59 昏き森の憂苦(5)
「この老木が森長となれたのは、ただ生き残ったからなのだよ」
淡々と告げた老爺の表情に、アリーシャは言葉もない。彼は、共にやってきた仲間をすべて失っているのだ。
新たに生まれた子らとて、無論同胞である。しかし、放浪の末にたどり着いた友をみんな亡くしたこととは代えられない。
己がもしそうであったなら――村の皆を、幼馴染を亡くしてしまったら。
そんな想像をするだけで、恐ろしさに喉が引きつる有様だった。
同じくクレイオスも眉間に力が入るほどに、悲嘆極まる状況である。されど、目の前の老爺はそれをまるで感じさせない。
眼前の土人族たちを憎んでもおかしくないというのに、コルルクは穏やかな面持ちを崩さず、己が境遇を淡々と語っているのだ。
それはつまり、コルルクの中ではすでに整理がついたことなのだろう、とクレイオスは彼の精神力に感服する。
そんな二人の表情にコルルクは微笑みを零す。しかし、緩く首を横に振ると、クレイオスらに問いかけるような口調で話し出した。
「さて、若枝たちよ。我らは百二十年、この森を侵されずに済ませている。無論、同胞は数多く死したが、そのすべてが土人族との争いが原因というわけでもない。森の加護を受けているとはいえ、病気にもなれば、魔獣に後れをとることもあるのだ。そんな我らが存亡を危惧せねばならぬとは、どういう理由であろうな?」
「病気……ってわけでもなさそうですね。土人族の軍に押されている、わけでもない」
道中の森人族たち、そして目の前の姉弟の様子を見て、己の予想が正解ではないとアリーシャは把握する。
皆、顔色は良かったし、大きなケガをしている様子もなかった。クレイオスらの訪問で嫌悪を抱いていたが、それだけだ。危地にあるような――追い詰められた獣のような雰囲気はしていない。
考え込むアリーシャの横で、クレイオスはふと、老爺の言葉を思い出した。そこに感じていた薄い違和感の正体を見出し、問題の核心を理解する。
「……百二十年で、十六人しか生まれていないのか」
「正解だ。もとより、我ら森人族は子を孕む力に乏しいのだよ。それが長寿ゆえか、森神さまのお考えゆえかわからぬが、な」
見事に当てて見せた青年に、コルルクは「よくできました」と言わんばかりの微笑みを浮かべて頷く。
「そして、子を産むと一口に言っても簡単ではない。若枝にはまだわからぬ話であろうが、一年もの間、腹に抱え、育む必要があるのだ。それも一人ではできぬ、周囲が支えねばならん。だが――我らは森を護る必要がある。子宝を嘆くつもりはないが、しかし、一人孕めばそれだけで何人もの大人が戦線を離脱することになるのだよ。そして、生まれた子供たちは、戦力になるのに長い時間がかかる。我らは寿命に比して、成長が遅いのだ」
「お前たちは二十三人――いや、子どものこと考えればもっと少ない時期の方が長かった。そして、今は十四人しかいない」
「理解が早いな。そう、我らには後がなくなってきたのだ。ごく単純に、未来を――子どもを産み育てることができない、というのっぴきならない状況に、な」
そう言って、コルルクは苦い笑みを浮かべる。対するアリーシャはどんな表情をすればいいのかわからず、とにかく困惑の面持ちで視線を落とす。
生々しく、されどどうしようもない現実が森人族を危機においやっていたのだ。
まだしばらくは戦い続けていられよう。しかし、それではこの森の森人族はやがて、絶える。真綿で喉を締められるが如く、これから百年以上かけて――あるいはもっと短い時間で、森から消えて行ってしまう。
それを正しく危惧し、コルルクは打開せんと動き出したのだ。それが、今回の話につながるのだろう。
クレイオスはそう考えたが、しかし実情は少しだけ異なっていたらしい。
「当然だが」と老爺は続ける。その表情には、何かを悟ったような、穏やかな感情が宿っていた。
「森を護るという使命と、生き永らえねばならぬという人族としての危機。我らはこの二つを天秤にかけねばならなかった。そしてそれは使命に大きく傾いていたよ。百二十年の戦いを、さらに続けるだけのことに抵抗などなかったからな。
だがね。
この村で最も若いこの子らが――「もうやめよう」と言ってくれたのだ。我らに弓引かれる覚悟を抱き、言葉を尽くし、「死に行くことが使命なのか」と何年も話し合った。その果てに、我らは弓を置くこととしたのだよ」
そう言って、コルルクは脇に座るユピテウスの頭を撫でる。
黙って話を聞いていた少年は、困ったような、面映ゆそうな顔で笑みを浮かべた。その反対側で、モルハウトは聞き入るように目を伏せている。
それを見て、アリーシャは悟る。
この老爺は、この姉弟の願いを前に、全てを呑み込んだのだ、と。
百二十年の戦意、友を失った悲嘆、争う相手への憎しみ――その全てを腹の底にしまって、消化してのけた。そして、動き出したのだ。森を生き永らえさせる講和の道を。
それが、それがどれほど難しく、そして異質なことか。
何度も語られた話だが、『森人族とは誇り高く、強情である』――つまりはめったに考えを変えたりしない。
神によって生まれてからこれまで、他の人族全体が容易に思い知るほどに、森を不可侵とすることへの執着は強く、それを諦めたりしない。
そう思われるのは当然だったし、アリーシャだってそう認識してきた。
だが、この若き森人族の姉弟と、長き時を生きた老爺は、決断してのけたのだ。種族全体が固執する使命に見切りをつけるという、ある種の究極の選択を。
その重さ、他所の人族たる者には理解しきれるものではないが、しかし、敬意を払うに十分なものであることはわかる。
同時に、森人族の未来を若き姉弟に託した彼の望みが、いかに尊い願いであるかも。
若い二人が感じ入る様に、老爺はくすぐったそうな薄い笑みを浮かべて視線を逸らす。
それから咳ばらいをひとつ零し、話を戻すべく言葉を紡いだ。
「それにな、これは我らだけの願いではないのだ。向こうもそう思っておる――と言えば、わかるかな?」
茶色の瞳を向け、コルルクはアリーシャにニヤリと笑って見せる。
その意味を知り、少女は驚いたように目を白黒とさせた。
「……アルパリオス伯も?」
「その通り。我らが話し合いを始めてからしばらく、彼から秘密裏の手紙が何度か来ていた。譲歩はできないか、争うことは止められないか――彼もまた、この姉弟と同じく争いを憂いているのだろう。同じ願いを持つ者同士、話は通じるはずだ」
この村が争いをやめたがっているのと時を同じくして、この地の領主も戦いの終焉を求めていた。
それもまた、森人族の決断を後押ししたのだろうが、しかし。
偶然というには出来すぎている――これもまた、運命というべきなのだろうか。不思議なものだ、とクレイオスは胸中で呟いた。
まさしく運命神の導きなのだろう。
かの神は運命そのものを好きなように変化させたりしない。ただ、運命という名の大きな流れの中に入りやすくしてくれるだけ。だからこその、『導き』なのだ。
そうした経緯で講和を決断するに至ったのはわかった。しかし、訊くべきことはまだある。
「この話に、俺たちが関わるべき理由がわからない。両者が望んでいるならば、俺たちなど必要ないだろう。いや、そうでなくても部外者が入る余地はない。なぜ、俺たちに同行を依頼する?」
いよいよ以て本題――クレイオスたちに、講和への旅に付き合わせる必要性が問われた。
アルパリオス伯が講和を望むのであれば、彼の兵士なりなんなりが迎えに来ればいい。少なくとも、旅人たる二人が介在する余地はないはずだ。
彼の疑問に、コルルクは頷きを返して口を開いた。
「当然の問いだ、若枝よ。これには、少しばかり簡単ではない事情がある。今少し、老木の話に付き合ってくれ。
まず、『講和』とは善と契約を司る星神の高司祭が仲介を果たし、その面前で約定を結ぶことで成される。かの星神の名を借りるとあらば、たとえ我々であっても虚偽も裏切りも許されぬし、土人族とて信じざるを得ないからだ」
老爺の話はまず、いかにして仲の悪かった両者が手を結ぶかという手段から始まった。
虚偽を暴き、嘘を許さず、善なることを貴ぶ星神――その権威は『契約』にも及び、彼女の名を借りた高司祭の前で行う約束は、強制力さえ擁することもある。
なるほど、確かに百二十年も争った人族たちが手を握り合うには、これ以上の手段はないだろう。
神の名と力とは、それほどまでに重く強い。
「だが、ここで一つ問題が生じた。なんでも、数か月前にその役割を担うはずだった星神神官が亡くなられたそうだ。老いに病気が重なったそうで、権能による治療も間に合わなかったという。現在、このアルパリオス領に同等のことを成せる高司祭は居らず、隣のヘルルトン領から招聘しているとのことだ。その到着は未定であるが、我らは早くに使者を出すこととした」
「……それはなぜだ?」
今すぐには結ぶことのできない講和。それを押して、老爺はこの姉弟を使者として向かわせたいのだという。
クレイオスが思わず問いかけ、コルルクは彼の目を見ながら答えるべく話を続ける。
「まず、講和を結ぶことは既に決まっておるが、まだその約定を明確に定めていないのが一つ。我らがどれほど譲歩し、アルパリオス伯がどれほど認めるのかも、現在はまだ定まっておらぬ。その話は顔を突き合わせてすべきである、というのが使者を向かわせる理由だ。高司祭が到着次第、講和を結べるようにな。その代表に、この姉弟を選んだのだよ」
「……講和を言い出したのは我ら姉弟だ。ならば、その使者となるのは道理であろう」
それまで黙っていたモルハウトが言葉を発し、クレイオスはそちらを見やる。
その端正な顔立ちには決意が秘められており、なるほど、と青年は納得を得た。
森での邂逅時、殺意の薄かった理由。彼女たちが講和を望んだからこそ、土人族を必要以上に傷つけることを厭うたのだ。
そんな長姉の様子にコルルクは苦笑を漏らし、言葉を続けた。
「理由の二つに、この姉弟が森を一度も出たことがないのもある。ここから目的地、水都アルパリオールまで、早くとも三日以上はかかる。道中で迷って講和の日に間に合わないなどというのも馬鹿らしい話なのでな。予習として道を歩かせるつもりなのだよ」
「なるほどね」
二つ目の理由は、なんとも間抜けなものであるが、しかし笑い飛ばすこともできない。
なにせ、クレイオスら二人とてひと月も前は同じような有様であった。この姉弟たちとクレイオスらに何の違いもなく、野営の仕方も知らぬだろう。
恥ずかし気に顔を伏せるモルハウトとユピテウスに、アリーシャはなんとも言えない表情で納得を見せた。
だが、それらはクレイオスたちが同行する必要のある理由ではない。
黙って続きを促す二人に、老爺は無論だと話を再開する。
「さて、その旅路にアルパリオス伯の案内人がつけばよいだろう、と思うだろうが、そうはいかん事情があるのは察しておろう。……簡単な話よ。まだ講和は成っていない――どうしようもなく、我らは憎まれている」
苦い色を伴って、老爺の喉から言葉が吐き出される。
そこに含まれた諦念と隠しきれない失意の感情に、クレイオスは百二十年の争いという重みを知った。
この老爺は土人族への様々な激情を消化したが、相対する相手までがそうであるわけではない。まして、土人族は数が多い。
森人族が寿命で勝るなら、土人族は数で遥かに勝る。
この村の数十倍の規模の者たちがこの領地には住まい、そして、戦ってきた。森人族たちが同胞を亡くしたように、土人族の方だって兵士である家族を亡くしてきたのだ。
その事実を受け止めるでもなく、だが知ってはいるコルルクは、仕方がないのだとばかりに首を振った。
「どうやらアルパリオス伯は講和を望んでおるが、それは領民の総意というわけでもないらしい。案内人の話は一度上がったが、その為の人材に悉く断られたそうでな。それどころか、「森から出たいなら出てきてみるがいい」とまで言われたそうだ。
そもそも、領主とのやり取りでさえ、森の外れに手紙を置き、お互いが回収するという手段をとっている有様だ。
……この百二十年、森を出奔した者も一人いた。しかし、数日後には無惨な姿で森の近くで見つかったよ。我らと彼らにできた溝は、冥府に届かんばかりに深いのだ」
憎しみが故、恐れが故に、森人族を案内することを拒絶されている。
それは思った以上にこの講和の話に大きく影響しているらしく、それだけでこの使者たちは森を出られなくなっていた。
姉弟たちだけで水都に向かうことは、老爺からすれば無理な話なのだ。彼の語る昔話――経験則が、その危険性を諭している。旅のやり方を知らぬという話以上に、疎まれる森人族たちがうろうろしていると領民に知られれば。
争いは避けられない――それどころか、講和の道が閉ざされることだろう。両者、どちらかが憎しみを再燃させても駄目なのだから。
アリーシャにはそれが手に取るようにわかる。そしてそろそろ、自分たちに求められる役割が見えてきていた。
そこでふと、モルハウトだけではなく、ユピテウスまでがこちらを見ていることに気づく。
「アルパリオス伯と手紙越しに、我らは水都を目指す手段を模索した。その中に、この地と関係のない旅人を供にするという話もあった。無論、その果てしない難しさにその話は立ち消えとなった。だが――」
「――あなた、たちが、来てくれた。お礼は、します。だからどうか一緒に、水都まで同行、してほしい。僕らが、敵じゃない、って、証明したい、から」
姉弟が言葉を紡ぎ、そして頭を下げる。クレイオスたちに、案内人の代わりを務めてほしい、と。
「おまえたち旅人ならば、この地の憎悪の巡りとは無縁だ。まして、森で出会った我らとの戦いを避けようとしてくれたという。そんな二人が、拒むことなくこの老木の前まで来てくれた――これを運命神の導きと言わずしてなんと言おうか。だから、頼む。この子らを見守り、水都まで導いてはくれぬか」
老爺は感じ入るように二人の顔を見つめ、テーブルに手をつき――頭を下げる。
長き時を生き、その多くを土人族との戦いに捧げた森人族が、頭を垂れた。その重さを、今更わからぬクレイオスたちではない。
数瞬息を呑み、目を伏せてクレイオスは考えを巡らせる。
――自分たちは旅の途中だ。この地の因果とはなんの関係もない。
最果ての北地の情報を得るために、向かうべきはこの国の中枢たる王都『レイアロール』。そこにあろう運命大神殿だ。
急ぐ旅路でもない。だが、寄り道を積極的にするほど気長なものでもない。これは神託の旅なのだから。
――だが。
それらの「己の為」の理由を差し置き、クレイオスは深く感じていた。
「彼らの味方になってやりたい」という、己が心中の囁きを。
戦いを避け、平和を望み、森の行く末を案じる姉弟たちにどうしようもなく感化されたのだ。そのあり様に感銘を受けたといってもいい。
この身がわずかでも助けになれるなら――それは素晴らしいことなのではないか。
わずかな逡巡を経て、クレイオスは隣のアリーシャを見る。彼女もクレイオスを困ったような表情で見ていた。
だが、幼馴染の表情からなにもかもを察したのだろう。視力を戻したわけでもないのに、彼女は青年の表情がどんなものか、容易に想像できたのだ。
肩をすくめ、そして微笑みを浮かべて頷いた。「あなたがいいなら私も構わない」、と。
やはりこの娘には敵わない、とクレイオスも笑みを浮かべ、それから目の前の三人の森人族に向き直る。
「どれほど力になれるかわからない。だが、俺たちは喜んで同行させてもらおう」
「――ありがたい」
了承の言葉に、ずっと仏頂面だったモルハウトはそこで初めて――花が咲くような笑顔を浮かべた。