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環状の世界・13


 昔々。


 とある世界に、大望を抱く娘がいた。


 発達した魔法技術によって成り立つ世界。その一国家における名家、偉大なる魔法の使い手として名を轟かせる両親の下にて生を受けた娘は、周囲からその将来を存分に嘱望されていた。

 同時に、達人らの長女として愛を一身に受け、そしてその活躍ぶりを常に間近で見聞きしてきた彼女は、物心ついたときには自然と両親と同じ道を志していた。

 

『私もいずれ、父様や母様のように立派な魔法使いになります!』


 小さな身体をいっぱいに反らし、桃色の癖毛を揺らしながらそう宣言した娘は、その日のうちから暇さえあれば自宅の書斎に籠る様になり、己の目的に向かってひたすら愚直に勉学に励んだ。

 果たしてそれは本当に彼女の望みだったのか、それとも期待という名の圧力に屈した結果なのか。誰一人としてそれを理解する者はいなかったが、娘の努力が否定されることは、“この頃”はまだなかった。


 そうして娘が6歳になり、国でも有数の学院の門を叩く頃。娘はすでに、相弟子らの追随を許さず、並み居る師範方を唸らせるほどの知識を蓄えていた。

 

 流石は名家の才女様!

 最も魔法を愛し、最も魔法に愛されるであろう娘!


 惜しみない賞賛をさも当然と受け止める娘は、己を取り巻く連中が述べる通り、自分が両親と同じく非凡な存在であると疑っていなかった。


 そのときまでは。


 最初の手習いとして修める、極々単純な魔法である“念動メイジ・ハンド”。手で掴める程度の質量の軽い物体を、手を使わずに動かすという初歩的な魔法の実技。その現場において、信じ難いことが起こった。


 否。


 正確には、“何も”起こらなかった。


 娘は初めて手にすることを許された杖を手に、前夜のうちから何度も予習しておいた行程を実行した。杖の先を目標に向け、たった一言呪文を口ずさむ。ただそれだけで、輝かしい栄光への道が切り開かれる筈だった。


 しかし恐るべきことに。


 その魔法は、発動しなかった。

 

 実験器具として机上に置かれた無数の重りは1つとして宙に浮かぶことはなく、それどころか記録用の羽ペンや羊皮紙ですら微動だにしなかったのだ。


 歴史の立会人たろうとその場に押し寄せていた観客たち、そして当然娘本人でさえも、その原因を娘の外に求めた。


 杖に異常があったのでは?

 器具の質量が重すぎたためでは?

 何者かが反魔法領域アンチ・マジックフィールドを展開した可能性は?

 強烈な太陽風により、魔法がかき消されているのでは?

 あるいは最悪のケースとして、娘の体調が優れなかったのではないのか? 


 だが、しかし。

 懸念されるありとあらゆる異常は、一切見出されることはなかった。


 娘の身の内には確かに魔力が流れているが、しかし彼女の言葉に反応して意志を具現する様子がなかったのだ。


 そこからの娘の人生は、まことの恐怖と絶望に満ちていた。

 

 幻音ゴースト・サウンド

 魔法検知ディテクト・マジック

 念話メッセージ


 初歩の初歩、基礎の基礎は勿論のこと。ありとあらゆる魔法が、娘の振るう杖から放たれることはなかったのだ。

 

 入学当初からおべんちゃらを囀っていた俗物共は、娘に近づくことを止めた。

 始めは多大な期待をしていたであろう師範らも、半年後する頃には『落ちこぼれ』の評価を娘に下した。

 辛抱強く見守ってくれていた両親も、1年が経過する頃には娘のことを空気のように扱い始めた。


 恐るべき事態だった。絶望する他になかった。


 自身の中に優れた能力があると信じ、それを開花させようと研鑽を積み重ねていたというのに。

 娘には、魔法の才がなかった。どれ程に恋い焦がれていても、魔法は娘を愛してくれなかったのである。


 そんな隆盛から転落していく小娘など、気位高く、野心溢れる者どもの集う学院という環境においては、この上ない攻撃対象である。


 挫けることなく、いつかきっと魔法は振り向いてくれるに違いないと努力し続ける娘に対し、学友らは遠慮と容赦のない侮蔑や嘲笑を投げかけた。日々の生活で堆積した細かな鬱憤を晴らさんと、邪悪な機知に富める趣向でもって、無関係だが目障りな娘を貶めた。


 娘にとっては、まさに地獄の日々に他ならない。夢をもった瞬間から輝いて見えていた世界が、薄汚くどす黒い色を放ち始めたのだから。

 もし仮にその状態が数年も続けば、娘は自ら命を絶つことを選択していただろう。それほどに、周囲からの責め苦は常軌を逸していた。


 だが、“幸か不幸か”。

 娘は力強い庇護によって、現世に踏みとどまっていた。

 落ちこぼれの娘を理解してくれる存在が、たった1人だけいたのだ。


 娘が悲しみに暮れるときには、優しく肩を抱きながら涙を拭い。娘の名誉を穢す不届き者らが居れば、即座に誅伐する。まるで薄幸の姫君に付き従う騎士のごときその存在は、学友ではなく、指導者でもなく、当然親でもない。


 娘の弟だった。


 さして年齢が離れておらず、姉ほどに勤勉ではなかったが、しかし名家の出身として相応しい、非凡なる魔法の才を有した少年。健気にも人一倍努力しているというのに、何の成果もあげられない姉とは、そのお揃いの髪の色を除いてまったく対照的な人物であった。

  

『姉さんなら大丈夫だよ。なんたって、僕の姉さんなんだから!』


 娘が危機に際すれば風の様に現れ、手を差し伸べる貴公子。滅多打ちにされて歪みつつあった姉のそれとは異なり、彼の精神性は澄み切った空のように何処までも清廉潔白だった。


―知ったようなことを。同じ立場なら、そんなに真っすぐでいられる筈がないのに! 


 娘の弟に対する感情が、萎縮からやがて憎悪へと変質していくのには、そう時間はかからなかった。

 

 俯瞰してみれば、弟がしてくれていた行為に対しては感謝の念以外を抱くべきではない。

 だが、その庇護が返って娘の心を切り刻んでいたことなど、無垢な弟には思いつきもしないことだっただろう。


 いっそ娘を見つめるその瞳の中に、ほんの一片の優越、あるいは憐憫の光でもあれば、憤りのうちのいくらかでもぶつけてやることができただろうに……








「だから私、悔しくて悔しくて……」


 ベッドの中で枕を抱きしめながら、ノーリは絞り出すようにして呟いた。がっくりと落ちた肩が、小刻みに震える。

 忘れたい、しかし忘れられない過去が、再びノーリの心を串刺しにしていた。


 落ちこぼれた自分をどんな時でも護り、支えてくれた優秀な弟。その存在は、ただ1つの救いの光であると同時に、ノーリを縛り付ける呪縛であった。


 どうして同じ姉弟でありながら、自分だけがこれほどに惨めな思いをしなければならないのか。

 どうして姉である自分が、弟に庇護されてばかりなのか。

 どうして私は、どれだけ努力を重ねても魔法を使えないの?

 どうして私の弟ばかり、あの子ばかり魔法を使えるの!?


 自分自身を苛む怨嗟の声は、主観時間で1000年を生きているノーリの胸のうちに、今でも確かに根付いている。永い時を経てもなおノーリの繊細な精神を蝕まんとする汚辱ではあるが、しかし今もって、これからも取り払うことはできないだろう。


 その確かな痛みがあるからこそ、今のノーリがここにある。数多の世界を旅することで、新たな魔法に触れることができる。


 いつの日か“世界渡り”以外の魔法を習得し、偉大な魔法使いになる。


 その夢はまだ、潰えていないのだから。


 だが、しかし……

 

「でも、その思いのせいで、私は……」


 ノーリは頽れるようにして突っ伏した。まるでいじける子どものように、犬猫のように丸くなってしまう。


 考えたくなかった。

 信じたくなかった。

 認めたくなかった。


 思い起こすたびに己の心をめった刺しにする、しかし先の見えない魔法研究の原動力でもあるトラウマ。それがまさか、ナインに対する一連の無礼な態度の原因として、密かに表出していたとは。


 かつん!


 部屋の床を踏み鳴らす、軽い音が響いた。そして間を置かず、ノーリの背中に冷たい声が掛けられる。


「だからノーリ様は、捌け口として彼をお求めに?」

「っ!」


 ノーリがぎくりと震えながら、背後に控えている人物の方へと振り向く。“ナインの帰還をまつノーリの話し相手をしてくれていた”、タムの方へと。


「かつては護られるばかりだったから。だから今度は、明らかに自分よりも劣った存在を連れ込み、護ってやろうと? だからノーリ様はナインを、ひょっとすると“私のことも”お救いになられたのですか?」


 落ち着いた口調で、しかし辛辣な言葉を並べ立てるタム。

 それを聞いたノーリは、血相を変えて否定した。


「ちがっ……私、そんなつもりなんか!」

「お話を聞くにノーリ様自身は、少なくとも前者の方は事実とお認めになっておられるかと」

「それは……その……」

「自分でも気が付かないうちに、そうすることを望んでしまっていた。そうなのですね?」


 口籠るノーリの心のうちを看破したのか、メイドが哀し気に表情を歪ませる。

 それに対し、ノーリは何か言いたげに口を数度もごもごと動かした。しかしすぐにそれを止めると、枕を抱きしめたまま俯いた。そして、とつとつと吐露し始める。


「……私がナインを。マトイさんを救ってあげたいと思ったのは、間違いなく純粋な願いからでした。でも一緒に過ごすうちに、きっと、彼の中に……」


 言いかけて、またもや口籠るノーリ。だがスィスに、そしてタムにまで面と向かって指摘されてしまっては、もう言い逃れることはでいない。


「ええ、そうです。私はナインにあの子の、弟の姿を重ねていました。私が護ってあげたかった理想の弟を。いいえ、私が護ってやるべきである、理想的な弱い存在の姿を」


 自分の口ではっきりと言ってしまい、ノーリは改めて愕然とした。

 一方的に自分より格下と断じ、ナインをナインという一個人と見ることなく、ノーリにとって都合の良い存在としての型にはめようとする。

 なんという下劣で恥ずべき行為だったのだろうか。団を預かる不死者の長として。それ以前に、人として許されない。

 

「もう駄目です。私、ナインに合わせる顔が無い……」


 自分ですら正視できない恥部を暴露してしまい、とうとうノーリは耐え切れずに泣き出した。両眼から零れ落ちる大粒の涙が、腕の中の枕を盛大に濡らしていく。ずっと取り換えずにいたカバーに染みつく汗が臭いを放ち、つんと鼻をついた。

 

 結局のところノーリがしていたのは、憐れな境遇のナインを利用した代償行動である。


 なんと情けないことだろうか。

 なんと度し難いことだろうか。


 不死者として悠久の時を生き、定命の者どもでは決して獲得できない人生経験を積んでいながら、自制の利かない餓鬼の如き振舞をしてしまうだなんて。これではスィスの言う通り、ナインどころか団員たちの信頼を失うのは当然ではないか。


 タムが黙って見つめる中、ノーリは声を押し殺してむせび泣いた。

 自分自身の愚かさが許せず、そして間もなく帰還するであろうナインに、どのように接するべきかが分からずに。


 まるでその外見年齢と同じ小娘のように、ただひたすらに感情に任せて泣いた。

 

 すると、“しばし”の間をおいて。ノーリの肩に、そっと温かい感触が伝わってきた。

 鼻をすすりながら顔を上げると、そこにはいつもの優しい笑みを浮かべたタムの顔が。


「それで、よろしいではありませんか」


 タムはゆっくりと頷きながら、安心させるような口調でそう言った。

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