった。
……あくまでも、第三者の視点からは、だが。
大帝はまんじりともせずに、その様子を見つめていた。追撃の手を加えることもなく、ただドスの態勢が整うのを待つ。
すると大男は、気合を入れるかのように己の腿をべしべしと叩き、ニヤリと笑った。
「この儂に膝をつかせた者は、宇宙広しと言えどそうはおらん。誇るが良いぞ、大帝よ」
「ほう、まだそんな口が利けるか。虚勢とは言え、前大帝を屠った朕の技に耐えたのは、天晴であるな」
「お褒めにあずかり、光栄じゃ。だが貴様とて、やせ我慢をしとるのではないのかな?」
口元の血を拭いながら、ドスが言う。
大男からの挑発に、大帝はそっと歯ぎしりをした。その指摘が、決して根拠のない侮蔑ではなかったからだ。
「図星か。どうやらお前さんも、そうとうにキとるようじゃのう」
「……」
「そう怖い顔をしなさんな。儂もほれ、この通りまともに動けはせんよ」
よろめきながら、ドスが再び大帝の間合いに立つ。そのあっけらかんとした態度に、大帝は舌打ちをした。
必死に平然を装ってはいるが、大帝もまた立っているのがやっとの状態であった。この大男から貰った、軸足への刃のような蹴り。すでに指先の感覚は途絶え、安定を保つことすら危うい有様。
先程大帝は、ドスにあえて止めを刺さなかったのではない。止めを刺す余裕がなかっただけなのだ。
「さぁて、と」
ふらつきながらも、ドスが構えをとった。開いた右手と左手をそれぞれ上下の位置に置いた、酷く攻撃的な意志を感じる構え。同時に、何か目に見えない圧力の様な物が、その巨体から溢れ出してくる。
ドスが問いかけてきた。
「まだ続けるかね?」
「……是非も、無し」
それを受け、大帝も再び構えた。握りしめた両拳を、頭上の位置にまで持ち上げる。大帝が得意とする、攻撃に重きを置いた構えだ。
小さくない傷を負った両者は、ともに足を止め、防御と回避をかなぐり捨てた。残った体力のすべてを、相手をぶん殴ることに注ぎ込もうというのだ。
「かぁっ!」
「ぬぉっ!」
大帝とドスが、ほぼ同時に動く。
ドスが、体勢を崩した大帝のこめかみを抜き手でえぐり。
大帝が、ドスの首筋に肘撃ちを叩き込み。
ドスの拳が大帝の脇腹を軋ませ。
大帝の拳がドスの顎を撃ち抜き。
手刀が片方の目を切り裂き。
掌底が奥歯をへし折り。
拳が放たれ。
拳が放たれ……
大帝は、無我夢中でドスと殴り合った。
もう、兵たちの声など耳に入らない。今、世界にはたった2人だけ。自分と、この武人だけしかいない。ひたすら殴って殴って殴り、ひたすら殴られ殴られ殴られる。
大男が放つ拳の1つ1つから、想いが伝わってくる。どれだけ永い年月を注いで技術を磨いてきたか。それをぶつけるに足る相手を、どれ程に求めてきたか。『儂は、お前のような奴に出会えてうれしいぞ』と。
だから大帝も応える。自分が、本当は闘いを好いてはいなかったことを。だがそれでも、この闘争は人生で最高の瞬間であることを。『朕も、貴様と出会えて満足である』と。その想いを拳に乗せ、大男に向かってこれでもかと叩きつける。
そんな語り合いが、大帝にはまるで何時間も続いている様に感じられた。
しかし、終わりは訪れた。
お互いが振り抜いた拳が、お互いの顔面を捉えた直後。ドスは踏みとどまったが、大帝は耐え切れず、膝を折った。即座に立ち上がろうと足に力を込めるが……動かない。
「くっ!」
周囲から兵たちの悲鳴が上がる中、大帝はどうにかして身体を持ち上げようと、両手を地面につく。そのとき、ドスが歯をむき出しにしながら吠えた。
「どうしたぁっ、そんなもんかぁ!?」
「何っ!?」
「貴様の背負ってるもんは、その程度なのか!? 根性見せて見ろっ!!」
「うぬっ! 言われずともっ!」
「そうじゃ、立て! 立って闘え! 儂はまだ死んではおらんぞっ!」
睨みつける大帝に壮絶な笑みを返しながら、ドスが胸を叩く。侮蔑するというよりも、敵であるこちらを鼓舞しているかのような口ぶりと態度だ。
ああ、やはりそうだ。この男は、闘いを心から愛している。この男にとっては闘いという過程こそが目的であり、その結果として己が勝とうが敗けようが、どうでも良いのだ。死力を尽くした結果、例えここで命果てるとも後悔はない。
分かるよ、素晴らしい好敵手たるドス。
朕もまた、そうであるのだから。
大帝は、ドスに笑い返した。
「そうだな、ドスよ! 心ゆくまでっ!」
「応っ! 殺し合おうぞっ!」
ドスが再び構えをとる。そして、いつでもかかってこいとばかりに頷いた。
大帝も力強く頷き返すと、すでに限界を越えつつある身体に鞭打った。唸りながら、今一度足に力を込めて……
ど く ん っ
「うぉっ……」
突如。全身から力が抜け落ちていくのを感じ取り、大帝は戦慄した。まだ闘えるのに。まだ戦意は失われていないのに。どうしてか、身体が言うことを聞いてくれない。
まるで胸の奥底から何者かが、『もういい、終わりだ』と命じてきているかのような。
「どうしたっ」
ドスの眼前で立ち上がりかけていた大帝が、突然バランスを崩して倒れかかってきた。慌てて抱き留めてやるが、その身体からは、つい今しがたまで纏っていた“気”が霧散してしまっている。
おかしい。この男の闘志は、まだ潰えていない筈なのに。なぜ急に、こんな。
「いったい……むぅ!?」
訝るドスだったが、追い打ちをかけるように、さらなる異様な光景が目に飛び込んで来た。
大帝の背後で観戦をしていた、ゲルムの兵たち。20万を越える人間たちが、一斉に“形を崩した”のだ。
まるで飴細工が熱で融けていくかのように。あるいは、果実が腐り落ちていくかのように。悲鳴すら上げることなく、どろどろ、ぐしゃりと。
人だけではなかった。鎧や武器は残し、彼らの着ていた衣服と、草や木も。有機的なもののすべてが形を失い、真黒き泥へと姿を変えていくではないか。
「す、済まぬ、ドスよ……」
ドスが異常事態についていけずにいると、胸元で大帝が呟いた。そちらを見ると、ドスの顔へと伸ばされた大帝の指先が、瞬く間に融け落ちてしまう。そして手のひらが、腕が、肘が……どんどんと失われていき、やがて薄汚い粘体へと変貌していく。
知っている。
この唾棄すべきものの正体を、ドスはよく知っていた。あの守護女神と同等の力をもつ、醜くも恐るべき存在。
「大帝よ、貴様は。いや貴様らは、まさか!?」
「そうだ、ドスよ。朕らはすべて、“私”の真似事の産物に過ぎなかったのだ」
ドスの腕の中で、大帝の四肢が、胴体が。そして、頭までもが、泥となって地面へと滑り落ちていく。ドスを力いっぱいに殴りつけ、そしてドスの拳を精一杯に受け止めてくれた逞しい肉体は、もはや影も形も見えない。
ドスの足元で、泥となった大帝の残滓が、最後にぶくぶくと泡立った。
「……だが、それでも。それでも貴様との死合いで得た充足だけは、真であったぞ」
それきり、戦場は深い沈黙に包まれた。後に残ったのは、大地を覆いつくす汚泥ばかりである。素晴らしいひと時の余韻は綺麗に消え去り、それどころか、好敵手など初めから存在していなかったかの様な錯覚すら覚えてしまう。
「お、おのれぇ……」
終始を茫然と眺めているばかりのドスであったが、ややあってから憤怒の形相を浮かべた。そして歯を食いしばり、拳を握りしめ、あらん限りの力を込めて叫ぶ。
「謀りおったなっ、“1号”ォ!!?」
その瞬間。
真黒き泥が、まるで津波のように盛り上がり、ドスの身体を飲み込んだ。
―い た だ き ま す




