57 昏き森の憂苦(3)
「パトル……?」
意を決した風のモルハウトに対し、クレイオスは聞き知らぬ単語に首を傾げた。青年の浅い知識の海に該当する言葉はなく、女森人族が何に招いたのかさえ不明である。
対するモルハウトは、よもや伝わらぬとは思わなかったのか、動揺も露わに目を白黒とさせていた。
文化が違えば言葉も違う。
運命神と魔法神の取り決めにより、全ての人族の言語そのものは同じだ。だが、今のように『何か』を示す些末な単語まで規制する力はない。
なまじ、普通に言葉を交わす分には問題がないからこそ、この瞬間では大きな問題となっていた。
だが、今回に限っては話が別。双方の言葉を同時に理解している人物が、ここにいた。
おずおずとした声が、両者の視界、その低い位置から発せられる。
「えっと……土人族、でいうところの、『村』、かな」
見下ろせば、声の主は末弟のユピテウス。先ほどもクレイオスの疑問に解説をもたらしてくれた少年だった。
そういうことだったのか、と理解を示すクレイオスと、話が伝わったことで安堵に胸をなでおろすモルハウト。フィラウトは「やっぱりお前は賢い奴だ」と弟の頭を撫でくり回している。
そしてアリーシャは――
「村……ですって?」
眉根を寄せ、困惑を露わに反復していた。
意味を理解した今、目の前の森人族からの誘いが、あまりにも予想外であったから。
まずもって、森を不可侵とする彼らにとって、日常とはすなわち『防衛戦』に等しい。
常に侵入者の存在に気を配り、寄るものあらば射かける矢の用意から始まる。次いで制止の言葉を投げ、その次にはもう射撃だ。
そうやってずっと気を張って生活しているものだから、あんな風に話も通じない有様なのだ――とは口さがない鉱人族たちの名言だ。
ともかく、そうやって日ごろから戦い続けている心積もりの森人族にとって、住処とは重要拠点。心臓部と称して過言ではない。
落とされることは敗北を意味し、ならばその秘匿は最優先事項となる。
故にその在り処を突き止めることは難しく、ましてや自ら明かすなど――珍しいという話ではない。気でも狂ったかと心配するのが当然だ。
まさしく、晴天下に雷鳴が轟いた――『太陽神が雷神に叱られた』ようなものだ。
そういう事情を本で知っていたので、アリーシャは呆気にとられてすぐには返事できないでいる。
眼前のモルハウトは、よもや己らがそんな風に知られているとは思ってもいないのだろう。
アリーシャの困惑を拒絶反応と見たのか、濃緑の長髪を揺らして女森人族はなおも言葉を続けた。表情はいまだ真剣であり、先の言葉の本気さが伺える。
「お前たちを罠にかけるような、卑劣な真似はしないと約束しよう。いや、それだけでは足りんな。我らが偉大なる森神さまに誓っても構わない」
必死になって言葉を重ねるモルハウト。その様子を見て、クレイオスは『頼み』とやらが軽々なものではないと察し、眉根を寄せて渋面を作る。
森人族への偏見と知識が薄い青年は、彼女の口振りでようやくこの状況の異質さに身構えたのである。
さてどうしたものか、とアリーシャと視線を交わす。幼馴染も多分に困惑しており、返事に窮していた。
一瞬の沈黙――そこで口を開いたのは、姉弟の中の末弟であった。
「その、モル姉さん。そういうのじゃ、ダメ、かな」
「む……」
モルハウトが思わず見下ろすと、ユピテウスがおどおどとしながらも顔を上げていた。
姉兄にだけはきちんと目を合わせる彼。思わぬダメ出しをもらう形になった長姉は、困り果てて思わず問いかける。
「では、どうしろというのだ」
「えっと、ね……」
モルハウトの問いかけに、ユピテウスは躊躇うように一瞬言葉に詰まる。
どうしたらいいのかはなんとなくわかるが、それを言葉にして伝えることのなんと難しい話か。
もとより口下手で内向的な少年は、自分から言い出したくせに黙り込みたい気持ちでいっぱいになっていた。
しかし。
常は頼りになる姉が、己を頼っている。
その事実の――なんと喜ばしいことか。
それは内向的な少年の胸に熱を与え、外から来た土人族にだって言葉を紡ぐ勇気を生み出してくれる。
本で口元を隠さずにはいられない内気さはすぐに治るものでもないが、それでも土人族の二人に向き直り、少年は『説得』を試みた。
「――もう、真っ暗になってしまう、から。今から森を出ても、土人族の村に着く、ころには、太陽神さまも起きてくる、と思う。だから、その、僕たちの村で、寝床を用意、します。一晩過ごすついでに、モル姉さんの話を、聞いてくれたら、いいから……」
「……なるほど」
少年森人族がひねり出した、必死の弁。それを受けて、クレイオスは空を仰いで確かめる。
もうすでに世界樹の向こうまで太陽神は行ってしまったのか、空は赤から黒に変化し、間もなく月女神が昇ってくるだろう。
確かに、このままでは森か、その外かという違いはあろうが、野宿するしかない。ユピテウスの言葉を信じないわけではないが、実際に森人族の森の近くに村があるとは思えなかった。
そして、野宿のやり方は商隊護衛のときに教えてもらったとはいえ、できることなら避けておきたいものではある。
アリーシャとて困惑していただけで、森人族が森の奥に引き込んでから改めて襲い掛かってくるなどとは考えていない。
かの人族の誇り高さは伊達ではないのだ。
そうなれば、彼の誘いを断る理由は見つからない。
「……そういうことなら、是非。森人族たちの村、っていうのも、興味があるもの」
了承する返事をしながら、アリーシャはついと考える。
この場合、ユピテウスのしたたかな弁舌に丸め込まれた、というべきだろうか。
案外、この末弟の森人族こそが一番賢いのかもしれない、とアリーシャは面白そうに微笑むのだった。
*
三姉弟に連れられ、森を歩くことしばらく。
気づけば木々はより一層の密度を増し、藪や茂みが進む足を邪魔するように生え茂っていた。
それらの合間に、アリーシャは森神のかすかな気配を感じ取る。
目のずっと奥、頭蓋のどこかで感じる感覚的な話であるが、このあたりの森は権能で調整されていると察した。
これが、ほかの人族が簡単には森人族の村を見つけられぬ理由。彼らの豊かな加護たる権能を用い、森を一つの迷宮にしているのだろう。
そんな木々の合間を、すいすいと滑るように通り抜けていく森人族たち。最も幼いユピテウスでさえ足を取られることなく、遅滞ない勢いで進んでいくのだから、ここは真実彼らの庭なのだ。
たとえクレイオスら二人が優れた狩人であるとて、その後を問題なくついていくことは難しい。現在のアリーシャは、その視界が良好ではないのだから。
外套や革鎧に引っかかる枝葉を苦労してよけながら進むクレイオス。そんな彼の腕を掴み、日の落ちた暗い森を確かめるような足取りで進むアリーシャ。
彼女の様子にモルハウトは一度だけ視線を向けたものの、何も言わずに速度を落としてくれた。その気遣いに感謝しつつ、二人は昏き森の深部へと入り込んでいく。
もはや夜空の月女神の位置を確かめることも難しい鬱蒼とした森では、どれほど時間が経ったのかもわからない。
少なくともくたくたになるほどの距離を進んだわけではない。アリーシャが疲労度から移動距離を推察していると――不意に、モルハウト及びその弟たちがその足を止めた。
彼女らの背を前に立ち止まる二人に、長髪を揺らして女森人族は振り返る。
「ようこそ、客人たち。ここが、我らが村だ」
右腕を広げ、紹介するように眼前の森を指し示す。
されど、そこに広がるのは相変わらずの昏き森。立ち並ぶ家もなく、柵もなければ人影もない。
からかわれているのか、と困惑するも、三姉弟の表情に戯れの色は欠片もなかった。
どういうことだ、と目を凝らして――クレイオスは「あっ」と珍しい驚きの声をあげた。
乱立する木々の合間、樹上、ひときわ大きな藪――それら全てに、人の気配がある。
森人族たちが、木の根元で弓を磨き、枝の上に腰かけて果実を齧り、茂みの中で体を休めている。
その姿があまりにも森と一体化していたので、クレイオスもすぐには彼らの存在に気づけなかったのだ。
だが、遠くから見ただけでは森の中で彼らが一時休んでいるだけにしか見えない。
それをモルハウトが『村』と呼ぶ理由。数瞬遅れてその意味に気づき、クレイオスは驚愕を覚える。
クレイオスにとって、『村』とは家々が立ち並び、設けられた柵で外の自然から仕切られた安全地帯を意味するものと思っていた。
しかし、それはあくまで土人族における常識。森人族にとってはまるで異なる話なのだ。
土人族にとって当たり前の『家』。くつろぎ、身を休めるための巣と言える。
だが森人族からすれば、森そのものこそがくつろげる場所だ。
家具や寝具など必要とせず、ましてや安全のために仕切る必要がない。それは周囲の自然を権能で迷宮化することで成し遂げているからだ。
森の中、ただそこで過ごすだけで森人族たちは身を休めることができる。ならば、『家』という形を持たないのも当然と言えよう。
さらに、第一に問題となる雨風――それすらも彼らは気にする必要がない。
モルハウトが指し示した空間、その頭上を見上げれば、反り立った樹木たちが天を閉ざしている。
あれでは雨など枝葉に遮られてしまうだろう。そうした諸問題も、権能による環境操作が解決してしまっている。
これらの要因は、すなわち土人族らとの生活様式がまるで異なることを意味していた。
森人族たちが集まり、共に過ごす場所。それだけで、『村』は『村』足りえるのだ。
クレイオスはあまりの文化の違いに「驚いたな」と小さく零す。それを聞き取り、しかしモルハウトは意味がわからぬかのように首を傾げてから、気を取り直したように口を開いた。
「さて、クレイオス、アリーシャ。早速お前たちをもてなしたいところだが、まずはそこで待っていてもらおう。フィラウト、ついてこい。ユピテウス、ここで彼らと待っているのだ」
「おう」
「う、うん」
モルハウトが足を止めたのは、村らしい空間から十数歩分離れた場所。くつろいだ様子の森人族たちからギリギリ気づかれない距離だが、派手な動きをするとすぐにでもばれるだろう。
無論、そんなことはしないが、何を待たされているのだろう、とクレイオスは腕を組んで疑問符を浮かべた。
その様子を感じ取ったアリーシャが、横で補足する。
「わたしたちがいきなり村に入っちゃったら、いくら三人が居てくれても大騒ぎになるわ。だから、先に話を通しに行ったの」
「そ、そう、です。森長に言えば、なんとかなる、と思う、から」
彼女の言葉に、同じく待たされる形となったユピテウスが付け加えた。
なるほど、とクレイオスも納得して首肯する。それからややあって、少し前にも出た耳馴染みのない単語に、青年は思わず問いかける。
「森長、とはなんだ?」
「えっと……あなたたちでいうところの、『領主』、かな。村長、でもいい、かも」
ユピテウスの説明に、クレイオスは舌の上で言葉の意味を転がす。つまりは、モルハウトたちはこの森の森人族たちのまとめ役に話をしにいったということだ。
思えば、カーマソス村に調査隊がやってきたとき、まず最初にカマッサへと話がされていた。それと似たようなもので、考えればすぐにわかることだった。
理解して満足するクレイオスの隣で、しかしアリーシャは別のことが気になったらしい。
少し屈んで、ユピテウスに視線を合わせるようにしながら不思議そうに問いかける。
「ねえ、ユピテウス。あなた、お姉さんたちと比べて随分、土人族のことに詳しいのね」
アリーシャに浮かんだ疑問は、この少年の博識ぶりである。
クレイオスらが森人族のことをよく知らぬのは、彼ら森人族が排他的で、その文化を決して外に漏らそうとはしないからだ。一部の森を出た者も、『禁則』として自らの村の文化を話したりしない。
故に彼らの文化に関する書物は少なく、姿かたちさえあやふやに伝わっていることさえある。
だがそれは一方通行の話ではない。森人族とて、土人族のことを知る機会は決して多くはないのだ。
生活圏を森の中に限定し、交流を断ち切っている――森を護れさえすればそれでいい、と極端な生き方をしているのだ。森の外に住まう者のことを知る手段などそう多くない。
土人族側がより多くを知るのは、森よりも広い範囲に住まい、そして彼らよりも多く数が居るからだ。単純に、情報を持ち帰ることができたためである。
だが、この少年は土人族の文化に理解がある。自分たちの文化とすり合わせ、独自の単語を翻訳したりすることだってできる。
博識であることは、つまり土人族のことをよく知る手段があることの裏返しだ。
どこで知ったんだろう、という純粋な疑問である。が、目の前の少年が途端に視線を落ち着きなくうろうろさせ始めたのを見て、コミュニケーションに失敗したか、とアリーシャは不安になった。
それも束の間、意を決したようにユピテウスは唾を飲み込んで、口を開く。
「そ、それは……この本に、教えて、もらったから」
「あら、そうだったのね」
返却されてからずっと、両手で握りしめたままの本。それを見つめながらの返事に、アリーシャは思わず声が高くなったのを自覚した。
彼女の本質は、本の虫。幼少より父親の蔵書に囲まれて育ち、故に外の世界に憧れた娘である。
同類、と認識して、思わず笑顔になりながら問いを重ねる。
「その本は――」
「待たせたな」
が、そこで女森人族が木々の合間から姿を現す。
質問する機を逸したアリーシャはもにょもにょと口をつぐみ、その様子に長姉が首を傾げた。
「む? どうかしたか」
「な、なんでもないよ。行こう」
問いかける姉に首を振り、ユピテウスはそそくさと歩き出す。
多少慣れてきたとはいえ、内気な彼が土人族二人の相手をするのは、短時間でも気疲れするものであったのだ。
これ幸いと歩き出す少年に、まあいいか、と気にしないことにしたモルハウトはクレイオスたちに向き直る。
その顔は、村に招いてきたときと同じ――少しの緊張をはらんでいた。
「お前たちを村に招く許可が下りた。寝床を貸すことも許されている。その代わりに――」
「ええ。重大な頼み、だったかしら。もちろん話は聞かせてもらうわ」
「……うむ。では、その為にもまずは森長のところへ案内させてもらおう。悪いが寝床はその後だ」
よほどに彼女のしたい『話』が大事なものであるのだろう。ことここに至り、確認するように言葉を紡いでいた。
だが、それこそ今更断るわけでもなし。あっけらかんと了承を告げるアリーシャに、モルハウトは「そうか」とそっけなく言いながらも安堵したように長い息を吐いた。それから背を向け、村に向かって歩き出す。
まだ引き受けるわけでもないのに気の早いことだ、と思いながらも、口には出さずクレイオスはそのあとを追う。無論、アリーシャの手を引きながら。
――そうして、村に入ってすぐ。
全身に穴が開くのではないか、と錯覚するような、それほど強烈な視線がそこら中から二人に浴びせられる。
軽く周囲を見れば、三姉弟より年上に見える森人族たちが、こぞって顔を出してこちらを見ていた。濃淡ある緑色の瞳の群れには、どれも似たような感情の色が存在している。
敵意、恐怖、嫌悪。
喜ばしくない、されど覚えのある感情の嵐だった。だが、過去一度経験したソレとは、たった一つの異なる性質がある。
殺意だけが、とにかく薄い。それだけは確信をもって言えるだろう。
クレイオスらを拒絶する意ばかりで、直接的に何かしようという気配はまるでないのだ。事実、睨みつける気勢はあれど、その手に得物を握る者は誰もいない。
かつての森人族の森で受けた敵愾心に比べれば、なんとかわいいものか。
これほどまでに森によって違うのか――あるいは、この森が異質なのか。
クレイオスは不思議に思いながら、モルハウトの背を追っていく。
多くの森人族に睨まれながらも、『村』の奥へと歩みを進めていった。
道中で周囲を見渡しても、見えるのは何の変哲もない森の景色だけ。ここが森人族たちの住処であると認識できるのは、辛うじて天を塞ぐ天蓋の存在のおかげである。
そんな異質な『村』にあって、唯一の『住居』と呼べそうな代物がクレイオスらの正面に見えてきていた。
それは、緑の丸い球であった。
遠目に見ても、その球は森の枝葉で造り出されているのがわかる。ただし、切り落とされたものを使っているのではなく――生え伸びたものでそのまま構成されていた。
周囲の木々、茂みから枝葉が伸び、絡まり、球状を成している。明らかに自然的でなく、事実アリーシャはそこに信奉する神の気配を薄く感じていた。
緑の球は故郷のクレイオスと祖父の家ほどの大きさがあり、正面には中へ誘うような穴がポッカリと口を開いている。
その入り口に仏頂面のフィラウトが立っていることから、目的地とみて間違いないだろう。
森長――領主や村長を意味する通り、特別な場所に住んでいるらしい。逆に言えば、この『村』の中に建造物を置くほどの重要人物である、ということだ。
改めてその理解を深め――同時にそれほどの相手を介して行う『頼み』とは何であろうか、とクレイオスは知らず眉間に力を込めた。
自分たちは何かしらの問題に首を突っ込むことになるのであろう。
未来を見通す運命神でもないが、クレイオスはそんな予感を抱いていた。
そして。
「お前たち二人に頼みたいのは、この森とこの地の土人族の長――領主アルパリオス殿との講和。その使者たる我らが若木たちの旅路に、同道願いたいのだ」
その予感は的中したのである。