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辻埜井は、はたして宣告通り妖怪の知識に精通していて、うららの求めている情報をほぼすべて手にしていた。
ほぼ、と言うのはもちろん、うららの知りたいのは河童のコミュニティでも伝説扱いになっているという対薫についてであり、辻埜井ですら対薫については一言も口にしないところを見ると、やはりそれは極秘事項なのだろう。
そう推察することは簡単だったけれど、でも、河童に対する知識が増えるたびに、そこに対薫はどのようにして河童という生き物に関わってきたのだろうかと思いを馳せてしまう。
肝心なことに対しての情報収集はできなかったものの、辻埜井のおかげで得た知識の量は、非常に役に立った。
たとえば、水妖と呼ばれ水に関わる妖怪として認識されているが、河童には実は二種類いること。
一つは水棲種といって、その名の通り川辺などに生息し、水がないと生きていけない。
頭の上に皿があるのも、この種類だそうだ。つまり、出島は水棲種の河童だと言える。
もうひとつは、猿人種。
こちらは、河童という名がついてはいるものの、主な生息地は山の中。山の中を流れる小川の水の近くに住んだりはしているそうなので、水とまったくの無関係とは言えないようだが、水棲種とは見た目も大きく異なるらしい。
こちらには頭部の皿は存在せず、かわりに頭頂部が少しくぼんでいて、そこに水を貯めているらしい。
水棲種と比べて毛深く、また牙が生えており、獰猛で攻撃的だそうだ。
綾乃も賢介も河童のはずだが、二人とも水棲種なのだろうか。
今度会ったら聞いてみようかとも思ったが、そんな知識をどこで学んだのかといぶかしまれるかもしれない。
うららが行っているのは、あくまでも自分が出島とつきあっていく上で知っておきたいと思った内容であり、決して河童社会に深入りしたいだとか、妖怪博士になりたいといった類のものではない。
「辻埜井くんさ、そういうのってどこで知ったの?」
決してひけらかすでなく、たださらりと膨大な情報量をきれいにまとめて教えてくれる、色素の薄い少年に尋ねると、決まって彼はどこか居心地悪そうに微笑んだ。
「好きこそものの上手なれ、だよ」
そう言う彼は、初対面のときに感じた冷たさとは無縁で、うららは第一印象があてにならないことを悟ると同時に、己の審美眼がまったくもってあてにならないことも知るのだった。
彼と初めて言葉を交わしたときは、なんとなく胡散臭い気がしていたから。
日曜日の朝、布団で目を覚ましたら、目の前の視界いっぱいに出島の顔があった。
にこにこと上機嫌の顔でこちらを見下ろす彼は、両腕をうららのこめかみの脇において、さながら腕立て伏せでもしようかと準備をしたようだった。
「おはようございます、うららさん」
バターたっぷりのパンケーキに、これでもかとクリームをかけたかのような声で、出島が囁く。
「……いつからそこに?」
「そうですね、かれこれ十分くらいでしょうか」
「十分間、私の寝顔を眺めていたってことですか?」
「本当なら一晩中でも眺めていたいんですが、さすがにそれは自重しました。
僕って、遠慮しいですよね」
「全世界の遠慮しいさんに謝ってください」
「うららさんが望むなら」
じと目で睨むが、それがまったく効果をなしていないことくらいは、うららにも分かった。
それが証拠に、まだ睨んだままのうららの額にキスを落とすと、そのまま、眉間、鼻の頭、顎を軽く触れて、最後に高らかな音を立てて唇に触れる。
毎晩、うららが寝たふりをしているときにキスはされているけれど、こうして起きているときにされるのは、久しぶりだ。
そう、ちょうど熱を出した日以来。
瞬間的にかっと頬に朱が入るのを止められず、またそれを見逃さなかった出島は、すでに恥ずかしい思いをしているうららに追い打ちをかけるように、
「うららさん、僕がキスするだけで赤くなってくれるんですね。可愛い」
「こ、これは」
「もー、うららさん可愛い! 可愛い! 世界一可愛い!」
うららの反論など耳に入らないのか、出島は体重だけはうららにかけないように注意しながら、顔を鎖骨あたりにこすりつけてきた。
鎖骨を、出島の前髪がふわふわと撫でてこそばゆい。
しかも、同じ風呂で同じシャンプーを使っているはずなのに、出島からは良い匂いがする。
「あれ? どうしたんですか? さっきよりも顔が赤くなってますよ?
ははーん。さてはうららさん、もう一回僕にキスして欲しいなって思ってるんですね。
もう、うららさんの、ほ、し、が、り、や、さん!
いいですよ! どんどん欲しがってください!
僕はそもそも、うららさんにあげたくて仕方ないんですからっ」
「そんなこと思ってませんし、いりません!」
唇をタコのようにすぼめて距離を縮めてくる出島の顎を、両手を突き出して阻止した。
「んもう、うららさんたら慎ましやさんなんだから!」
音を立てて、手の甲と言わず手のひらと言わず、指先から手首まで何度も口づけされる。しかも、両手分。
「昨日は、めずらしくお出かけされてたらしいですね」
指の間に自身の指を絡めながら、出島がうららの横に寝転がる。
片手を頬の下において枕にして、指を撫でながら、うららを見つめた。
天井を向いたままでは失礼かと思い、うららも半ば流されるように横向きになるよう寝返りをうった。
「あ、ああ……。ちょっと、学校に……」
平日は、学校が終わるなり帰路につかないと、帰宅が遅くなりすぎてしまうので、辻埜井に会うのは休み時間の数十分なのだが、それだとやはり物足りない。
もっと質問したいことがあるのに、と思っていたところ、辻埜井の方から土曜日に学校で会わないかと誘ってくれたのだ。
土曜日も、部活動のために学校は開いているし、学校内で話す分にはお小遣いも減ることもない。
妖怪の話だけでなく、勉強の仕方や、これからの進路の決め方など、辻埜井と話すことはたくさんあって、ついつい長くなってしまった。
日曜の朝でも、出島よりは早く起きるうららが寝ているから、出島が母親あたりに聞いたのだろう。
ただ、なぜか辻埜井に会ったことは、出島には言わない方が良いような気がした。
「お勉強ですか?」
「そう、試験勉強です」
「うららさんは、頑張りやさんですね。いつも、お疲れさまです」
「いえ、それは出島さんでしょう。最近、特に忙しくないですか?」
「えへへ、うららさんに誉めてもらっちゃいました。ありがとうございます。
うん、そうですね。
ちょっと、色々と飛び回らなくちゃいけなくて、いつもよりかは忙しいかもしれません」
「別に、誉めてはいないですけど……」
できるだけ冷たく言い放ったつもりだったのに、出島は満面の笑みでうららを抱きしめる。
腰に回された手は、うららの指を先ほどまで撫でていたもので、出島の体温を求めて勝手に指が震えた。
「珍しくないですか、出島さんが私の部屋に起こしにやってくるって」
眠ったあとはよく来ているようだけど、という余計な一言は飲み込んだ。
「あ、そうでした。うららさんのお父様がお呼びでしたよ?」
「お父さんが?」
しばし、考える。
昨日の夜が遅かったこともあり、それまで学校で勉強していたという言い訳を信じてくれた父親は、朝の神社の境内の掃除を今朝だけは代わってくれると言ってくれたのだった。
だからこそ、今朝はアラームをかけずに惰眠を貪っていたのだが、はて、日曜の朝に用事などあったか。
「ああ!」
突然声を上げたうららは、急いで起き上がろうとして体を前傾させ、結果として出島に頭突きをくらわせることとなった。
「うららしゃん、結構石頭なんですね。
頭蓋骨がしっかりとされているようで、何よりです……」
目尻に涙をためつつ、苦しそうに呻く出島は、しかし腰に回した手を離そうとはしなかった。
これでは、起き上がれない。
「出島さん、私、行かないと」
「どこにですか?」
「河に」
「河? 日曜の朝に?」
「三ヶ月に一回の村総出の草むしりがあるんです!」
「草むしり?」
「河原全体を、村民全員できれいにするんです。あそこ、すぐに草が生い茂っちゃうから。
ほら、うちの神社って龍神を祀ってるでしょう?
昔、河が氾濫しては村を水浸しにしていた時代があって、それを落ち着かせてくれたのが龍神だって言い伝えがあって。
つまり、あの河の責任者みたいなのがうちの神社なんです。
なので、草むしりは青本家の大事な行事になってて、病欠以外は必ず終日参加って決まってるんです!」
「じゃあ、今から病気になっちゃいましょう。僕と一緒に」
最後の部分だけ、ぐっと声を低くして、唇が耳朶に触れるんじゃないかというくらいの至近距離で囁かれて、うららの背筋がぞわりと粟立つ。
「馬鹿なこと言わないでください。ほら、どいてください」
「えー。せっかく、日曜日の朝、うららさんと二人っきりで微睡めると思ってたのにー」
「それは出島さんの都合でしょう?
あ、今気づきましたけど、出島さんはどうなんですか? 仕事はお休みなんですか?」
「……」
わざとらしく目を逸らし、調子外れなメロディーを口ずさむ出島を見て、うららは最上級に目を細めた。
「仕事なんだったら、さっさと出かけてください」
「ち、違いますよ。し、仕事なんて」
「どもり方が大根役者過ぎます。
見てて情けないくらい下手くそですよ」
反論を試みようとした出島だが、それはパンツのポケットに入れてあったらしい携帯の呼び出し音に遮られる。
まずい、と顔にかいてある出島よりも早く、うららは手を伸ばして携帯をもぎ取った。
携帯にディスプレイされた文字を見る。
「あああ! うららさん! や、やめてください!」
「R……?」
「わああああ、それは僕の鬼上司です!
か、返してください!
テンコール以内に取らないと、半殺しにされるんです」
「なるほど。今ので五回目くらいですか?
どうしますか? 私が起きられるよう、そこをどいてくれますか?
だったら返しますけど」
「はい、ただちに!」
入念な訓練を受けた軍人の速さで起立すると、出島は布団の脇で正座をする。
両手の平を天井に向け、手首をそろえると、神剣を受け取る戦士のように粛々と頭を垂れた。
「ありがとうございます」
その掌に携帯を置くと、バネでも入っているんじゃないかと思うくらいの跳躍力で出島が跳ね起きる。
そのまま、通話ボタンを押しながら部屋をそそくさと後にした。
自室に戻ったらしい出島の話し声が、壁越しにかすかに聞こえる。
「Rかあ……」
出島がいなくなって急にがらんとした部屋で、うららは誰にでもなく呟いた。
ら行で始まる名前は、珍しい。
着替える間、その名字候補について考えてみたが、思いつかなかった。
綾乃の名字である露井を除いて。しかし、彼女は出島の上司ではなかったはずだ。
カーテンを開けて、窓も開ける。
きれいな秋晴れの空が広がっていて、その空気の匂いから、自分が寝坊をしてしまったことを知る。
温度はそこまで高くないようだが、草むしりをすればきっと汗をかく。
羽織っていた長袖のブラウスを脱いで、タンスからTシャツを引っ張り出したそのとき、うららの部屋がノックもなしに開いて、
「うららさん、すみません!」
電話を終えたらしい出島が、ジャケットを羽織った姿で入ってきた。
不覚にも、出島のジャケット姿に見とれてしまったうららは、自分がジーンズにブラジャー姿であることも忘れて出島と目を合わせる。
「え、うららさん、そ、それは、どういったサービスですか」
端正な姿を地の底に叩きつける最低なことを口にした出島は、あろうことかたらりと鼻血を流した。
「出てってください!」
Tシャツを投げつけると、出島はゴキブリのごとき素早さで退室する。扉越しに、
「出てきました!」
「見ましたよね?」
「心に焼き付けはしましたが、見てはいません!」
「このセクハラ河童!」
「うう、うららさんに言われると、逆に興奮します」
絶句したうららは腹立たしげに舌打ちをして、扉の近くに落ちたTシャツを拾った。
あのジャケット姿は、問答無用に格好良かった。
しかし、今の発言は、問答無用に気持ち悪かった。
その相反する事実を反芻して、うららは己の男を見る目に再度落胆した。
辻埜井は、あんなに紳士的で良いひとなのに、初対面では信用ならないと思った。
出島は、残念街道を爆走する変態なのに、初対面では見とれてしまった。
「ああ、私ってもしかしたら、自分で思ってるよりも普通じゃないのかな?」
頭を抱えてしゃがみ込めば、
「僕は、どんなうららさんも大好きですよ」
うすく開いた扉の隙間から、ぎらぎらとした片目を覗かせ、親指を立てた腕を部屋の中に入れて、出島が世紀のスピーチを終えた政治リーダーのように言う。
が、その目や顔に、あからさまが落胆が見てとれて、うららは枕を思い切り投げつけた。
「着替えが終わって残念だなって顔にかいてあるんですからね、スケベ河童!」
「ぎゃん!」
くぐもった音と共に出島の顔面を直撃した枕は、出島の断末魔の叫びを吸収した。




