50 鬼母邪神決戦(1)
現在においてマルゴー山脈と呼ばれるその山脈には、セクメレル領のセルペンス山と同じく、一体の魔物が封じられていた。
『レギーナ』と称されたその魔物は、殺せず封じるしかないほどの強力さを誇ったが、生まれた当初は非力であり、無能であり、今の地に跋扈する小鬼よりもなお弱い有象無象に過ぎなかったという。
されど、他のどの魔物よりも優れた点がひとつあった。
誰よりも狡猾で、そして計算高かったのである。
己が弱く、無名の神族にも勝てないと知るや否や、長き時に亘って潜伏。神々と魔物の軍勢の戦いが終わりに近づくのを、ひたすらに待ち続けたのだ。
そして、多くの魔物が殺され、或いは封じられた頃。
封印の魔法を多用し疲れ果てた魔法神と、彼女の傷を癒そうとしていた豊穣神の隙を突き、両名のふくらはぎを食いちぎったのである。
その力を即座に取り込み、得たのは『魔法』と『多産』の邪権能。
二柱の女神が驚きから立ち直った時には既に遅く、レギーナは邪神と呼ぶべき強大な力を得ていた。
その場に居合わせた多くの神族の力を奪い、増大した力を以て己の『子』を生産。瞬く間に軍勢を生み出し、その母として猛威を振るったのだ。
神々と魔物の戦争が千年以上も長期化したのはレギーナの所業に依るところが大きい。戦神が他の魔物にかかりきりであったのも、彼女の悪運の強さを示していた。
最終的には雷神によって軍勢を壊滅させられた上、致命的な打撃を受けて大地に倒れた。
恐ろしい軍勢の母として君臨したその有様から、神々からは『鬼母邪神レギーナ』として畏れられ、厳重に封じられたのだった。ともすれば、邪龍アッロガーンス以上の警戒を以て。
故に、その封印がこの時代に解けるはずもなく、彼女の意識が戻るはずもなかった。
だが、何かが起きた。今の時代に住まう人族が知る由もない大事件により、その意識は覚醒したのだ。
それでも長年の封印で弱ったレギーナが復活することは叶わない――はずだった。
その狡猾な知恵で以てして、脱出の手段を練り上げる。
まず、残された僅かな力を振り絞って小鬼を産み出した。
そいつらによって得た糧で悪鬼、王冠悪鬼を産んで、さらに力を溜めこんだ。
やがてかつての自分に比肩する力を溜めこんだが、それでも封印から抜け出せぬことを知る。
そこでレギーナがとった手段は――自分自身を産むことだった。
自身が産んだ存在たちが封印をすり抜けたことはわかっていた。強力な王冠悪鬼でさえ、魔法によって簡単にすり抜けたのだから力の強弱は関係ない。
だが、今の己の全てを懸けて臨まねばならない。文字通り命全てを注ぎ込んで自分自身を産むのだから。
分の悪い賭けであったが、このまま地下で神聖銀の鎖に囚われ続けるよりも遥かに上等な策だ。
そんな勝負に、レギーナは己のありったけを賭けて――勝った。
彼女は封印を抜けだしたどころか全盛期を取り戻し、今度こそ『神殺し』を成すためにより多くの餌を求めたのである。
以前の自分が産んだ魔物。それが殺した人族。それら全てを喰らうことのできる、人族の王都との『戦争ごっこ』は最高の遊びだったことだろう。
思いの外、魔物の軍勢が弱く、人族が多く生き残ってしまったが大した問題ではない。神族に比べれば木っ端もいいところだ。
すぐにも全滅させ、己の軍勢の版図の一つにできる――はずだった。
目の間に、輝く神火の化身が現れるまでは。
*
大きく息を吸って、吐く。
その一動作でクレイオスは、溢れる力の全てを掌握した。
神火を両足、背中から噴出し、斜め上空に吹き飛ぶようにして飛び出す。
その一動作でクレイオスは、己の速度に慣れた。
クレイオスを目で追えずに固まる女の魔物の背後に回り、その背に神槍を叩きつける。
その一動作でクレイオスは、己の怪力に慣れた。
大地に根を張るように伸ばしていた骨の管を全て引きちぎり、魔物――レギーナが平野の中央まで殴り飛ばされる。
二度、三度と派手にバウンドしながら転がり、その終点でどうにか身体の制御を取り戻したレギーナは房のような下半身から着地。
無数の骨の節足を大地に突き立てて慣性を殺し切り、レギーナは面を上げて己を打擲した愚か者を射殺さんばかりに睨みつける。
対し、己の性能確認を改めて済ませたクレイオスもまた、魔物を観察し、その様子を測っていた。
背骨を打ち砕くつもりで放った一撃だったが、手応えは不十分。
ただの打撃では下半身に衝撃を吸収され、想定以下の損傷しか与えられない。即座に力の方向性を変えたことで殴り飛ばせはしたが、殺すなら頭部を貫くような攻撃でなければなるまい。
余裕を持たせるようなことは、これで終わりだ。
最速最大威力の攻勢で以てして――狩る。
狩人の気配が、確殺の決意を帯びる。
それを察したレギーナもまた同様に憎悪と殺意を滾らせ、その左手を鋭く打ち払った。
刹那、大地と平行に放たれる光の一閃。上空から俯瞰してみたならば、それは平野の半分が白く塗りつぶされるような超広範囲の線攻撃だった。
それを即座に紅蓮を噴射しながら空中へと回避したクレイオスを、追いすがるようにレギーナが右手を突き出す。
その五指全てに光が灯り、直後に指一本につき三本の――計十五に及ぶ光線が奇怪な軌道を描いて撃ち放たれた。
行く先を理解させぬ、幾度にも及ぶ鋭角的な屈折を繰り返して十五本の閃光がクレイオスに迫る。
対し、従来において既に森人族の如き目の良さを持っていたクレイオスは、神火の発現によって飛躍的に向上した眼力を以て、己を貫く軌道の光線を完全に見切った。
右、左、下へと紅蓮の噴出を用い、鳥でもできないような緩急著しい方向転換を行って十五の光の矢を見事に避け切る。
同時に肉薄するという主目的も果たし、既にレギーナは目と鼻の先まで迫っていた。
そのまま顔面を貫くどころか消し飛ばす意気を以て、全力の刺突を放つ。
まるで反応出来ていないような女の顔を一息に貫き――されど、そこに手応えはなかった。
思考に空白が生じる。
確かに神槍は魔物を捉えていた。だが、まるでこの空を切ったような感触はなんだ?
驚くクレイオスの目の前で、貫いたレギーナの身体が溶けるように消えていく。
同時に、一撃を空ぶった己の真横で両手を構える本物の魔物が姿を現した。
まやかし、幻影――クレイオスの理解が及ぶのと、レギーナの両手から光の砲撃が放たれたのは同時だった。
「ぐ――――!?」
苦悶の声もままならぬ、全身を飲み込む光の奔流。咄嗟に全身から紅蓮の火を噴き放つことで身を守れたのは、僥倖以外の何物でもなかった。
光に呑まれ、遥か天空へと一瞬で吹き飛ばされる。体の芯に鉛を差し込まれたような重怠さがダメージとして確かに残っていた。さらに全身を蝕む火傷に呻きを漏らしつつ、炎を纏うことで治癒を開始する。
同時に背中から神火を噴き、追撃に放たれた光の斬撃を急降下で辛くも回避した。
レギーナもまた、クレイオスを生半の敵ではないと理解していた。故に、神々を翻弄し、畏れさせた力をこの場に解放する。
ぼこり、と。
レギーナの下半身の房、そのうちのいくつかの球の中で泡が生じる。
同時にぶつりと管から千切れ落ち、大地に転がって――内側から弾けた。
紫色の液体をまき散らし、球から姿を現したのは三ベルムルはあろう巨躯。蒼き肌、王冠の如き三本の角、悪逆極まる凶相。
そう、王冠悪鬼だ。
それが七体、産まれ出でた。
王都の騎士団からすれば、まさに悪夢のような光景。騎士団長と副団長が苦労して一体討伐したことを、まるで馬鹿にするかのようにわんさかと産まれてきたのだから。
それら王冠悪鬼は、産まれたばかりであろうになんの遅滞もなく、意思を統一してその口を開く。
『シィ――ギァッ』
七重奏の詠唱によって生じる、恐ろしく莫大な数の空気の矢。
眼には見えねど、青年と魔物たちの間を遮る壁のように生まれた圧力がクレイオスの背筋を凍らせる。
そして、当然であるが、真の敵は彼らではない。
「『リィ』」
それらの首魁、邪権能の根源たるレギーナが詠唱をしたならば――クレイオスの喉を容易く干上がらせる。
鬼母邪神の眼前、その空間に生じたのは空気を炸裂させる、紫電。収束して形を成し、明確な槍と化してその穂先を半神半人に差し向けた。
両手の指では数え切れぬ、二十七という数で。
「――ッッッ!」
クレイオスが神火を全力で噴き出して回避行動に移るのと、魔法の弾幕が放たれるのはほぼ同時だった。
雷雲を背に、紅蓮が流星のように飛翔する。
その後塵を次々と空気の矢が撃ち貫き、それよりも遥かに素早く鋭い紫電の槍が、流星を射抜くべく天を焦がして駆け巡る。
空中を支配するようにばらまかれる矢。その位置をせわしない眼球運動で瞬く間に把握し、紅蓮の噴射を以て掻い潜る。
それだけなら容易いが、問題はその動きを読んで狙い撃つように放たれる紫電の槍。
矢を避け、払い、掻い潜り、その果てに待ち受けるように眼前に在った槍に何度も心臓を掴まれる思いをしながら急降下で回避する。
その際に目に入った地上では、更なる空気の矢が生みだされ、紫電の槍が次々と補充されていた。
埒が明かない。否、それどころかこのままでは撃墜される。
狩人の勘が最大級のアラートを発し、即座にクレイオスは方針を転換。
肩から紅蓮を噴射し、稲妻のように大地に着弾して即座に神火を纏って疾駆する。
常人の動体視力では通り過ぎる炎しか見てとれぬ速度で以て、一匹の王冠悪鬼に急接近。
対応させる暇も与えず、右腕から紅蓮を放ちながら豪快な一撃を顔面に放つ。
先刻の戦いではかすり傷も与えられなかった神槍は――草をむしるような容易さでその首から上を爆散せしめた。
無論、直前に姿を現した『障壁』ごと。
パラパラと砕け散る虹色の破片を置いてけぼりにして、更なる跳躍と一閃でもう一匹を瞬殺。
神火によって極まった筋力と紅蓮の噴出の勢いを用いれば、王冠悪鬼の防御膜など羊皮紙を破くよりも容易く貫ける。
続く三匹目は反応が間に合ったのか、火球を撃ち放ってくるもその程度では止まらない。
薙ぎ払った神槍によって蝋燭の火のように火球が消し飛び、遅滞なき連撃で胴体を両断する。
そこで進撃を阻むように、紫電の槍が鋭角的な軌道を描いて強襲。咄嗟に跳びあがったクレイオスだが、それを見越したように槍もまた跳ね上がり、青年の右肩を貫いて虚空に溶ける。
「――ッ」
苦悶を押し殺し、仕留めにかかるように迫る二本の紫電を真横に吹き飛ぶような回避運動でやり過ごす。
傷口に炎を纏わせて止血しつつ、大地を粉砕する踏み込みで飛び出して王冠悪鬼の一匹を通り抜けざまに両断。
残る三匹はレギーナを挟んで向こう側に居るために、クレイオスは殲滅よりも首魁の討伐を選択する。
そんな彼の接近を嫌うように、鬼母邪神は後退しながら二十四の槍を波状に撃ち放った。更に己の両手を手繰り、三十の光の矢を織り交ぜてクレイオスを射抜かんとする。
その後ろから王冠悪鬼たちの空気の矢が弓なりに放たれ、空中への退避を許さない包囲網を生み出していた。
雨のように降り注ぐ不可視の矢を正確に避け、或いは紅蓮の噴射で散らしながらクレイオスは大地を疾駆。
先んじて迫る複雑怪奇な軌道の光矢を跳ね飛び、滑り込み、打ち払って回避する。そこへ意図的に遅れてやってきた紫電を掠めるようなギリギリの動きで、軌道を変えさせずに紙一重に避け切った。
それでもまだまだ迫る、空気の矢、光の矢、紫電の槍。
それらを、舞い踊るような流麗さで、或いは噴射を用いた荒々しい強引さで、或いは手足に被弾しても致命的でなければ頓着しない頑強さで以て突破していく。
全ての弾幕を乗り切ったその時にはもう血みどろの有様だったが、その動きが鈍ることだけは決してない。
眼前に在るレギーナへ向けて最速の跳躍。背中から紅蓮を噴出し、爆音と共に槍を抱え込むような形で体当たりを仕掛ける。
一条の流星となりて鬼母邪神を――その幻影を貫いた。
されどそれは織り込み済み。新たに姿を現したレギーナを視界の端で捉えつつ、幻影の向こうで待ち構えていた王冠悪鬼を流星の勢いのままに貫く。
引き抜く動作すら惜しく、そのまま両足からも神火を噴いて脚力と勢いを向上。地面を爆砕しながら流星の軌道を捻じ曲げ、更に後方に居た二匹の王冠悪鬼を続けて破砕して仕留めた。
「『リィ』」
そして耳に入る詠唱。出現する大量の紫電の裏で、クレイオスはレギーナの唇がさらに動くのを知覚した。
「『リィ、リィ、リィリィリィリィ――!』」
まるで子供の駄々のように繰り返された一音は、クレイオスからしてみれば死が口ずさむ歌そのもの。
背筋に駆け落ちる悪寒と同時に、雷雲の下を紫電の壁が埋め尽くす。
数えることもできぬ無数の紫電の槍を生み出した魔物は、その虹色の瞳を爛々と輝かせ――最期を与える言葉を発する。
「『リィ』」
刹那、雨のように放たれる紫電。
同時に神火を全開にしてクレイオスが疾走し、第一波を潜り抜けるように回避する。
そこへ息つく暇もなく己目掛けてやってくる第二波の槍衾。紅蓮を纏った右腕で神槍を握りしめ、千切れんばかりの薙ぎ払いで横一閃を放つ。
極まった膂力は大気を押しのけるどころか切り裂き、生じた真空波で以て視界一杯に広がる紫電の壁を切り裂いた。
まさしく人智を超えた偉業であるが、それでもまだレギーナに辿り着くには足りぬ。紫電の雨はまだ来るぞ。
紅蓮を足から放射しながら飛翔した瞬間、その足元を光線が切り裂いた。
レギーナ本人からも放たれる光の斬撃を加勢とし、紫電の雨は一層苛烈となる。
縦横無尽の長すぎる斬撃を、それ以上の空中機動で回避しながら紫電を打ち落とし、同時に己も地面へ着弾。
自身を追いすがる槍を勢いのまま地面に激突させつつ、それでもなお追尾する物を強引に叩き落す。
ここに来て、クレイオスは己の機動力がどんどん洗練されていくのを感じていた。
無限にも思える弾幕を相手にし続けた結果、空中における戦いの経験値を今この瞬間にも大量に獲得できたのだ。
故にクレイオスは、レギーナとの戦い方を把握した。
刹那、紅蓮が速度を増して疾駆する。
先ほど以上の速さにレギーナが目を剥き、それでも対応せんと両手と紫電を手繰って攻勢を強めた。
されど、本気を出したクレイオスを捉えることは叶わない。空中戦に完全に慣れたクレイオスに追いつけない。
右へ左へ紫電の槍の群れを振り回し、放たれる光の斬撃を完全に置いてけぼりにして、あっという間に鬼母邪神の眼前に躍り出た。
音速の突進から放たれる、光速に及びかねない恐るべき刺突。
それはレギーナの胸を貫き、されど幻影の手応えでクレイオスを嘲弄する。
だが、これも三度目。いい加減、同じ手管は通用せぬ。
即座に全身を捻転させつつ、その速度を増すように紅蓮を噴射。亜音の速度で身体の上下を入れ替えながら方向転換し、真横にズレた位置に居た本物のレギーナに向けて神槍を薙ぎ払った。
まさか己の位置を正確に把握しているとは思いもしなかった魔物が、驚きに目を見開く。
二度目の突撃で、一度目と同じような位置取りに在ったのは確認済みだ。ならば三度目に槍を外すことはあり得ない。
突撃の威力を殺さぬようにしつつ、回転しながら方向を切り替える技術で以て生まれた遠心力を加えた一撃。
まさしく最強の威力を有する槍は寸分の狂いなくレギーナの顔面に迫り――
――その瞬間、女の顔が嗤った。
刹那、破砕音。
その音が『九度』鳴り響き、虹色の破片が舞い踊る。
そして振るわれた神槍は――魔物を切り裂くどころか、その随分手前で停止せしめられていた。
槍を阻んだのは、虹色の防御膜。
されど、王冠悪鬼の『障壁』程度なら障害にもならないはずなのに。
混乱するクレイオスが知る由もないが、『障壁』は魔法の一つであり、強度は使い手に依存する。
レギーナほどの魔物が使えばその硬度は恐ろしいものとなり、王冠悪鬼と同じようにはいかない。
まして、それが層のように重ねられていれば。
『積層障壁』。
二十六枚の『障壁』を重ねて防護としたソレは、クレイオスの全力を以てしても貫けぬ、難攻不落の城壁であったのだ。
それほどの防護を九枚も貫いたクレイオスは讃えられるべきであるが、さりとて求めた勝利は手に入らない。
まして、初撃がちゃんと生身に直撃していたことも青年にとって悪い判断材料だった。知らぬ間に展開された防御膜に、思考が停止する。
そうして『積層障壁』によって動きを止められた青年へと、レギーナは待ちわびていたかのようにその両手を差し向ける。
バチィッ、と爆ぜる空気。
その両手に収められたるは紫電。封印される直前に雷神の髪を食いちぎったことで得た邪権能と魔法の合わせ技。
なれど、そこに込められた魔素は槍の形を取らせた時とは比較にもならぬ。
集めていた生体魔素の多くを費やし、下半身の球がいくつも萎むのを承知の上で放つ一撃だった。
「『リィーラ』」
その瞬間、その平野からありとあらゆる音が消失し――紫色の閃光が、全ての影を飲み干して炸裂する。
全ては、一人の半神半人を殺すべく。
回避を絶対に許さぬ光速の轟雷が、一人の青年を飲み込む。
レギーナから放たれしその巨大な紫色の閃光は平野を縦に切り裂いて、マルゴー山脈にまで到達。
通り過ぎた大地に谷のような裂傷を刻み、果ては山脈に深い穴を穿ったのだった。




