十五夜逢瀬 1
連日続く厳しい鍛錬に、満尋を含めた新米鵟衆はくたくただった。新入りの初仕事が近づいてきた為に、鍛錬のレベルが一気に上がったのだ。さらに、最近は読み書き算盤など勉強の方も加わって、身体だけでなく頭も酷使している。同じ言葉を話しているとはいえ、書き方には大分現代と違いがあるのは分かっていたから、一人遅れてしまうことが不安だった。しかし、筆を持ったことの無い者は以外にも多く、満尋一人が悪目立ちすることはなかった。基本的に農家出身の者はその生活からか、読み書きが苦手という者が多かった。
現代で受験生だった満尋には、勉強をするということ自体はあまり苦ではない。何に使うのか分からない三角比や虚数の計算に比べれば、くずれた草書体や旧漢字、算盤の使い方を覚えるなんてよっぽど有意義で容易いことである。十壱も商家出身だというので、この辺りは得意らしい。よく部屋で満尋の復習に一緒に付き合ってくれる。問題は勘吉と二之助だ。二之助は単純に勉強が嫌いなだけでちゃんと教えればできるのだが、勘吉に至っては問題外である。とことん相性が悪いらしく、机に向かえばすぐに夢の世界へ旅立ってしまう。勉強を教えているのは鵟衆でも上の方にいる京太郎という男なのだが、何度彼の雷が落ちたことか。鵟衆では時間に厳しいことで有名な彼は、豊富な知識を見込まれて新米の教育も任されている。理性的な人間なのでそうそう感情に走ることはないのだが、勘吉が生徒だと違うらしい。毎夕彼の特別スパルタ補習を受け夕餉の席に現れた勘吉は、稀に見るやつれ具合だった。
「俺もうダメかも。頭の中で算盤の珠を弾く音がする。京太郎さんこえーよ」
大の男がぐすぐすと飯を運ぶ姿は、なんとも鬱陶しいものである。当然それに対する皆の反応も冷ややかなものだ。
「すぐに寝てしまうあなたが悪いんですよ? むしろ、ご自分の時間を削ってまであなたに教えている京太郎さんに感謝なさい」
「そーそー、おれだってちゃあんと聞いてりゃ分かるのに。脳みそ筋肉なんじゃないの?」
「算盤も結構、新鮮で面白いぞ」
3対1。当然軍配が上がるのは満尋たちだ。ぐぬぬぬ、と憤りを飲み込んだ後、勘吉はすばやい動作で二之助の魚をかっぱらった。
「あ! おい!!」
「脳みそ筋肉だからなー。人より腹が減るんだよ」
奪ったししゃもを頭から豪快にばりばりと食う。大人気ないぞ、という満尋の言葉にも耳をかさず、そのまま二之助とじゃれあって騒がしい夕食が終わった。
今日は満月ということで、満尋は夜着のままお座り岩に腰掛けて書を開いていた。本は京太郎に一番簡単な書物を、と言って借りたものだ。武士の子どもが読み書きに使う手習い本らしいが、なかなか面白い。もともと歴史小説や昔を舞台にした大河ドラマが好きだったから、こういうものと触れ合えるのは心が躍る。ちなみにお座り岩というのは、井戸の傍に植えられた芙蓉の木の下にある岩のことだ。座るのに手頃な事から皆にお座り岩と呼ばれている。
空には煌々と輝く満月が浮かんでおり、その光は日が落ちれば真っ暗になるこの世界の貴重な光源となっている。その明るさたるや、本が読めるほどであるから驚きだ。月明かりの下で本を読もうなどと、夜も騒がしい満尋の世界では考えもしなかったことだ。
半分ほど読んだところで満尋は本を閉じた。こんなことをしていると、自分にも随分余裕が出てきたように思えて一人自嘲する。今はただ、半月前までのぼろぼろな日常で手に入れた感覚と身体能力を只管磨き続けている毎日だ。体育や部活動とは違う厳しい鍛錬と学校では決して習わない知識と教養、そして賑やかな仲間に囲まれてあっという間に日々が過ぎていく。本当に自分が高校生なのを忘れそうだ。この世界に来たのはほんの一ヶ月前のことなのに。
満尋は感傷的になりつつある思考を止めるために軽く首を振ると、お座り岩に本を預けて井戸へ向かった。水でも飲んで頭を冷やさないと、このままでは眠れそうに無い。
井戸の中になるべく静かに桶を落として引き上げる。この作業も随分と楽になった。井桁の部分に桶を置いて、直接手で掬って水を飲む。ひんやりとした水が喉を潤し、少し気分も晴れやかになる。もう一口、と桶を見たところで満尋は信じられないものを見た。
桶の中から女の子がこちらをじっと見ている。なんのホラーだろうか。水面に影が映りこむように、女の子の顔が水面に揺らめいているのだ。それも随分はっきりと。霊感なんてないから幽霊なんて生まれてこの方初めて見る。じっと目をそらせないまま見ていると、あまりその幽霊が幽霊らしくないことに気が付いた。好奇心旺盛な瞳は生気に満ち溢れてとても死者とは思えないし、顔だって健康的なものだ。緩く一つにまとめた長い髪の毛を前に垂らして、前髪には年頃の娘らしくピンクのヘアピンでおしゃれをしている。
(は? ヘアピン?)
それはこの世界ではありえないものだ。夢でも見ている気がしてその鮮やかなピンクから目を離せないでいると、水面の少女は満尋の視線に気付いたのか誘導されるように自分の前髪へ手を持っていき、ああこれか、という表情をした。
視線を満尋に戻した彼女の顔が、瞬間切なそうに歪められる。
自分は今、一体どんな顔をしているのだろう。笑っているのか、泣いているのか、はたまた怒っているのか。彼女の表情からでは分からない。
少女がすっとこちらに手を伸ばすと、ひとりでに桶の水が揺れて彼女は消えてしまった。もう少しだけ見ていたかったと思うのは、さっきまで現代のことを想っていたからだろうか。