51 鬼母邪神決戦(2)
王都の眼前で繰り広げられたのは、まさしく神話で語られるような戦いであった。
鉱人族の彫り上げた彫像の如き屈強な青年が、思わず跪きたくなるような輝きの猛火を噴き出して宙を舞い踊る。
それを撃ち抜き、地に叩き落とさんするはおぞましき本物の魔物。無数の矢、紫電、閃光を手指を躍らせるだけで容易く操り、雷雲の下をその暴力で以て埋め尽くした。
一発一発が、鎧に包まれた人体を容易く爆散させて余りあるもの。あんなものの渦中に放り込まれたならば、どんな生物だって生き残れないはずだ。
だというのに、白銀の槍を手にした青年は一度たりとて止まらなかった。
その身を矢が打ち紫電が貫いても、絶対に止まらず飛翔し続けた。
それはまさしく、希望の象徴。
誰もが絶望し、嬲り殺される未来だけを見せる魔物を前に、臆することなく立ち向かい続ける。
彼が神でないならなんだ? 英雄? 勇者?
どんな言葉でも、彼を讃えるには物足りぬ。吟遊詩人がその頭にある全ての語彙を尽くし、国中にその雄姿を語らせても、この光景を目にした感動は得られぬだろう。
その神話のワンシーンを見つめることのできた傍観者たちは、息を呑み、その行く末が英雄譚の如き大団円となるのを、ひたすらに待ち続けた。
――だが。
その結末が訪れることはなかった。
終結を思わせた青年の渾身の一撃は、恐るべき護りに阻まれ。
死以外に連想のしようもない、恐るべき紫電の閃光によって希望は潰えた。
平野に谷を刻み、山に穴を穿った閃光が、続けて二度、三度。
『絶対に殺す』という真っ黒な悪意によって、見る者が胸に抱いた希望は完膚なきまでに叩き潰されたのだった。
山に暗い穴を生み出し、両手を下ろした魔物がゆらりと動く。
振り向いた先は当然――人族が集まり、固まったまま動かぬ王都の門前。
こちらを舐るように見据える虹色の瞳に、何百という勇士たちが悲鳴も上げられずに萎縮した。その股座を情けなく濡らしたとしても、誰も責められまい。
そんな有様の有象無象どもに、果たしてレギーナは――裂けるような笑みを浮かべた。
これまで、己に逆らう不届き者にずいぶん手を煩わされた。その死体を見ることは叶わなかったが、されどこの『餌』どもの様子を見ればその溜飲も下がろうもの。
これから己の一部となるのだと思えば、その恐怖にまみれた感情も魔物にとっては極上の甘露だ。
さて、どのように殺してくれようか――邪悪な画策にその狡猾な知恵を巡らせんとした時、その耳に入る風切り音。
ヒィン、という澄んだ音を響かせ、弓なりの軌道を描いた矢がレギーナ目掛けて迫る。
その鏃は当然のように虹色の膜に弾かれるも、続けて二本の矢も同じ軌道を描いて放たれた。
貫ける道理もないというのに、無謀にも矢を放つのは誰なのか。
魔物だけでなく人々も疑問を持ってその姿を見上げた。崩れかけた城壁の上で、一括りに結わえた黒髪を風に躍らせる一人の少女を。
それが、青年と行動を共にしていたアリーシャという少女だと、一体何人の騎士が気づいただろうか。
その彼女はまったく諦めもせずに弓に矢を番え、力いっぱいに引き絞る。そして、その場の全ての人間に聞かせるように声を張り上げた。
「諦めないで!」
弦が空気を張り裂く音を響かせ、矢が虚空に放たれる。虚しく弾かれても、二の矢を番えるのをやめない。
「まだ、こんなところで終われない! 私たちは、こんなところで死ぬために生まれたわけじゃない!」
弾かれる、弾かれる。されど、決して少女は手を止めない。レギーナが目を眇めて己を見据えていても、背筋が凍えるように寒くても、絶対に手を止めない。
「そいつがどれだけ強くても! 神様が倒しきれなかった大変な魔物だとしても! 地形も変えるような力があったとしても! それが諦める理由になんかならない! 目を覚まして、立ち向かって! こんなところで、立ち止まるわけにはいかないの!」
その声が震え、目尻に涙がたまり始めても、アリーシャは決して諦めるということをしなかった。
そんな少女の言葉は、今にも膝を折りかけていた勇士たちの魂に、小さな――小さくても確かな熱を与える。
だれかが呟いた。「そうだ、こんなところで」
だれかが呻いた。「まだやるべきことがある」
だれかが囁いた。「行くぞ。まだ、戦える」
それはいくつも重なって、隣のだれかが意志を同じくしているのを認めて、やがては力強い合唱となる。
空を貫く雄叫びとなり、戦場に塗れる負の感情の全てを吹き飛ばし、心折れた者が剣を握る原動力に変わっていった。
果たして、気づいた人間は居るだろうか。少女の叫びが、見知らぬ誰かへの鼓舞なんかじゃなく、一人の青年のための叫びでしかなかったことを。
「――よく、吼えたわ」
それでも、一人の英雄を再起させるに十分な熱量はあったのだ。
崩れかけの城壁の下、ぼろぼろの身体を小鹿のように震える脚で支えながら、エーレオナが立ち上がる。
その姿に気付いた者が差し伸べる手を振り払い、己の二本の脚で立ち上がった。そして、己も一員なのだと勇ましく雄叫びをあげた。
そんな人族の勇士たちの叫びは、レギーナの感情を目の粗いやすりのごとく逆撫でした。
ともすれば神火の青年以上に気に入らぬ。強い苛立ちのままに薄く詠唱を呟いて、生み出されたるは、無数の紫電の矢。槍よりは威力が落ちるが、されど有象無象を貫くに事足りる威力を有していた。
その矢の雨に一時怯みはしても、勇士たちはもう心折れぬ。魔法師が護りの詠唱を始め、戦士は盾を掲げる。無駄だとしても、立ち向かう心は不壊の力を得ていた。
そんな、紛れもない『勇気』を以て立ち向かう彼らを助けるように。
平野と隣り合うように佇む黒い森から、無数の木の葉と矢が吐き出されるように撃ち放たれた。
勇士たちの頭上を木の葉が護るように覆い、迫りくる紫電を次々と降り注ぐ矢が撃ち落とす。
まるで冗談のような光景だった。
矢が矢を撃ち落とす絶技もそうだが、まさか森人族が土人族の危機を救うだなんて。
それは、森の住人からすれば一人の青年に借りを返すための支援であったが、人々からすればまさに、森神からの手助けに思えた。
神が味方してくれている。
そんな、これ以上ない心強さを糧に、咆哮する。
剣を手に手に、かの魔物に一矢報いる――否、我こそが討伐せしめん、と闘志を燃え上がらせて一歩を踏み出した。
そこに居るのはもはや、神話を見守る傍観者などではない。そのワンシーンに確かに入り込んだ、英雄たちがここに生きているのだ。
――なれば。
――なればこそ。
――本物の英雄が、立ち上がらないでどうする。
刹那、激震。
その瞬間を、王都の内側に居た多くの者が多くの言葉で飾った。
曰く、世界が悪寒に震えたのだ。
曰く、平野が波のようにうねってしまったのさ。
曰く、いいや、山が怒りに火を噴いたんだ。
どれも違う。
最初は大地の怒りであると、誰もが錯覚した。
その次に、マルゴー山脈が一際大きく震えていることに多くの者が気づいた。
そして一部の者が、穿たれた穴を有する山だけが異常に揺れていると理解した。
最後に、幼馴染だけは一筋の涙を流しながら青年の生存を確信した。
雄大なる自然が、鍛冶神の領土たる山が、悲鳴を上げて左右に揺れる。
穿たれたその大穴が瑕疵となり、そこを中心に左右へ亀裂が駆け伸びた。その行く先は大蛇のように曲がりくねりながら伸びていき、最後には山裾から虚空に消えていく。
それが意味するところはつまり、山が上下に分かたれたということ。
重く、大きく、山が揺れる。
「まさか、いや、ありえない」と。誰かが呆然と呟いた。
だが、そんな常人の理解など遥かに飛び越えて――山が、亀裂を境にして浮き始めた。
少しずつ、少しずつ。
だが着実に、山が浮き上がっている。その証拠に、山の向こう側の景色が細い線となって見えてきてしまう。
誰もがあんぐりと口を開けて見守る中――やがて、それを成す者の力が見えてきた。
紅蓮が、迸っている。
山を浮かび上がらせるように、その真下から炎が噴き上がっていた。
底面に直撃した炎は左右に分かれ、千切れてボロボロになった山裾から轟々と燃え上がっている。
ややもすれば、その炎が山の下の地面から噴き上がっているのではなく、山の底から全方位に向けて迸っていることに気付くことだろう。
この段に来れば、もはや、疑う余地はない。
我らの英雄が。神に比肩する力の持ち主が。
まさに死の淵から、よみがえったのだ。
「クレイオス……!」
アリーシャの呟きなど、聞こえるはずもなかっただろう。
それでも、己を呼ぶ言葉に応えるように。
『――雄オオォォォッッッ!!!』
魂を揺さぶる雄々しき叫びと共に、持ち上げた山を投げ放った。
*
余りの出鱈目さに忘我するレギーナめがけ、『山』という超大質量が唸りを上げて落下する。
我に戻った時には既に、レギーナの周囲一帯は山の影で闇に染まっていた。それほどの莫大な範囲は、回避などという概念を絶対に許さない。
だからといって防御すればなんとかなるわけもない。残った十七枚の『積層障壁』だけを頼みにしてもどうしようもない破壊力がある。
ならば選ぶのは――打ち砕く迎撃。己を殺すに足る破壊は、破壊を以て剋するのみ。
「『リィリィリィリィリィリィ』――」
判断は迅速であり、実行もまた敏速であった。
その口から漏れ出るは、人の耳では聞き分けられるかわからないほどの高速詠唱。邪権能の『魔法』特有の単音で成立する詠唱だからこそ可能な無茶をここに押し通す。
詠唱によって生じた無数の紫電が、レギーナの周囲で大気を炸裂させる。それは何の形もとらず、莫大なエネルギーのうねりとなって彼女を囲っていた。
だがそれも一瞬のこと。魔物の突き出した両手の内側に一斉に収束を始め、つい先刻山に大穴を穿った一撃を模し始める。
ただし、そこに内包するエネルギーは先ほどの比ではない。己が大きく弱体化するのも厭わず、下半身の球の半分以上を消費した一撃だ。
爆ぜる紫電はその色を濃くし、重たくドロドロとした黒い稲妻と化していた。それを頭上の山へと狙いを定めるように持ち上げ、最後の一節を唱えあげる。
「――『リィーラ』」
刹那、黒い光が空を貫いた。
音はなく、それが放たれた軌跡を目で追うことも不可能であった。
わかったのは、光が通過した山の三分の二を消滅させ、その背後にあった雷雲すら跡形もなく消え去っているということだけ。
直後、レギーナを直撃しない部分しか残らなかった山が平野へと落下した。
三分の一といえど、大質量には変わりない。それだけでもう一度地震が発生し、今度は山が砕けたことで雷雲に達するほどの高い土煙が巻き上がる。
間近で起きる激しい揺れともうもうと立ち込める土煙はレギーナでさえ無視できず、無数の骨の足を踏ん張ることで耐え忍ぶ。
乱れ飛ぶ山の砕片が飛礫となって全方向から魔物を襲うが、そればかりは虹色の防護膜がヒビすら許さずに完全に遮断した。
だが、忘れてはならない。
眼前の脅威は凌いだが、その脅威をぶつけた張本人こそは今の攻防で何の痛手も負ってないということを。
爆音。
鼓膜を震わせるその音は、忌々しい神火の噴射音である――そのことに気付いた時にはもう既に、白銀の槍が虹色の防護膜に直撃していた。
「――ッ!?」
レギーナが反射的に回避動作をすべく身を引いたのに合わせ、右手側から土煙を吹き散らして迫ったクレイオスが噴射の軌道を変える。
卵型の防護膜の表面を削るように、流線的な弧を描いてレギーナの右側から左側へと一息に駆け抜けたのだ。
その駄賃として、二枚分の『障壁』が砕かれて宙を虹色に彩る。
すぐさまその背中を撃ち落とさんとレギーナから光の斬撃が振り下ろされたが、クレイオスはまるで後ろに目でもついているかのような無駄のない飛翔で容易く回避する。
直後に直角に折れ曲がって急上昇し、放たれた紫電の槍を置き去りにして上空へ。
そこから一息に、背中を爆発させるような神火の噴射で急加速。地上のレギーナめがけ、雷雲を背景に紅蓮の曳光弾となって急襲する。
即座にレギーナが撃墜すべく、無数の紫電の槍を展開。ずらりと並べられた槍衾は相変わらず必殺の威力を秘めるが、されどその数が減じているのは決して見間違いなどではない。
房という形で大量の生体魔素を保有していた彼女だが、クレイオスという強敵を前にそれらを大量消費させられてしまっている。
鬼母邪神という魔物の強みとは、魔法神に匹敵する紫電の魔法の行使と無数の軍勢を生み出せることだ。しかし後者においては、クレイオスという規格外を前にすれば無駄に魔素を浪費する結果にしかならない。
故に頼みの綱は紫電の魔法のみ。レギーナ本人の身体能力は王冠悪鬼とさほど変わらぬのもあって、如何に魔法を直撃させるかが勝負の分かれ目であった。
だというのに。
必殺を期した紫電の閃光を三度も浴びて、半神半人はなお立ち向かってくる。その有様は決して余裕など存在しないボロボロであるのだが、今にも死にそうな弱々しさとは無縁だった。
その上、山を投げるという冗談めいた暴挙の迎撃にも魔素を使わされてしまっている。
もはや、レギーナに猶予はない。
慢心、苛立ち――強者たる自負がもたらす感情は全て捨て去った。残されたのは、追い詰められた獣のような、決死の抵抗をせんとする純粋無垢な殺意だけ。
「餓ァァァ――ッ!」
叫びを上げ、槍を一斉射出。
空という空間すべてを串刺しにせんとする暴力的な弾幕へ、最高速に達した紅蓮の流星が真正面から突入する。
左右上下、時には逆噴射で真後ろに後退しながら立体的に動き回り、迫る槍の全てを回避。あっという間に弾幕を切り抜け、クレイオスはレギーナの眼前に躍り出た。
勇壮なその出で立ちからは感じられぬが、音速に達する速度での空中機動はただでさえボロボロのクレイオスに更なる負担を強いている。胸骨の幾本かは折れ、紫電の閃光を防御するために盾にした左腕の内側はぐちゃぐちゃに砕けていた。
されど、それを理由に止まることだけはありえない。槍を握る右腕さえ無事ならば、地面を駆ける足さえあるならば、空を翔ける炎さえあるならば――絶対に魔物を仕留めるまで、止まらない。
その覚悟のほどを眼前で浴びたレギーナが、目を見開いて硬直する。殺意とも異なる、己を狩ろうとする狩人の威圧が心胆を震わせていた。
恐怖という感情が魔物の胸の奥から溢れ、恐慌に陥ったままに右腕を振り回して光線を一閃。
されど、それが青年を捉えることはなく、それどころか視界から消え失せていた。
どこに――目で捜すよりも先に、耳がその居所を教えてくれる。背後で、紅蓮が空気を吹き飛ばす音。
重たい身体で無理やりに跳ね飛んだレギーナの眼前を、滑るように白銀が通り過ぎる。虹色の膜をさらに一枚砕いて流星は一息に離れていった。
命が無事であることに胸をなでおろしたレギーナだが、同時にクレイオスの狙いにも気が付いた。
己の防護を、剥がそうとしている。
既に残りは十四枚。『積層障壁』は全ての防護が失われてからでなければ、新たに生み出すことはできない。
ならば全ての防護が剥がされてからまた展開すればいい――とはならない。まず間違いなく、九枚以下となったその瞬間に半神半人の全力を以て防護ごと仕留めに来る。
それだけの力が奴にはある、とレギーナは確信を以て恐怖した。
どうする、と狡猾な知恵を高速回転させ、対応を考えんとしたその刹那のことだった。
ガァン、と。
甲高い音が平野に鳴り響く。音源は、城壁から伸びる尖塔。レギーナが疑問に思うよりも先に、その音がもたらす結果が顕現した。
黒々とした雷雲の下に――太陽の如き大火球が姿を現す。
それは戦争の始まりに放たれた、王都の祈りを凝縮した権能。多くの魔物を殺した一撃が、再度の合図を以て姿を見せたのだ。
だが、そこはレギーナが居る場所よりもずっと遠い。たとえ彼女に向けて放たれてもクレイオスを警戒しながら余裕をもって迎撃できる。むしろ炸裂する熱波は青年の邪魔すらするだろう。
馬鹿め、とほくそ笑むレギーナだが、続く光景に虹色の目を見開くことになる。
姿を現した大火球が、その形を崩して滝のように地面へと流れ落ちていく。自然ではあり得ぬ超常の向かう先は、赤髪の女が掲げる剣。
まさか、とレギーナが仰いだ空。そこにはレギーナの一撃で雷雲の中にぽっかりと開いた穴があり、そこから太陽神の輝きが騎士団長に向けて降り注いでいた。
明確な神からの支援を受けて、エーレオナの剣に大火球の全てが収束されていく。それは、先刻の魔法師部隊が放った火球の群れとは比較にならぬ熱量だ。
瞬く間に大火球という存在そのものを長剣という小さな枠に収束せしめる――否、そんな真似出来ようはずがない。収め切るのことのできない炎が暴れるように刀身から溢れ、その熱波によって右腕の籠手は溶けて肌と癒着し始めていた。
されど、そんなことは覚悟の上。真っ白にまで輝く太陽の剣を感覚の失い始めた右手で握りしめ、大きく引き絞りながら大地と平行に構えた。
そして、レギーナが対応する暇など与えず、溜めた力を開放するように太陽の剣を突き放つ。
「――破ァッ!!!」
裂帛の叫びと共に、刀身の熱量全てを解放するような熱線が発射。空気を焼き焦がし、平野に一筋の黒線を刻みながらレギーナの『積層障壁』に直撃。
まさしく太陽の熱をぶつけられた防護が甲高い悲鳴のような音を立てて砕け散る。続けて二枚、三枚と砕き、四つ目に真っ黒な焦げ跡を残してその熱量を全てを出し切った。
よもや人族に護りを破られるとは思わず、動揺するレギーナに絶望を運ぶ紅蓮の爆音がやってくる。
即座に紫電を展開しながら光の斬撃を振り向きざまに見舞った魔物だが、それら全てを地面すれすれの低空飛翔で回避されてしまった。
まさしく眼前、目と鼻の先にまで迫ったレギーナへ、クレイオスはその右手を引き絞るように後ろへ構える。残る防護の膜は十一枚。されど、この一撃で決する意気だった。
両足、背中、両肩から紅蓮を最大噴射。大きく引いた右腕からも全力で紅蓮を解き放ち、己という性能を格段に引き上げる。
腕だけでなく右手の一本一本から放出される紅蓮が、その時初めて黄金の籠手の内側を満たした。
同時、そこに秘められた機構が起動。紅蓮の逃げ場となる噴射孔が開かれ、圧縮された神火がより勢いを増す推進力となってクレイオスに力を与える。
平野を真横に飛翔する紅蓮の流星。
撃ち落とさんとする紫電の矢、両断を狙う光の斬撃の全てを掻い潜り、その軌跡が一切止められることなく。
まさしく神速の勢いで以て――鬼母邪神レギーナを、その護りごと貫いた。
*
視界一杯に虹色の破片が舞い踊る。
十一枚の『障壁』はまとめて砕かれ、その先にあった己の身体を白銀の槍は貫き、後方へと抜けていった。
一撃は右半身と心臓を纏めて消し飛ばしており、頭部は辛うじて無事だが数秒後には間違いなく息絶えるだろう。
レギーナは急速に血の失せていく頭で、『死』を実感していた。
同時に計り知れぬ憎悪が穴の開いた身体に満ち溢れる。
――おのれ、おのれおのれおのれ! 神と土くれの合いの子風情が、よくもよくもよくも!
今すぐにでも反撃し、その頭部を消し飛ばしてやりたい。だが、もうそれを成すだけの力が残っていない。今の一撃で下半身の球もほぼ全て潰されている。
どうしようもない、己ではかの半神半人は殺せない。
――ならば。
己に残された、最後の邪権能を活用してやる。
魔法神と豊穣神を襲ったその現場にはもう一柱居た。得た力で傷ついた女神どもを殺してやるはずが、そいつのせいでできなかったのだ。
だが、その折に一本の髪を飲み込むことができた。得られたのは使えぬ邪権能だったが、今この瞬間になら有効に扱える。
短く詠唱する。半神半人が気づいた。だが遅い。
残った力の全てを使い果たして、紫電の矢を憎き青年に撃ち放つ。
反応よく払った神槍によって容易く散らされたが、それこそが狙いだった。
飛散した紫電が消えることなくその場に滞空。異変に気付いたクレイオスが神火を噴射して離れるが、それよりも遥かに速い電光が彼の胸を貫いた。
されど、その身に何かの痛痒を与えることはない。そうしたダメージを度外視して得た速度と、効果故に。
何が起こった、と困惑する青年に、直後、つんざくような悲鳴が届く。
驚きのままにそちらを向き――その表情を、絶望に歪めた。
嗚呼、それが見たかった。
レギーナは邪悪な悪意が満たされたことを感じながら、崩れるように息絶える。
魔物が得ていた邪権能。運命神から得たのは、『つながりの運命を辿る』こと。
『つながり』とは、友情や親愛、愛情からくる目に見えぬ糸だ。神であってもその糸は存在し、権能というつながりで人族と糸を結んでいる。
レギーナが放ったのは、『つながり』を辿った先にある人物を灼き尽くす紫電の呪詛。それも、『最も大切に思う者』をだ。
つまり。
クレイオスを直撃した呪詛は。
彼そのものではなく、彼の大切な者――アリーシャを、灼いた。
崩れ落ちる彼女へなりふり構わず駆け馳せるクレイオスの脳裏に、ずいぶん昔のように思える神の言葉が蘇っていた。
『獣の最期の足掻きの恐ろしさを、思い出して』
嗚呼。
その恐ろしさを誰よりも知っているのは。
狩人である自分自身だったのに。
第1部・了