58 昏き森の憂苦(4)
不思議な緑の『住居』、二人はその中へとモルハウトと共に足を踏み入れる。
少し背の低い入り口を屈んで通り抜けると、目に飛び込んできたのは一面の黄色だった。
地面――というより床は一面の渋く焦げた黄色で埋め尽くされており、一瞬何かの絨毯が敷かれているのかと考えた。
しかし、革靴の底でサクリとした音を感じ、目を落としてよくよく観察してみれば、その黄色は植物であった。
小指の爪ほどの高さしかない草が、一面に生い茂っているのである。踏まれたくらいではへこたれない丈夫さは、確かに絨毯の代わりにうってつけだろう。
これもまた森神より賜った権能が活用されていた。
感心しながら次いで視線を上げれば、想像以上に広い室内が目に飛び込んでくる。
ただし、それは外観より広いわけではない。ただ、一切の仕切りがなく、球状の住居の中に一室しかないだけなのだ。
家具も人も少ないために、がらんとした印象があるのも広さを感じる理由だろう。
故郷の家から部屋を分かつ壁をすべて取り除けばこうなるのだろうか、とクレイオスはキョロキョロと見回しながら考える。
内側から見る緑の壁は思ったよりもみっちりと詰まっていて、外の様子も見えない。なるほど、外からの視線を遮ってくれるこの場所は、確かに土人族を招くにふさわしい。
また、それらの様子を克明に見て取れるほどに室内は明るい。原因は、天井からぶら下がる一本の枝だ。そこに淡い光を放つ花が下を向いて咲き誇っている。あれはなんだろう、と見知らぬ植物にクレイオスは興味をかき立てられた。
そうやって不躾に室内を見回すクレイオス。その腕を叩き、アリーシャは「もう」と言いながら正面を向かせる。彼女の視力であっても、正面に人が居るくらいはわかるのだ。
室内中央、一つだけある背の低いテーブルを前にして、小柄な森人族が座っていた。
先に入っていたユピテウスが隣に座り込んでいて、その彼より少しだけ座高がある程度なのだから確かにその人物は小柄だ。
ただし、子供ではない。
時を経て瑞々しさを失い、されど経験を積むことで皺を刻まれた肌。枯れ枝のように細くなった手足、髪が茶色に乾いたその姿は、まぎれもなく老爺であった。
森人族の老人。
クレイオスらを待っていた森長とは、彼である。
さて、一般的な知識として。
森人族とは、土人族と比して遥かに長寿である。
土人族が老いに負け、冥府へと旅立つまでにかかる時間は平均して六十年。ほとんどはもっと早く、病気やケガを原因にして死ぬが、だいたいその程度と考えてよい。
対して森人族は――およそ二百年以上健康を維持し生きることができる。森を出て土人族の社会にやってきた森人族のほとんどは、そのくらいを優に生きた。
しかも、二百年というのは苦も無く健康でいられる時間。つまりは、若々しい姿の期間である。
そのほとんどが容姿端麗であり、乙女も騒ぎ出す美貌を誇る森人族とは、それほどの時を美しいままに過ごすことができるのである。
遥かに短命で、そして早くに老いていく土人族が彼らを妬み、嫌うのも仕方のない話かもしれない。
閑話休題。
二百年もの間、若々しく在れる森人族。
それが老いさらばえ、枯れ枝の如く乾いた姿となるのに――どれほどの時間が必要なのか。
本の知識で森人族の寿命を知るアリーシャは、たかだか十六年しか生きていない己と彼の年月を比べ、心胆から震える思いだった。
咄嗟に頭を下げ、言葉を繰り出したのは、年長者への敬意も多分にある。だがそれ以上に、途方もない時間を生きた神秘的な存在への信仰心から、というのが大きかった。
「こ、この度はお招きいただき感謝します、森人族の森長殿。不躾にも森に迷った我らに寝床を貸し与えてくださる温情に、心から敬意を」
それは、かつて港町で貴族と行動を伴にすることになった際、同行していた剣士と魔法師が捻りだしていた弁を真似たものである。
彼女の中では最大限の礼儀、失礼を犯したくない一心での発言であった。
それくらい、目の前の老爺には迫力がある。同時に――強烈な森神の加護も。
脳髄で直接感じ取れるような神の気配に、かの森人族がよほどに森神に気に入られている事実を思い知る。信仰心に篤いアリーシャにとって、それは頭を下げるに足る十全な理由であった。
そしてその横のクレイオスはと言えば――同じく軽く頭を下げ、黙っていた。
こちらもまた、老爺の持つ迫力を肌で感じ取っていたためである。
青年は森神を狩人として信仰しているが、されど権能は持たない。故に加護の気配など欠片もわからないが、生き物としての直感には優れていた。
つまり、目の前の枯れ枝のような生き物が、明らかに濃密な人生を送ってきた『大木』であることを察したのである。
それは同時に、かつて貴族と邂逅した際、幼馴染に「黙っていて!」と必死にアイコンタクトされていた記憶を刺激された。敬い、失礼のあってはならない存在だと認識したのだ。
今回はアリーシャにそうする余裕などなかったが、クレイオスは無知であっても愚かではない。下手なことを言わない賢明な判断として口を引き結んでいた。
そんな彼らの様子に、茶色の眉を愉快そうに曲げながら森人族の老爺は微笑みを返した。
そこに強い感情は一切なく、どっしりとした老木の如き静けさだけが内包されている。
「そうかしこまるものではない、土人族の若枝たちよ。礼儀を知る賢しさを見せてもらえただけで十分だ。さあ、いつまでも立っているわけにもいくまい。こちらへ座るのだ」
しわがれて、だが力のある声だった。見た目は枯れているかのようだが、その内にはまだまだ生命力に溢れていることを信じさせる声音である。
同時に聞く者に安心感を与える穏やかさがあり、この森人族は敵意など持っていないのだと思わせてくれた。
彼の声色と言葉に安堵し、アリーシャは「ありがとうございます」と微笑みを返す。
そして二人は言われるがまま、皺だらけの腕で示されたテーブルの前に腰を下ろした。
よく見ればそのテーブルすらも、複数の植物が絡まって出来上がった生きている家具であった。
ここまで徹底した有様を見れば、さしものクレイオスにもわかるものがある。森人族たち
は、森の木々や植物を切り落として加工することが大嫌いなのだろう。
同行していたモルハウトも老爺を両脇から挟むようにユピテウスの反対側に座り、ようやく落ち着いて話をする状態と相成る。
二人の顔を確かめるように一呼吸の間じっくりと眺めた老爺は、それからゆっくりと息を吐き出すように口を開いた。
「……これもまた、我らが森神さま、そして運命神のお導きなのかもしれんな」
「森長?」
最初に零れ落ちたのは、感嘆を色濃く含んだ独白であった。思わず、といった様子で呟いたようで、目を閉じて感慨に耽っている。
その様子が常とは違っていたのだろう、隣のモルハウトは驚いたように老爺を見やっていた。
しかしそれに反応を返すこともなく、老いた森人族は数瞬思索に耽る。
クレイオスらがやや不安に思い始めたあたりで、ようやく気を取り直したように目を開き、鷹揚に言葉を紡いだ。
「失礼した、若枝たちよ。この身の老いはどうにも考え事を長くしてくれてな」
そう言って、老爺は軽く肩をすくめる。
反応に困るクレイオスたちが返す言葉に困っていると、薄く微笑んだ老爺はまるで気にしていない様子で「さて」と仕切りなおすように口を開いた。
「まずはこの老木の名を知ってもらおう。『楢の木』のコルルク、この森の森長を継いでおる」
「カーマソス村の元狩人、アリーシャです」
「カーマソス村の元狩人、クレイオス――です」
敬語に慣れぬ青年を面白そうに見やってから、老爺コルルクはアリーシャの方を見て、穏やかに頷いた。
「元狩人、か。獣を狩り、森の恵みを採り、木々の調べを知る――良き狩人であったのだろうな。その身の森神さまの加護がそれを教えてくれるよ。良き若枝が来てくれたものだ」
「あ、ありがとうございますっ」
そんなコルルクから発せられたのは、紛れもない称賛の言葉であった。
森神に愛され、森中での狩りに優れる森人族の――その長命者からもたらされた言葉となれば、それは狩人にとって紛れもない名誉だ。
いきなりそのような言葉をかけられるとは思わず、喜びと驚きに声を跳ねさせながらアリーシャは頭を下げる。
ぴょこんと揺れる幼馴染の黒髪を視界の端に収めつつ、クレイオスは「そういえば以前も似たようなことを言われたな」と初めて森人族の森に入った時のことを思い出す。
番人グアランスにも、彼女は森神の権能と弓の腕前を褒められていた。
村にいたときから思っていたが、この幼馴染は土人族の身でよほどに森神に好かれているらしい。森人族に認められるとは、それほどの加護だということだ。
アリーシャは凄いな、と己が幼馴染を誇らしく思っていると、クレイオスは老爺の視線がこちらに向いていることに気づいた。
またしてもコルルクは黙り、考え事をしながらクレイオスを見ているようだった。
さて権能も授かっていない己は何を言われるのだろう、と身構える彼に――コルルクは感嘆のため息を零した。
「よもや、この老木が枯れ果てる前に邂逅することがあろうとはな、神に愛されし者の子よ」
「――っ!?」
驚きを多分に含んだ老爺の言葉に、誰あろうクレイオスがずっと驚かされた。
まず間違いなく、このコルルクはクレイオスが半神半人であるとわかっている。
神火を見せたわけでもなく、尋常でない怪力を発揮したわけでもない。ただその眼力のみで自身の正体を見透かされたのである。
『神に愛されし者』ではなく、『神に愛されし者の子』と言っているのだ。前者はアリーシャのような権能持ちの人族にも言えるが、後者はクレイオスのような出自でなくば通じない言い方だ。
数瞬息を吞み、クレイオスは言葉に詰まる。
ちらりと見やった左右の若き森人族の姉弟は、困惑を露わにしていた。
少なくともこの老爺にしかわかっていないことのようだが、肯定すべきか否か。
一瞬、アリーシャにも目をやるが、「任せる」とばかりに一度目を合わせたきり、何かを言う気配もない。
わずかな時間悩んで――下手な否定はすまい、とクレイオスは決断を下す。
目の前の老爺は、この小僧の身で量るなどおこがましいほどに聡い。こちらの考えを見せれば付き合ってくれるかもしれないほどに。
顎を引いて頷き、クレイオスは肯定を示す。
「森長殿の慧眼、恐れ入る。確かにこの身は、推察通りの生まれだ」
「ふ……この老木の眼もまだまだ捨てたものではないな。誰の子かはわからぬが、お前は本当に運命神に気に入られているのであろうよ」
「……なんの話をしておられるのだ」
肯定は肯定でも、クレイオスの精一杯の知恵を回した、迂遠な表現に装飾されたものだった。
それはコルルクに確かに届いたらしく、薄い笑みを浮かべながら直接的な表現は避けてくれる。実際、隣のモルハウトは困ったように眉間に皺を寄せていた。
彼女の疑問には答えず、クレイオスは老爺の言葉に首を傾げ、反復する。
「ところで……運命神さまに気に入られている、とは?」
さほどに運命神と縁を感じた覚えはない。しかし、この老爺は何かの確信を以て、かの神の名を二度も出している。
青年の疑問にコルルクは鷹揚に頷いて、重々しく口を開いた。
「それこそが、此度の本題となろう。……あまりこのような物言いは好かないが、少しばかり大仰に言えば、我々の頼みとは、この森の『存続』に関わるものなのだよ。
そこに、お前たちのような特別な土人族の若枝が来てくれた。これは紛れもなく、運命神のお導きと言えような」
「存続、って……」
老爺の言葉に、アリーシャは眼を見開いて驚きを露わにする。
元より軽々な話ではないと感じていたが、よもや森の生き死にに関わるほどの話だとは。それならば、運命神の名まで持ち出すのも納得と言える。
運命神とは、その名の通り、『運命』なるものを主に司る。
これは非常に説明の難しい存在で、ある司祭は「過去、現在、未来の出来事だ」と言い、ある学者は「あらゆる存在がたどる不可視の道」と諭す。頭の良い人々の間でも議論の分かれる概念なのだ。
その上、運命神自身でさえもそのすべてを掌握しているわけではないらしく、特に神々自身の『運命』は関与せぬとしているのは有名な話だ。
そうした、理解が難しく正体がよくわからぬものに導かれたと感じたとき、人族はその女神の名を持ち出すものなのだ。
今回のような、森人族の重大な問題に際してクレイオスらが訪れることになったのは、まさしく運命とやらが関わっているのだろう。
あまり実感のわかぬクレイオスに対し、アリーシャは殊更にそれを理解した。ノードゥスという国を横断する旅の中で、最もそれを感じていたのは彼女なのだから。
そして、同時に心中で不安が鎌首をもたげる。
――まさか、また魔物が?
真っ先に思い浮かんだ危機と言えば、まさしく自分たちが戦うことになった存在であろう。直近の経験だからこそ、その危惧は当然のものだ。
知らず目に力が入り、霞んでいる視界の原因に思いを馳せる。
そうして思わず表情を険しくするアリーシャに、老爺はちらりとだけ視線を向けるも反応はしなかった。
それから一呼吸置き、二人の顔を見てから口を開く。本題に入らん、とする老爺の表情に、クレイオスらも居住まいを正して耳を傾けた。
「そろそろ話を進めるとしようか。旅人たる若枝たちにはわからぬ話となろうが、まずは我らが望みから伝えよう。
――お前たち二人に頼みたいのは、この森とこの地の土人族の長・領主アルパリオス殿との講和。その使者たる我らが若木たちの旅路に、同道願いたいのだ」
「……え、っと」
果たして、老爺の口から告げられたのは、まるで状況のわからぬ話であった。
『講和の使者に、同行する』――頭からつま先まで、どういうことかちっとも理解できない。
少なくとも、魔物の復活などという覚えのある代物でないことは確かだ。しかし、コルルクの前置き通り、この地と縁なき二人にとってはまるで理解の追いつかぬ話である。
無論、そんなことはわかっているのだろう。一拍置いて、コルルクは改めて口を開く。
「順に説明していくが故、どうか最後まで聞いてほしい。まずは……そうさな、長い昔話から始めるべきであろう。
――まず、我らはこの森と共に生まれたわけではない。数えて百二十二年前、二十三人の同胞と共に世界樹森林から分かれ、この地にたどり着いた」
そして語られるのは、若きクレイオスたちからすれば遥か過去の話だった。
時の流れを想像することもできぬ、百二十年という時間。しかし、目の前の老爺からすれば身の上話であるというのだから、長命たる人族は不思議なものだ。
そのことに感心しながら、青年たちはコルルクの語りに耳を傾ける。
「無論、この地の森に住み着いた時、既にここは土人族の国の地であったよ。しかし、我らとてそれなりに長い放浪を経た後であった。これ以上遠くの地を探すことは叶わず、故に我らはこの森を守護の地と定めることとした。ああ、土人族のお前たちからすれば、厚かましい話と思うことだろう。だが、当時の我らも生きるためにはそうせねばならなかった」
現在、大地の各地にて森を守護する森人族の多くは、その森と共に生まれたという。森を不可侵とするのは信仰からもあるが、その中に故郷を護らんとする思いがあるのも確かだ。
だが、この森の森人族たちは違う。如何なる理由か、世界樹森林を離れてやってきた外様なのである。
そしてそれは「森人族が森の守護者である」という人族の認識を越えて、問題を招くのだろう。
アリーシャの予想に違わず、コルルクの語りはそれを肯定する。
「この地の領主、当時のアルパリオス伯からすれば気に入らない話であったようだ。『この地は我が領地であり、森もまた同様。すべからく明け渡すべし』と、使者に告げられたよ。
長き旅に疲れ果て、ようやく見つけた美しき森――森神さまからの温情と思っていた我らは、それをくだらぬ妄言と切り捨てた。それからだよ、この地の土人族との争いが始まったのは」
遠いかつてを思い起こすかのように、老爺は視線をわずかに上げ、あらぬ虚空を見つめる。
そこでようやく、クレイオスは老爺の顎から首にかけて一本の古傷があることに気づいた。鋭い一本筋の痕は獣の爪によるものではなく、刀傷だと理解する。
まさしく、この老人は戦っていたのだ――土人族たちと。
なればこそ、クレイオスには不可解に思う。
これほどまでに、凪いだ気持ちでクレイオスらと向かいあっていられる彼の気持ちを。そして、先ほど聞いたばかりの『講和』という言葉を。
「百二十年は、お前たち土人族からすれば途方もなく長いのだろう。当時のアルパリオス伯はもう居らず、今の領主はその子孫なのだという。だがね、我々にとっても流石に長い――長い戦いなのだよ。
……アリーシャよ、この村には何人の同胞が住んでいると思うかね?」
「それは……」
不意に投げかけられた問いに、アリーシャは答えられない。
往く道で数えていたわけでもないのもそうだが、そこで見た森人族たちの人数が少なかったのも口ごもる要因だ。
二十三人でこの森にたどり着いたという。だが、それがそのまま百二十年の戦いを生き残ったわけではないはずだ。何せ――コルルクほど老いた者を、道中で見ていないから。
それを無遠慮に口に出せるほどアリーシャは図太くない。
そして、対するコルルクも意地の悪い問いのつもりだったらしい。「すまんな」とくつくつと笑ってから、話を続ける。
「十四人だ。二十二の同胞が冥府に旅立ち、十六の子らが生まれた。残念ながら、三人の子は既に亡くなってしまったが――この老木が森長となれたのは、ただ生き残ったからなのだよ」




