2日目(5)
冷や汗が、一筋流れた。
目を、逸らせない。
数メートル先で、赤い目が僕を笑う。
可笑しそうに、嗤う。
その隣に赤い目が三つ、新しく現れる。
何が違った?
これは、精神攻撃の暗示だ。
暗示は、弾いて逸らせたはずだった。
何故、掛かった?
頭の中で問いかける。
赤い目が、また増える。
恐怖だ。
悪夢だ。
おぞましい。
だけれど、集中していた名残か、頭は酷く、冴えている。
いや、恐怖ゆえ、かな。
そんな、取り留めもないことを考えている間にも、目は、増え続ける。
最初のから目を離せないから確認できないけど、僕の周りは赤い目だらけだろう。
威圧感。
恐ろしい。
それでも、考える。
この暗示を破るために。
そして、部屋から出るために。
思い出せ。
ルナさんの言葉を。
暗示を。
何より。
自分の行動を。
最初の三つ目が大きくなる。
いや、近づいてきている。
圧迫感。
閉塞感。
思い出せ。
自分が使ったのは、纏暗示。
ルナさんは、こう言った。
『暗示の中には物理的な攻撃だけではなく、精神的な攻撃も多数存在するんです。これらは、私たちの五感に働きかけるものが主で、基本的には纏暗示で防げません。そこで使われるのがーーー』
自己暗示、だ。
…阿呆だ
ど阿呆だ。
ーーーなんで、こんな単純な間違いをしてしまっていたんだろう?
疲れ?
忘れてた?
…いや、余裕がなかった、んだろうな。
今ならわかる。
暗示の、恐ろしさ。
もしあれが、無秩序に暴走したら…
魔法では防げず、なおかつ、最後に待っているのはーーー
死だ。
思えば、僕も、死ぬ可能性はあるってことなんだ。
この訓練…僕なんか、ルナさんの機嫌を損ねるようなことでもしたのかな?
確実に殺しにきてるよ、これ…
いくら何でも、初心者にする訓練じゃないよ。
ほら、まだ足の震えが止まらない。
そんなことを考えていたら、いつの間にか、闇より赤の色の方が多くなっていることに気付く。
三つ目は、もう目の前だ。
きっと、次の瞬間には、また襲い掛かられる。
心の中を蹂躙される。
でも、今度こそ。
今度こそ、この暗示を、弾く!
自己暗示は中和の暗示と、ルナさんは言っていた。
つまりは、この空間を、僕の暗示で中和すればいい。
なら、やることは、さっきと同じだ。
僕は、心を黒い感情で染めていく。
三つ目の口が、大きく開く。
口の中は、血だまりのように、真っ赤だ。
鮮血だ。
こいつは、今まで僕を、何度も喰らってきたのだろう。
ーーー今度はこっちの番だ。
静かに、目を、閉じる。
身の内には、どす黒い心があった。
復讐心、と言ってもいいかもしれない。
こいつを、消す。
そして、感情を身体の外に吐き出す。
辺りの闇とは異なる、黒い靄が溢れ出すのを感じる。
一方、心の中は質量が減っていく。
そして、無、のみが僕の心に残る。
半ば穏やかな気持ちで、目を開く。
三つ目の動きは、ぴたりと止まったかのように固まっている。
しかし、その目は爛々と輝いている。
いっそ、清々しいまでの、純然たる敵意。
害意。
悪意。
その塊だった。
僕は、三つ目に向かって、言う。
「今日は本当に世話になったね。これは、ほんの、ささやかな、僕の、気持ちだ」
僕は、嗤う。
「受け取れ」
黒い靄が、その体積を数十倍まで膨れ上がらせた。
それは放射状に、この空間の隅々まで広がっていく。
…まるで、ルナさんの明示の対極だなーーー
そんな、苦い笑いも込み上げつつも。
僕は。
「ーーー自己暗示!」
自己暗示を、掛けた。
そしてーーー
一気に弾けた。
視界が一瞬で、真っ白になった。
ーーーこれは、記憶。
誰かの、悲痛な叫び声。
魔法の煌めき。
赤。
青。
緑。
茶。
黒。
白。
魔法以外の色。
真っ赤な、血。
灰色の、空。
そして、真っ黒な、悪意。
これは、僕の記憶。
|褪〈あ〉せぬ色に|彩〈いろど〉られた、初めての、記憶。
なのに。
なのに、どうして。
僕はこの記憶を、忘れてしまったのだろうか…
ーーーふと気がつくと、目の前には部屋の出口があった。
扉は、開いている。
僕は、辺りを見回す。
…あった。
ヒトガタくんは、床に落ちていた。
その形はもはや原型を留めておらず、放射状に切り裂かれていた。
ーーーまるで、鉤爪でぐちゃぐちゃに切り裂いたように。
「ーーー」
思うところはいろいろあった。
しかし、終わったのだ。
そう、実感する。
僕は、開いているドアから外に出た。
出た瞬間、何かの感覚が僕の中を通り過ぎていく。
何か…恐らくは、暗示の中から出ることができたのだろう。
空気が和らいだ気がした。
本当に、終わった…。
そう思ったら、膝の力が抜けた。
床が迫る。
痛みは、感じなかった。
「ーーーーー」
ーーールナさんの、声だ。
駆け寄ってくる足音。
「ーーーーー!ーーーーー!」
心配して、くれてるのかな?
でも、何を言ってるのかは上手く聞き取れない。
「ーーーーー」
うん、ルナさんの膝枕は、いい。
これのためだと思えば、少しはあれをやった甲斐があるってもんだよね。
心地よい微睡みの中、僕は、目を閉じた。




