第三十三章『鶴綱』(1936年 6月)
梅雨の重たく湿った潮風に、切削油と重油の生臭い匂いが混じり合い、半開きの鉄枠から会議室へ滑り込んでいた。
卓上に広げられた但馬の青図面の上で、石原莞爾の角張った指先が、山陰のくすんだ緑を強情になぞる。
数珠の菩提樹がカチカチと不規則な音を立てた。
「……四発の白鶴は大連への大動脈だ。
だが、但馬の泥川にあの巨体を落とすのは、仏像の頭を鉄槌で殴るような真真だ。
三宅坂の紙細工どもには分からん。
足元を這う泥鰌が必要なのだ」
石原の濁った鼻腔から、湿った熱い息が漏れる。
山形訛りの粘りついた声が、室内に低く沈んだ。
「陸軍省の綺麗事ど集めて何になる。
永田が紙の上で兵隊転がして満足してる間さ、俺たちは土の匂いのする血脈を張り巡らすんだ」
小林一三は真鍮の丸眼鏡を静かに外し、氷の浮かんだ冷やし茶のグラスに細い指を滑らせた。
冷えた結露が指先を濡らし、琥珀色の液体が微かに揺れる。
「城崎の奥座敷は今、大工が泥まみれで柱を立てております。
八月の湯治に間に合わせねば、買い叩いた湯札がただの紙くずになる。
……だがね、石原さん。
湯治客にいい湯を吸わせて、地元の老人に少々のお零れを落としてやれば、あいつらは死ぬまでうちの箱から出られなくなります」
小林の薄い唇に、なめらかな笑みが差した。
グラスの縁を舐めるように口をつけ、細い目をさらに細める。
「他人の胃の腑までうちの出汁で満たしてやるんです。
誰も文句は言わん。
文句を言う前に、阪急の作った夢の中で骨までふやけて死んでいく。
……これ以上の極楽はありませんな」
「空なら線路はいらん」
石原は胸ポケットから朴の木で削り出した小ぶりの双発機模型を取り出し、図面の上へ荒々しく叩きつけた。
菩提樹の数珠を握りしめる太い拳の節々が、白く浮き上がる。
「白鶴の発動機をそのまま二基ぶち込んだ、双発の『青鶴』だ。
部品共有率は七割を超える。
これなら絹巻の狭い汽水だろが、楽々浦のドブ川だろうが、幾らでも忍び込める。
三宅坂の奴らには、ただの温泉客の足に見せておけばいい」
「……また現場を知らん無茶を言う」
部屋の隅から、冷ややかな鼻笑いが飛んだ。
開発主任の堀部安成が、油で黒ずんだ爪で煙草を揉み消し、図面を冷めた目で見下ろす。
「白鶴の馬力に物を言わせるのとは訳が違う。
雨のあとの円山川は山から大木が流れてくるぞ。
時速百キロで流木を踏んでみぃ。ジュラルミンの薄皮なんか一発で内側に座屈して、あっという間に浸水沈没や。
腹は二重底にして間に可撓性の樹脂ゴムを充填する。
ステップ前方のキールラインには、焼入れした特殊高張力鋼の犠牲板をボルト留めや。
擦り減ったり曲がったらそこだけ外して即座に交換する。
油圧の揚力板なんか捨てて、手動の機械式フラップに叩き直す」
小林の指先が、グラスの氷をカチリと鳴らした。
その眼光には、血の通った人間を丸ごと呑み込む商人の、凄艶な毒が満ちている。
「機体の補強は堀部さんに任せます。
だがね、流木そのものを避ける仕掛けはうちらが作りますよ。
円山川の上流三箇所に防木網を張り、豊岡の川漁師を阪急の常傭作業員として雇う。流木を一本引き揚げるごとに手当を出せば、あいつらは目を皿にして川を掃除します。
……治水で感謝され、川を掃除させて金を落とし、浚渫した大量の土砂で豊岡の湿地を埋めて家を建てさせる。
綺麗な顔をして、但馬の血をそっくり入れ替えるんです」
小林は真鍮の万年筆を抜き取ると、絹巻から楽々浦への暗い水筋を、湿った音を立てて突き刺した。
「楽々浦の裏ドックが噛み合えば、舞鶴、対馬、大連、台北を結ぶ裏日本の空路網が完成する。
……表で夢を売り、裏で山陰の深みへ水脈を張る。
永田さんが陸の線を引いている間に、うちは空と海で西日本を丸呑みにします」
石原は菩提樹の数珠を激しく擦り合わせ、ぎりっと奥歯を鳴らした。
その目には、末法の世を滅ぼし再構築せんとする異端の念仏者の、不気味な光が宿っていた。
「……絹巻と楽々浦を起点にしたこの泥臭い『綱』さ張れば、三宅坂の青瓢箪どもは自分たちの首が絞まっていることにも気づかねぇ。
……永田の首を、この空の網で絞め殺してやる」
午後四時。
安治川河口。
天保山。
浅瀬を埋め立てて聳え立つ十三階建ての双塔楼。
その下部を押し潰すように繋ぐ基底ブロックに、三万トンの旧式戦艦『扶桑』の艦尾が、巨獣に噛み砕かれたように深く呑み込まれていた。
足下のヘドロ層へ打ち込まれた数百本の鋼管杭と高圧セメント注水の地盤固め。
さらに船体とビル結合部に仕込まれた可撓性高張力ジョイントが、潮汐による3万トンの歪みを軋む重低音に変えて吐き出している。
鋼鉄と重油、海水と切削油の匂いが、十三階の最上層『阪急天空サロン』の床裏から微かに立ち上っていた。
サロンのガラス窓から、夕暮れの大阪湾が一望できた。
「……三万トンの鉄を陸のビルに突き刺し、二本の塔で固定する。
小林さん、とんでもない化物を作ったな」
窓際に立つ海軍中将、米内光政がウイスキーグラスを傾けた。
氷がカランと音を立てる。
「軍縮条約で捨てられたゴミを、我が社が地下の地鎮碇として買い取っただけにございます。
……おかげで海軍さんは阪急変電所からの高圧線を直結して、タダで日本一の巨大電信基地を手に入れられた」
米内は微かに目を細め、控えていた将校へ視線を送る。
「……陸の官僚どもと法理で渡り合うための男を連れてまいりました。
……井上、挨拶なさい」
薄い唇を結んでいた男が、一切の無駄がない軍礼を執った。
「海軍少将、井上成美と申します。
以後、お見知りおきを」
「井上さん……海軍随一の理屈屋ですな」
「小林社長」
井上は寸分の狂いもない敬語で、氷のように冷たく言い放った。
「軍艦をビルに埋め込み、高圧線を流して酒場にする貴殿のやり口、軍人としては到底賛同いたしかねます。
……ですが、軍需動員法第十条の適用を逃れるため、阪急がスイス合資会社を経由して信託設定した民間港湾施設契約――見事な脱法です。
陸軍省整備局が『陸海軍用収用権』を盾に接収を試みようと、スイス公使館を通じた国際私法上の所有権侵害に抵触する。
三宅坂の青瓢箪どもは書類一枚触れられません。
今後の陸軍総動員局との法闘争は、すべて私にお任せください。海の電探哨戒艦隊も、舞鶴を母港として再編いたします」
「ハハハ!
陸の永田に勝てる理屈の化け物が、海から出てきましたな!」
小林が膝を叩いたその時、サロンの重厚な扉が開き、白い夏用軍服の胸元を少し緩めた男――山本五十六が一人で入ってきた。
汗をぬぐいながら太い首を回す。
「すまんすまん、待たせたね。
下の船渠で白鶴のフロートを見てたんだが、あの補強の仕方は見事なもんだな」
「おや、山本さん。
下の潮風で涼んでおられましたか」
小林が微笑んだ直後、再び扉が静かに開いた。
小林の秘書に手を引かれ、一人の小さな少女がおそるおそる足を踏み入れてくる。
小林は立ち上がり、少女の背中にそっと手を添えて前へ押し出した。
「こちら、石原君の愛娘の時ちゃんです。
ほら、時ちゃん。
ご挨拶なさい」
時子は緊張で肩をすくめ、白漆喰の壁のように顔を強張らせていた。着物の裾を小さく握りしめた手が、微かに震えている。
居並ぶ海軍幹部の威容を見上げ、小さな口を懸命に開いた。
「み、みなさん、こんばんわ……
石原時子です。
……と、とうちゃんが、お世話になってます」
井上が無表情のまま、ミリ単位の狂いもない深々としたお辞儀を返す。
米内も目元を緩めた。
その声を聞いて振り返った山本が、丸い目をさらに見開いた。
大きな体をかがめ、時子の目線まで顔を寄せる。
「おぉ、あの時の子か。
……おじさんのこと、覚えてるかぃ?」
時子はクリッとした目をしばたかせ、小さな唇をキュッと結ぶと、無言のまま首を左右に振った。
「初めて会うのとちゃうのん?」
山本は太い膝をたたいて笑った。
「ハハハ、君がもっと小さい時にね、白梅館の自宅で少しだけ子守してあげたんだよ。
積み木をね、寸分違わず同じ向きに、びっちり並べててなぁ」
だが、時子は昔話など一切聞いていなかった。
時子の瞳孔が、恐ろしいほどの集中力で収縮している。
彼女の視線は、山本の胸元――白い軍服の第三釦から、わずか数ミリだけ飛び出した金糸のほつれに固着していた。
歪み。
不揃い。
規格外。
それを叩き潰し、揃えなければ気が済まない凄絶な衝動。
時子の幼い身体が微かに震え、帯締めを握りしめる指先が、血の気を失って真っ白に変色していく。
山本はその無機質な視線の先を追った。
次の瞬間、山本は太い親指と食指で、胸元の金糸を躊躇なく掴むと――ブチッと不気味な音を立てて引きちぎった。
そのまま金糸を卓上の灰皿へ無造作に投げ捨てる。
「……ほう」
五十六は太い眉を上げ、喉の奥で低く唸った。
「……小林さん。
この娘っこ、俺の軍服を見てるんじゃねぇな。
俺の命の『縫い目』を見てやがる」
室内の空気が一瞬で凍りついた。
サロンの足下から、扶桑の巨体が揺らす重油混じりの潮騒が、ゴーッと低く響き上がる。
井上成美だけが、その時子の「異様」を冷徹な眼光で見つめ、手帳へ走らせる万年筆の動きを止めた。
安治川の川面から、城崎から戻ってきた四発の白鶴が、重い水陸の境界を切り裂くような重低音を響かせて滑り込んできた。




