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第三十五章『城崎』(1936年 8月)

夏休み終盤。

 池田。

雅俗山荘。

 応接間には重い扇風機の羽音と、蒸し風呂のような熱気が満ちていた。

 卓上の冷やし硝子器に浮いた氷が、カチリと音を立てて溶けていく。

 小林一三が上質の手漉き和紙から取り出したのは、重厚な金箔押しが眩しい三枚の『特別搭乗券』だった。

「時ちゃん。

小学校最後の夏休みに、家族で空飛んで温泉に行かへんか」

 十二歳になった時子は、真っ赤な頬をさらに上気させ、身を乗り出した。

「ほんま!? これに乗れるん!?」

「ああ。

でもな、ただの旅行やない。

時ちゃんらには大客として、うちの接客に手落ちがないか確かめてもらう」

 小林は細い目をさらに細め、冷やし茶のグラスに指を滑らせた。卓上に広げられた路線図の脇に、時刻表の試案が添えられている。

『大阪発 05:00 / 城崎着 06:10』

 異常な早朝便だ。

 図面を食い入るように見つめていた時子が、ふっと息をのんだ。濃い瞳が、余白の『貨物:朝日新聞社・豊岡鞄組合』の文字を射抜く。

「……おっちゃん。

こんな朝早うに飛ばすん、客が乗らんでも新聞と鞄で元取るためやろ」

 一三は眼鏡の輪郭を指先でなぞり、ニヤリと薄い唇を歪めた。

「半分やな、時ちゃん」

「半分……?」

「損を消すだけやない。

新聞社と鞄屋の足を、阪急の翼に縛り付けて逃げられへんようにしてるんや。

早刷りを真っ先に届けられたら、他紙は束になって壊滅する。

豊岡の革鞄も、うちの航空便に乗らんければ市場から遅れる。

商売の固定費はな、他人の死活問題と引き換えに回収するもんやで」

 時子は息を詰まらせた。

見透かしたつもりの自分の浅知恵が、巨大な商人の足元で転がされたことを知る。

 傍らで冷やし茶を飲んでいた石原莞爾は、数珠を握り潰すように拳に力を込め、濁りのない眼光で娘を凝視した。

「小林さん……この子はなぁ、兵隊の背嚢(はいのう)の数を数える前に、中の米粒の形を揃えたがる。

俺の作った毒を、そのまんま飲んでやがるんだ」

「莞爾さん……」

 テイ子はおずおずと手を合わせ、穏やかに微笑んだ。

「諸天の加護でございますねぇ。東のお仕事でお疲れの体を、お湯で休ませていただきましょうねぇ」

 数日後。

 阪急天保山大回廊。

 水面に佇む四発大型飛行艇「白鶴一型」。

 木目調のサロンに入ると、阪急百貨店から抜粋された女工員たちが、緊張した面持ちで深々と頭を下げた。

白粉と上質な石鹸の甘い匂いが漂う。

 離水のスロットルが押し込まれた。

爆音とともに巨体が激しい水煙を上げ、兵庫の空へ舞い上がる。

 テイ子は膝の上で念珠を固く握りしめ、目頭を熱くしていた。

「莞爾さん……

お空から温泉だなんて、夢のようでございますねぇ……」

「ああ。東の連中が精神主義にしがみついて自滅している横で、あそこに座っている強欲な商人が描いた、現実の夢だ」

 一方、時子は客室奥の狭い貨物室に佇んでいた。

 積み込まれた大量の新聞の束と、豊岡の高級革鞄。

インクと鞣し革の生臭い匂いが充満している。

 時子は小さな帳面を取り出し、鉛筆の芯を押しつけるように書き留めた。

『05:00 大阪→但馬』

『新聞+鞄=他人の足の鎖』

 紙が破れんばかりの猛烈な筆圧で、時子は歪みのない四角い枠を何度も、何度も塗りつぶすように書き重ねた。

揃っていないこと、枠からはみ出すことへの、病的な恐怖が手を動かしていた。

 数刻後。

 白鶴は急峻な山々に囲まれた円山川の汽水域へ差し掛かった。

操縦士が山颪を逃がし、水深の浅い水面へ着水する。

専用の木製桟橋を渡ると、濡れることなく開業したばかりの「阪急城崎ホテル」のエントランスへと直結していた。

 その夜の夕食。

 卓上には透き通る白イカの刺身と、天然岩ガキが並んでいた。

 時子は海の幸を平らげると、自分用に運ばせた「黒蜜トコロテン」の鉢を引き寄せた。

 黒蜜をたっぷりとかけ、喉へ流し込む。

「……でも、おっちゃん。

地元の仲居雇って、外湯の金払って、そうやって温泉街の人らにも甘い出汁吸わせて……

トコロテンの突き箱みたいに、綺麗に四角く揃えて逃げられへんようにしてるんやろ」

 一三は猪口を静かに置き、冷ややかに時子を見つめた。

「甘いな、時ちゃん。

突き出されたトコロテンは、押し出されたら終わりやない。

うちがやってるのは、押し出された奴らが自分の足で『またこの箱に入れてくれ』と戻ってくる仕組み作りや」

 時子の頬が硬直する。

「外に出てみ?

出汁のない世界で、干からびて死ぬだけや。

逃げられへんのとちゃう。

ここしか居場所がないようにしてあげてるんや」

 座敷から音が消えた。畳を叩く波の音だけが響く。

 時子は箸でつまんだトコロテンの角柱を見つめたまま、言葉を失った。

見抜いたつもりの「箱」は、時子の想像を遥かに超えた毒で満たされていた。

自分の小ささに、喉が詰まる。

 石原は数珠を繰る手を止め、黒蜜で口元を汚した娘を静かに見つめていた。

「……時子。

お前がどんなに背伸びしても、まだその箱のなかだの」

夜。

阪急城崎ホテルの奥深くに作られた、檜造りの専用浴場。

 天井の隙間から但馬の夜風が吹き抜け、湯気と重い硫黄の匂いを静かにさらっていく。

「ざざん、ざざん」と、楽々(ささうら)の暗い水面が揺れる音が、外の闇から幽かに響いていた。

 十帖の湯船の中で、時子は首まで湯に浸かり、ぷはぁと息を吐いた。

濡れて黒々と額にへばりつく前髪の奥で、黒蜜のように濃い瞳が、赤く照らされた檜の天井をぼんやりと見つめている。

「時子。お湯、熱くはないかい」

 洗い場から、穏やかな声が落ちてきた。

 テイ子は白い手ぬぐいを絞り、膝を突いて座っていた。

濡れた黒髪を後ろで一つに束ね、湯気に濡れた素肌は、四十を前にしてなお陶器のように白い。

「ちょうどええよ。

……気持ちいい」

「よかった。

……ほら、お背中流してあげるから、こっちにおいで」

 時子は湯船から上がり、木桶の前にちょこんと座った。

 テイ子は手ぬぐいに石鹸を泡立て、時子の肩から背中へ、ゆっくりと流していった。

 時子は目を細め、されるがままになっている。

「……時子」

「ん?」

「お父様たちの言うこと、みんな分かってしまうんでしょう」

 手ぬぐいの動きが、一瞬だけ止まった。

時子は振り返らず、膝を抱えたまま、木桶の中に溜まったお湯の表面を見つめていた。

「ん……とうちゃんらの作る箱、冷たい」

「……そう」

 テイ子は静かに息を吐き、再び滑らかな手つきで時子の小さな背骨を撫で上げた。

その掌には一切の躊躇も、恐れもなかった。

ただ、陽だまりのような温もりだけが、時子の肌に染み込んでいく。

「お父様はね、夜中に冷たい汗をかいて起きるの。

何万人もの兵隊さんのお米の目方と、死ぬ順番ばかり計算して……」

 テイ子の声は、静かで優しかった。

「私にはね、その計算の正しさはさっぱり分からないけれど、あの人がどれほど深い寂しさを抱えているかだけは分かるの」

 テイ子は木桶で湯を汲み、時子の首筋から静かにかけ流した。

温かい湯が、泡と一緒に時子の体を包み込んで流れ落ちる。

「お父様は、自分と同じ目の色をした時子が、そら可愛くて、愛おしくて……

自分が作った毒を、そのままこの手で時子にあげてしまったんじゃないかって、少し怖がってるの」

 時子は濡れた顔を拭いもせず、ふっとテイ子の方を振り返った。湯気越しに見下ろすテイ子の目は、いつもの穏やかな細められた目のままだった。

だが、その瞳の奥には、石原莞爾の狂気すらも何事もない日常として包み込んできた、底なしの静寂が湛えられている。

「……お母さんは?

お母さんも、わたし怖いの?」

 テイ子はクスリと小さく笑った。

濡れた手ぬぐいを時子の頭の上にぽんと乗せ、小さな額に自分の額をそっと押し当てた。

湿った肌と肌が触れ合い、テイ子の息遣いが時子の鼻腔をくすぐる。

「怖いわけがないでしょう」

 テイ子は小さく笑った。

「……私の、大事な時子だもの」

 手ぬぐいで、時子の髪をそっと拭う。

「お父様が何を背負わせたって、大丈夫よ」

近くにたぐり寄せる。

「帰ってきたら、必ずご飯を炊いてあげる」

 テイ子の手が、時子の頭と頬を、強く撫でた。

「それだけは、ずっと変わらないから」

 時子の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。

父親の莞爾から受け取った「毒」とも「規格」とも違う、温かくて重い何かが、身体の底にじわりと沈んでいく。

「……お母さん、冷えてきた。

もういっぺん湯船入る」

「ええ、お入り。

のぼせないようにね」

 時子はぽちゃんと音を立てて再び湯船に飛び込んだ。

湯気を上げて揺れる水面越しに、テイ子が静かに手を合わせ、湯殿の天井に向かって低く「南無妙法蓮華経……」と唱える姿が見えた。

時子は何も言わず、湯の中で目を閉じた。

 昼間、大人たちが話していた数字も、箱も、路線図も、今だけはどうでもよかった。

但馬の夜風が、湯殿の軒を静かに撫でていた。

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