第8話 霧の向こうに
霧が深さを増すたびに足元の瓦礫や枝の感触がより鮮明に伝わってくる。
ブーツの裏にじわりと広がる湿気と微かな腐葉の匂い。
五感のすべてが、異様な空気を告げていた。
訓練区域の中心部──そこは他の場所よりも開けた構造になっていた。
丘陵地の起伏がなだらかになり、やがて三方向から延びる細道が一点へと収束する。
まるでこの地形そのものが候補生たちをそこへ導くように。
神谷翔太と波多野守のペアがその中心に最初に到達していた。
風は止まり霧の中にわずかな機械音が紛れ込む。
ピッチ、ピッチと断続的に響く電子音。まるで、呼吸のように。
「いたな。……最後の一体か」
神谷の声にはいつものような余裕があるが目は真剣だった。
霧の中でナイフを持つ手に力が込められる。
波多野はライフルを構えつつ相棒の言葉に小さく頷く。
頬を伝う一筋の汗がヘルメットの内側で冷たく感じた。
「ただ……動きが妙だ」
「ん? どういう意味だ?」
「呼吸してるみたいに、間がある。AIのルーチンとは違う気がする」
その言葉に神谷が眉をひそめた。
だが彼の足は止まらない。
湿った地面がブーツの下で鈍く沈むたびに緊張が胸に広がる。
霧が揺れ、機体の金属音だけが際立って響いた。
機体がこちらに顔を向けた。
赤いセンサーが霧の中でぼんやりと灯る。
──そして、突如として跳ねるように距離を詰めてきた。
「来るぞ!」
金属が地面を打つ音とともに異常な加速を見せる。
それは今まで戦ってきた訓練用機体の挙動とは明らかに違った。
機械のくせに意志があるように見えた。
神谷はすかさず横に飛び、斬撃用のナイフを振るう。
波多野がその背後から連続射撃。
呼吸を合わせた攻撃。
──だが、機体は弾道を読んだかのように射線から逸れる。
「動きが……人間みたいだ」
「ふざけてる場合じゃなさそうだな」
神谷が苦笑めいた声で言い再び斬りかかる。
刃が機体の外装に命中。
だが、装甲は異常に硬い。
衝撃が神谷の手にまで響く。
間合いの中で機体が肘を突き出す──神谷の胴部に直撃。
スーツが悲鳴を上げ地面に転がる。
呼吸が乱れ肺が押しつぶされるような感覚。
「神谷!」
波多野が駆け寄ろうとする。
だが、神谷が手で制した。
「……なあ、守。こいつを倒せたら、絶対、表彰もんだよな?」
「……お前にしては、まともなこと言うじゃん」
冗談めかしたやり取り──だが、その直後だった。
異常個体が鋭く踏み込む。
神谷は反応したがわずかに遅れた。
刹那、両刃の剣がその胸部を正確に捉える。
突き刺さる感触は鋼を割るそれではなかった。
生身の肉を、臓器を、心臓を貫くあまりにも生々しいものだった。
「っ……あ……」
神谷の口が微かに開き、言葉にならない息が漏れる。
ナイフを握る手が虚空を掴むように震えた。
瞳に映るのは霧の向こうに微かに揺れる相棒の姿。
何かを伝えようとしたのか、あるいは──最期の冗談でも言おうとしたのか。
けれどその声が届くことはなかった。
重力に抗えず彼の身体が傾ぐ。
血が霧に滲むように静かに瓦礫の上へ崩れ落ちていった。
「──神谷!!」
波多野が駆け出す。だが、その瞬間だった。
異常個体の右腕が無言で閃く。
銃口がこちらを向き──引き金が無機質な意志で引かれた。
乾いた発砲音。
銃弾が一直線に波多野のヘルメットを貫通する。
反応する暇すらなかった。
まるで映像が一時停止したかのように彼の身体が一瞬硬直する。
そして、次の瞬間──
ヘルメットのバイザーが割れ、そこから吹き出した赤が霧の白を染めた。
倒れ伏す二人。その死は静けさの中で、しかし確かに訓練の終焉を告げていた。
霧の向こう、ようやく他の2チームが中心へと近づきつつあった。
北条と柚月。将人と澪。
彼らが見たのは、瓦礫の中で倒れる神谷と波多野。
そしてその傍らでゆっくりと姿勢を変える異常個体の姿だった。
「……嘘、だろ……」
将人の呟きが霧の中に溶ける。
喉がひりつき胃の奥がひっくり返るような吐き気がこみ上げる。
目を逸らしたくなるのに視線はその場から離れなかった。
「訓練中止要請を。すぐに──」
澪が即座に通信を試みるが──ノイズ。
『──……ッ……通信障害……現在、接続──』
「繋がらない……妨害か……?」
柚月の手が震える。だがその目は逸らさなかった。
頭の中が真っ白になりかけながらも端末の異常波形に目を凝らす。
その場の異様さが、喉奥に鉛の塊のように詰まる。
「……おかしい」
北条が呟く。
「訓練でこんなジャミング、ありえるか……?」
異常個体が、こちらを見た。
頭部のセンサーが、赤く瞬く。
冷酷な殺意が、無機質な仮面の裏からにじむ。
ゆっくりとした一歩──だが、確実に彼らへ向かってくる。
「くる……ッ! 迎撃態勢!」
北条の怒声とともに、4人の候補生たちが並び立つ。
だが、その足は確かに揺らいでいた。
神谷と波多野の最期が脳裏に焼きついて離れない。
恐怖と混乱、怒り、そして何よりも──悔しさ。
誰もが息を呑み、、ただ立ち尽くす。
湿った地面が彼らの足音を飲み込み霧が風に舞う中で、金属の軋む音が一歩ずつ近づいてくる。
その敵はもはや訓練用などではなかった。
そして、本当の戦いが始まる。