49 王都防衛戦線(4)
驚きと憎しみに満ちた悪鬼の首が、天高く空を舞う。その形相が変化することはなく、べしゃりと鉛色の血をまき散らして大地に落ち、潰れた。
時を同じくして、どう、と蒼い巨体が力を失って倒れ伏す。それが二度と動くことはなく、紛れもなく、暴虐の限りを尽くさんとしていた王冠悪鬼は騎士団長の手によって死んでいた。
油断なく太陽の剣を構えていたエーレオナはそれを確信し、大きく息を吐く。それから鋭く右手を振り上げ、戦場の雑音をかき消す勢いで声を張り上げた。
「敵将、討ち果たしたり――ッ!」
銅鑼のような迫力はないが、されど戦いの場にある全ての者の耳にその言葉は届いた。
今しがた魔物をなぎ倒した者、倒れた味方を助け起こす者、振り下ろされた武器を辛うじて止めた者。
彼ら全員が彼女の言葉を耳にし、理解し――喜びに吠えた。歓声を上げ、その総身に更なる活力を滾らせ、より勢いを増して魔物どもへと向かっていく。
魔物たちも、目の前の敵の勢いに押され、あるいは蒼き悪鬼の死骸を目にし、混乱したように動きが悪くなる。それは波のように伝播し、果ては魔物の波濤の全てが逃げ腰になっていた。
指揮官である王冠悪鬼は死んだ。ならば、あとは頭脳を失った烏合の衆を駆逐するだけだ。
魔物の群れを仕留める最後の号令を放つべく、騎士団長は大きく息を吸い込み――
「――――っ!?」
――続く言葉を発することなく、引きつったように息を呑んだ。
それは、エーレオナだけではない。
シュテウスも、クレイオスも、戦う騎士や傭兵たちも。それどころか、相対する魔物たちでさえ。
戦いという概念を忘れたかのように動きを止め、棒立ちになり、誰もが首を巡らせて一方向を見据える。
戦場と呼ぶには静かすぎる無音の平野。
その西に、それは――現れた。
一部だけを切り取ってみるならば、それは女だった。
顔と裸体を隠すように足元まで長く伸びる艶のある銀髪。大きく膨らんでまろみを帯びた乳房は肌が灰色ということを差し引いても淫靡さを纏い、男という生き物を無遠慮に魅了することだろう。
だが、そいつを見て鼻の下を伸ばすような者はこの世に誰一人として存在しない。
なにせ、その下腹部から下は――化け物のソレであるのだから。
下半身を見て第一に想起したのは、果実のブドウだ。
下腹部から生え伸びる骨から、後ろへ向かって枝分かれして伸びる無数の突起。そこに毒々しい紫色の大振りの球が生えている。突起の数だけそれがあるのだから、下半身のほとんどは紫の球で覆われていた。
それらの隙間を縫うようにして、節くれだった骨が大量に大地に突き立ち、一方で百足を思い起こすはずだ。
総じて見るならば、ブドウのような房を下半身に持つ女だった。見る者の多くは、異形の昆虫のように感じたことだろう。
ただし、その大きさは常軌を逸する。
他国との国境を担うマルゴー山脈。その雄大な山を背にしているからこそわかる、そいつの巨大さ。
悪鬼が三ベルムルであったのに対し、それよりも二倍以上はあろう七ベルムル半の体高。
下腹部からその後ろへと伸びる一本の房のような下半身は、五ベルムル以上はあるはずだ。
上半身が一般的な女の座高、一ベルムルかそれにも満たない大きさなだけに、余計歪さが際立つ。
そんな、これまでに現れた全ての魔物と一線を画す怪物の登場。
誰もがその異様な姿に驚いて黙り込んだ――わけではない。
むしろ、今ようやく、怪物の見てくれに気付いたほどだ。
戦場に静寂を呼び込んだのは――たった一つの威圧感。
喉が干上がり、息が止まり、全身の筋肉という筋肉が萎縮し、今まさに勝利へと向かおうとしていた心が萎んでいく。
それほどの威圧感。
平野の西から放たれたそれは紛れもなく、その女怪物によるものであり、そのことにようやく理解が追いついたのだった。
魔物すら注視するその存在が、ゆっくりと面を上げる。
銀髪がざらりと流れ、現れたのはシミひとつない美しい女の顔。
ただしその瞳は、虹色に輝いていた。
「――ぁ」
それを見た瞬間、クレイオスの中で何かがカチリと音を立ててハマった。
抱え込んでいた全ての違和感が払拭され、一つの結論を導き出す。
小鬼、悪鬼、王冠悪鬼。封印から復活したのはこのいずれでもない。
あの、あの怪物こそが、封印されていた真の魔物なのだ。
だが。
その理解は。
致命的に、遅かった。
刹那、閃光。
直後に王都を守る城壁が斜めに切り裂かれ、その振動と遅れて巻き起こった爆風がその上に居た弓兵や魔法師を吹き飛ばす。
咄嗟に伏せることのできていたクレイオスは、辛うじて何が起きたのかをその翡翠の目で捉えていた。
西に立つ巨大な魔物。その右手が無造作に袈裟に振り上げられ、その軌道を追うように光線が放たれたのだ。
無論、魔物と城壁の間にあった全ての存在は無傷では済まされない。
光線の通過した地面は深く抉れ、その上にあった存在全てが消し飛んだ。騎士も、傭兵も、魔物さえも。
城壁が真っ二つになっていないのは、ひとえに魔法師の手によって頑丈に作られていたからだ。
クレイオスもまた、伏せていなければその頭部を消し飛ばされる場所に居た。全身を巻き込まない位置であったのは幸運だったに過ぎない。
何気ない仕草だったというのに、これほどの被害。その事実に、エーレオナはようやく我を取り戻す。
されどどう対応すればいいのかわからず、それでも声を張り上げる。
「っ、総員、撤退! 下がりなさいッ!」
騎士団長の鋭い声が呆然とする戦場に響き渡り、停止していた全てが慌てて動き出す。
騎士や傭兵がどよめきながら後退し、それから逃げるようにして魔物どもも山の方へと散っていこうとしていた。
そんな状況でさらに、平野の端に立つ女怪物が行動を見せる。細い左手をうっそりと持ち上げ、戦場へと差し向けた。
その動きを見ていたクレイオスらに緊張が走ったその直後、悲鳴が巻き起こる。
――魔物の群れから。
骨のような白い管が無数に大地を突き破り、魔物どもの足元から強襲。小鬼、悪鬼を問わず全身を絡めとったかと思えば、その後頭部に先端を突き刺したのだ。
瞬く間にその体が萎み、あっという間に骨と皮だけになって乱雑に打ち捨てられる。結果、全ての魔物が一瞬にして息絶えたのだ。
それは生きていた魔物だけではなく、戦場に転がる全ての死体――魔物だけでなく人族の死体も例外ではない――にも起こっている異変だった。
クレイオスの目の前でも、王冠悪鬼の骸に骨の管が突き立つ。瞬く間に乾いていく死骸に強い嫌悪と寒気を覚え、反射的に槍を薙ぎ払った。
想像より脆いそれが容易く砕け、吸い上げていたのであろう液体が大地にぶちまけられる。
肉や血をかきまぜたそれは、紫色をしていた。
まさかと思いクレイオスが怪物の方を見れば、下半身の先端、そこに新たな球が次々に生まれていた。
ゾッとする悪寒と共に、理解する。
あの魔物が今更出てきたのは、待っていたのだ。死骸がこの平野に溢れる、終戦の際を。
生きていては抵抗され、騎士たちは容易く管を破壊するだろう。
ならば――今殺せばいいだけのこと。
そう言わんばかりに、怪物が右手を再び動かそうとするのをクレイオスは見逃さなかった。
「まず――」
「――はぁぁぁッッッ!」
青年が警告を叫ぶよりも先に、勢いよく飛び出す影。
騎士団長エーレオナが、輝きを失わぬ剣を振りかざして誰よりも前へと進出する。
そんな彼女を巻き込む軌道で薙ぎ払われる、光線。タイミングなど有ってないような光の速度に対し、それでもエーレオナは完璧に対応して見せた。
太陽の剣を下から上へ勢いよく跳ね上げる。その刀身に、彼女の上半身を飲み込んで余りある大きさの光線が激突し、甲高い音を響かせて屈折。騎士団長の頭上を掠め、天空に光が吸い込まれていく。
結果として、王都の上空を光の斬撃が空ぶるだけに終わった。
まさに偉業といっていい難事を成し遂げたエーレオナ。
恐怖かあるいは別の要因で肩を荒げる彼女を、今初めて認識したように怪物が見据えた。虹色の瞳の焦点が自分に結ばれたと理解し、エーレオナの背に氷柱を押し当てられたような悪寒が走る。
それでも屈することなく勇猛に剣を構える彼女を、怪物が観察するように沈黙すること数瞬。
怪物の女の顔の、唇の端がゆっくりと持ち上がる。それが『笑み』であると理解したと同時に、異変は起きた。
怪物が背にする、マルゴー山脈。
その向こうから、黒い影が伸びてくる。否、違う。あれは――雷雲だ。
全身を寒気が蹂躙する。あれは雷神の乗る雲ではない、とその場の全ての人族が即座に理解した。
邪悪極まる紫電を発するあれは、間違いなく――あの怪物が呼びだしたものだ。
あっという間に広がった雷雲は王都の上空を覆い尽くし、人々に味方するように輝いていた太陽を向こう側に遮断する。
一転して暗くなった大地で、唯一の輝きだった太陽の剣が翳りを見せた。
「しまっ――」
「騎士団長ッ!」
手元の剣にエーレオナが意識を向けた刹那、シュテウスの怒号が響き渡る。
その警告に彼女が顔を上げた時には既に、光の斬撃が目の前まで迫っていた。剣を振り上げるよりも先に死が訪れるであろうその直前、彼女を押しのける巨躯。
目を見開き、呆然と見るエーレオナの目の前で――副団長シュテウスは、光に呑まれた。
またしても城壁が深く切り裂かれるのを背後に感じながら、エーレオナは視線を地面に落とす。
そこには、見慣れた右腕が落ちていた。
肘から先しかあらねど、見間違えるはずもない。優秀で、辛辣で、されど誰よりも頼もしかった男の、唯一残った身体。
一瞬にして頭に血が上り、感情が沸騰するのをエーレオナは自覚していた。自覚した上で、止まらなかった。
「――こ、のォォォッッッ!!!」
叫びをあげ、突き飛ばされるように駆け出す。太陽神の輝きがない故に、既にその身に橙色の帯はない。あくまで鍛えられた女性程度の走力で、それでも巨大な魔物に吶喊する。
そんな彼女に、魔物は左手を差し向けた。
直後、閃く光。
輝きが弱々しくなった剣を振り上げ、光線を弾き、続けて放たれた二本目も危ういところで叩き落とす。
そのまま突き進まんとしたエーレオナを、今度は大地から突き出した無数の管がせき止めた。
手足に絡まるそれを一閃で薙ぎ払うも、それは悪手。彼女が顔を上げた次の瞬間、管ごと吹き飛ばす巨大な閃光が撃ち放たれていた。
エーレオナが咄嗟にできたのは、太陽の剣を盾に構えることだけ。
その刀身の真ん中に光線がぶちあたり、非力となった騎士団長は踏ん張ることもできずに光に押し流される。
太陽の剣が最後の盾となって彼女を守るも、それだけ。大地から引き剥がされたエーレオナは、光線と共に城壁に着弾した。
あまりの勢いに死んだのか、失神したのか。定かではないが、その手から長剣が零れ落ち、太陽の輝きも同時に消え失せる。
瞬く間に騎士団のトップが瓦解したのを前に、ついに人族の側から悲鳴が漏れる。
「そんな、騎士団長が――」
「終わりだ、あんな化け物――」
「いやだ、そんな、死にたくない――」
それは、まさしく先ほど見た光景の焼き増しの様だった。
王冠悪鬼を失った魔物の群れ。騎士団長を失った人族。何ら差はない、まるで同じ醜態じゃないか。
それをせせら嗤うように、怪物は低く喉を鳴らす。
――所詮は神の被造物。ちょっと権能を与えられた程度で我が前に立つとは、愚かなことよ。
心底から嘲笑し、そのまま進撃せんと無数の脚を蠢かせ――驚きのままに、動きを止めた。
視線の先、予想だにしないこの大地の上で。
神威が、迸る。
*
光の中に消えていく、その大きな背を見ていた。
封印されし魔物を打倒し、親が一柱の神であると教えられ、神槍を預けられ。
このノードゥスという国を襲う魔物が居ることを知り、ならばその魔物と戦って人々を守ることが今の最大の使命であると、そう思っていた。
そのための力があり、武器があり、そうするべき特別な出自を持っていた。
だというのに。
何もできず、目の前で消え去る命を見ているしかなかった。
奥歯の砕ける音がした。
槍を握る籠手の中で、固く力を込めた手が裂ける。
それでも足りない。今必要なのはそんな程度の力じゃない。
ままならない己に呆れるどころか怒りが増す。最初から『神の憤怒』を使いこなせていればこんなことにはならなかったのに。
己への激しい怒りが腹の底で煮えたぎり、粘度を増して渦を巻く。
こんなザマであっていいはずがない。
ふざけるな。
ふざけるな!
ふざけるなッッッ!
怒りを燃料にして――それ以上の怒りが、燃え上がった。
刹那。
身体の内側から、奔流のように力が溢れる。爪先から頭の天辺まで、血管という血管すべてに充溢していく感覚。
その感覚は既知のもので、今、欲してやまないものだった。
同時に、ストン、と落ちるように理解する。
己の力は、『燃え上がる炎』だ。それを呼び起こすには燃料を注ぐだけでは足りない。
火を熾す――着火するきっかけが必要だった。
邪龍との戦いでは燃料を火に浴びせる経験しかできず、発火させる感覚を知らなかったのだ。
なんて簡単な道理か。
己の馬鹿さ加減にあきれ果てることもできない。
だが、それでも。
必要な力はいまここに発現した。その方法も二度と忘れまい。
ならばあとは――打倒するだけだ。