91 残り火 - 2 -
よろしくお願いいたします。
「こんな女のどこがいいのかしら」
ノックすらせず突然やってきた白い小娘は、最早取り繕う気もないのか口調も態度も大層悪かった。じろりと睨みつけてやるのだがしかし、動じもしない。自分の代わりに傍らにいるリーネンが苛立ったように「はあ?」と声を荒げるのだが、それすら小娘はその淡い色を湛えた眼差しで静かに見据えただけ。ただの低級天使だというのに、幼い外見に似つかわしくない妙な威圧感が漂ってさえいる。どこまでも不遜で己こそが正しいと信じて疑わない傲慢さを、清らかな天使などいないのだとばかりに自ら証明するかのように周囲へと振りまいていた。
仄暗くしんとした室内、遠くから笑い声がかすかに聞こえる。祭りは終わったというのに、外はまだ騒がしさが残っておりそれが酷く耳障りだった。引かれたカーテンによって遮られた陽の光は、光の存在をなお主張するかのように淡く厚い布の輪郭をぼやかしている。
「部屋の隅に蹲って辛気臭いったら……」
薄暗い部屋の隅、壁に背を預けたこちらへと向けられた侮蔑の言葉に、ぐる、と。喉を鳴らし牙を剥くリーネンを押し留めた。納得いかないらしい使い魔の頭をひと撫でし、改めて小娘に向き合う。ぱたりと閉じる扉の前に、不遜なまでの態度で立つ白髪の小娘。青みがかった緑の瞳は冷ややかにこちらを睨むように見ている。
先程力いっぱい平手を打った小娘の頬は腫れているどころか赤みもない。銀の天使が治したのだろうとは思うが、それはそうとして面白くはないのだった。いらいらする、腹の底に蠢く熱は引きもしない。どこまでも偽善的で利己的な身勝手な言い分を忘れもしない、奴らに覚えた怒りは今なお燻っていた。
「何しに来た」
低く問う。
こいつらの物言いに腹を立て、衝動のままにヨシュアを外へと引っ張り出した後のことである。戻ろうと言いくるめられてしまい戻った屋敷、顔も見たくないと言って引きこもった室内。その後一体どういう話があったかは知らないが、あいつが今屋敷の外にいることは漂う気配でなんとはなしに察してはいた。そこに銀色の天使もくっついていったことも――こぼれ落ちる吐息。普段から鬱陶しいくらいにヨシュアに纏わりついていた小娘が、何故ここにいる。穢らわしいと嘯くその口で、態度で、一体何を口にするというのか。
「顔を見に来たのよ、随分な口をきいてくれた穢らわしい悪魔の顔を」
睨みつけるも小娘は動じた様子もない。
「……見せ物になったつもりはないが」
「存在自体が悪のくせによく言うわね暴力女」
あのまだるっこしい、腹が立つほどに酷く間延びした物言いを止めた小娘は遠慮会釈なく口悪くこちらを罵る。向けられる眼差しは冷え切っていて、それこそ幼い見た目からは想像もできないだけの辛辣さがそこには宿っていた。酷く幼い外見ではあるが、その纏う空気が、視線が、態度が若輩者のそれではない。
「そんなもの、貴様に言われずとも私が一番理解しているさ」
く、と。小さく笑ってやれば小娘は少し、怯んだようにも見えた。
汚濁の身である、血にまみれたこの手、存在自体が悪などと言われるまでもない。反論するほどのことでもない。小娘の攻撃的な言葉は事実でしかない。己はそのようなものであるのであるから、真実清らかな天界の住人たる小娘の放つ渾身の悪態など大した痂皮を残すものではなかった。可愛らしい攻撃的な言葉にそう答えたなら、小娘はそれはそれで酷くばつが悪そうに目を泳がせるのだった。覚悟の足りぬ偽善者め。
「それで――貴様は、何故私に構う。悪魔の王である私に何を言う」
抱えていた膝を崩し、膝の上に肘をついて見やる。問いかける。
わざわざヨシュアのいない隙を見計らってここへ来たのだから、こちらへ物申したいことがあるのだろう。あの男には聞かせられないこと――どうせ、言い訳だろうとは思う。天界へと戻ることを強要し、元の形に戻したい奴らの泣き言など聞く気にもなれないが。
己の長い黒髪がとぐろを巻いて波打って、僅かな光源を受けて鈍く光っていた。するりと寄り添うようにしているリーネンは黙ったままだが、やはりきつく小娘を睨んでいる。小娘の外見に伴わない空気も態度も、知ったことではなかった。そもそも自分は小娘のような大した力も持たぬ低級者にどうこうできる存在ではない。誰も敵わぬ圧倒的な力を有するもの。悪魔どもの頂点、目も眩むような悪意を束ねる者。それでもなおこちらへと敵意を向ける小娘に対する、そう、気まぐれのような称賛が問を赦したのだが。
「私たちに近づかないで」
端的な言葉は、拒絶を色濃く滲ませていた。
こちらに対する姿勢を崩さないその様子に、意外だな、と。わずかばかり感心する。
きつくこちらを睨みつけてくるその表情には怯えた様子がなかった。人と変わらぬ力しか持たぬ低級天使、対極に位置する王の座につくこちらへと噛みつく蛮勇は褒められた行為ではないが。その気概自体は認めてやっても良い。単なる怖い物知らずであるだけかもしれないが。
「あの方は、あなたのような存在が触れて良い方じゃないわ」
低く唸るようにして発せられる小娘の言葉。
向けられた憎悪に対し、しかし零れたのは嘲笑だった。
鬱陶しいとばかりに髪をかき上げる、視界の端で踊る己の黒髪に、光を溶かしたかのような金の髪が思い起こされた。こちらをまっすぐに見つめてくる淡い春の色をした瞳が、男の紡ぐ、丁寧で緩やかな甘く香るような優しい声が思考を鮮やかに彩っていく。
――なおも男を祭り上げようとするその物言いが気に入らない。
天使どもの行動は画一ですべからく個を犠牲にしたものだ。その最たるものが、奴らの頂く天使どもの王であるというのは滑稽を通り越して哀れでさえある。
贄の供物、祭壇上の羊。あの男の、その仕草はすべて作り物だった。望まれたなら与えるまでと、そう口にするばかりの自我のない男に、そうであることを強要された男に。いけしゃあしゃあと縋る弱いこいつらが心の底から気に食わなくて、赦せなくて、殺意すら覚えたのだった。明確なる憎悪。厭悪。天界を襲撃した時に完膚なきまでにすべて破壊しておけばよかったと。そうすれば、あの男は――あの男が憂えるものすべてを斬り捨てておけば――少しは、――……唇を噛み締める。今更である、そう考えたとて所詮は単なる仮定論。詮無い事。
「……依存してなお正義を気取る愚物どもが」
「なによ、何も、何も知らないくせに」
鼻で笑って悪態をつけば、小娘がこちらへと向かって反論を口にする。
突き刺さらんばかりの眼差し、震える声は恐怖ではなく怒りに満ちていた。何も知らないくせに、そうだ、何も知らない。隠されたもの。整えられたもの。あの男の奥底に沈められたであろう本心を引きずり出したとて、暴いたとて。私には一切関係がない。永劫交わらぬ光と闇、敵対者。知ったとて、……何が出来るわけでもない。
「ずっと見てきたのはあたしよ」
白髪の娘は己のスカートの裾を握りしめ、声を押し殺すかのようにしてこちらを睨みつけた。
「あの方がどれだけの思いで生きてきたか、辛かったのか、苦しかったのか、知ってるのはあたしだけよ」
有り余る感情の渦、膨れ上がる熱を無理矢理押さえつけたかのような静かな声で、全身で、低級天使はこちらへと言葉を吐く。あの男を知るのは自分だけだという思い上がり、さもしい優位さをひけらかすその傲慢さ。きつくこちらを睨めつける眼差し、淡い色彩である瞳が強く強く光を宿す。あからさますぎる憎悪、笑い出しそうなほどの稚拙な厭悪。こちらへと対する剥き出しの敵愾心はありありとして明確なる怨恨を隠しもしない。
「あたしだけだった、のに」
それが、急激に勢いをなくす。
言葉は宙に舞って、声が、その小さな肩が、小刻みに震えていた。
「なんで、あなたなのよ……」
絞り出すかのような声で、くしゃりと顔を歪めた小娘は、ヨナは、恨みがましくこちらを睨めつけた。スカートに刻まれる皺がより一層深くなる。淡い色彩が揺れて、濡れて、納得いかないと全身が訴える。
「あの方は変わったわ、変わられたわ。あたしはずっと側にいたのに。ずっと見てきたのに。優しくて、誰にでも手を差し伸べて、誰よりも清らかで、誰よりも強くて、誰よりも綺麗で――そうならざるを、得なかった理由だって。あたしは、あたしだけは、知っているのに」
上ずった声で一方的に投げつけられる言葉、延々と重ねられる恨み言。幼い小娘であるはずのそれは、やはりどこか子供らしからぬ重みを滲ませていた。……自分だけが知っていたという傲慢さを、そうならざるを得なかった理由などと随分と恩着せがましい物言いをする。変化を望まなかったのは誰だ。そうであるようにと望んだのは誰だというのだ。どこまでも厚顔無恥な天使ども、お前達のその態度が、期待と羨望が、あの男をあの男たらしめていたというのに。まだそんな世迷言を口にするのか。
睨みつけてくる潤んだ眼差しの奥には猛る炎があった。憎しみに満ち満ちたそれは、強く輝いてこちらを射殺さんばかりだ。
――全部全部、あなたのせいなんだから。
幾度となく吐き捨てられた言葉。
何も知らないくせにと、詰るように繰り返された言葉。小娘が吐き出すのはどこまでも他責的な言動だった。天上に住まう清らかな存在などと良くも言えたものだと心底呆れる、迸る感情、我を通さんばかりの幼い正義感。神の名の下に型通りの逸脱を赦さぬ正、どこまでも己の正当性を振りかざす天使どもの方が、よほど邪悪な存在だろうに。
「……メタトロンは哀れだな」
小さくこぼれ落ちた呟きに、小娘はびくりと肩を震わせた。きつくこちらを睨みつけてきていた眼差しからみるみる力が抜けていく。今にも泣きそうに顔を歪めて、噛み締めた唇が色を亡くしていく。まるで被害者の様相である――どこまでも不遜で厚顔な天使。何もかもを奪うお前達のその態度が気に入らない。神の名の下に忠誠を望む悪辣者。
「貴様は知っていたのだろう、あいつが捧げられた供物である事を。役割を押し付けて、逸脱を許さなかったのだろう。あいつの背負ったものすべて、承知の上で縋っていたんだろう」
執拗にお前は何も知らないと罵るのは、真実を知っているからだ。庇うようにこちらを詰って事実から遠ざけようとする言動は、知られては困る関係だからだ。震える小娘を静かに見据えて、確かめるように口にする。魔界でも天界でも階級は絶対だ、最下層の低級者が最高位のメタトロンの傍にいるなど有り得ない。言葉を交わすなど、存在を認知されているなど。嫁だなんだと言って纏わりつく事を赦されるだけの特異な存在。そうして、お前は何も知らないと――さながら、誇示するかのように敵愾心もあらわにしていた娘。
「縋って、縛って、そういうものに仕立て上げておいて、」
「だって――そうでもしなきゃ、壊れてしまいそうだったの」
ぎゅうと、己の肩を抱いて小娘は消え入りそうな声で呟いた。
泣きそうに顔を歪めながら、それでも作り笑いを浮かべて、だって、と。わけのわからぬ理屈で仕方がなかったのだとなおも嘯くその態度が気に入らなかった。己の正当性を並べ立てるだけの下作、粗野にして粗雑。壊れてしまいそうなどと、大層なことを口にするものだ。悪魔にさえ心を砕く天使、天界最上位の熾天使メタトロンの肩書を持つ木偶の坊。脳筋。馬鹿みたいな優しさで他者へと寄り添う、献身的に振る舞う男。それは最早病的なまでで――既に充分おかしいだろうに、なおも正気を求めるのか。あれが、あの言動すべてが、あいつの意思だとでも?
「大した認識だな」
「なによ、何も、何も知らないくせに!」
侮蔑を込めた笑みを唇に浮かべてそう嘯けば、弾かれたように小娘は声を荒げた。叫んで、肩で息をしながら、それでも言葉は堰を切ったように止まらない。
「あの方が、どうやってああなったのかも知らないくせに……! どれだけの思いで、あんな、あんなふうに全部、捨てて……捨てなきゃ、ならなくて……ッ」
嗚咽のように語尾が掠れて掻き消えてゆく。
何もかもを知っている物言い、は。だんだんと独り言のようにうわ言じみてくる。頭を抱えて、指の隙間から覗く表情は蒼白で瞳ばかりが大きく見開かれていた。
「あたしが、あたしがずっと、見てきたのよ。傍にいたのはあたしよ。誰よりもあの方のことを知ってる、あの方のことを一番理解しているのはあたし、もう、あたし、しか、」
言葉が重なり合って崩れる。
唇が震える。
「……覚えて、ないのに」
小娘の口からほつりとこぼれ落ちた言葉は、あまりに儚く、薄暗い室内で溶けていってしまいそうですらあった。音もなく床の上に転がっていく。見開かれたままの眼差しはしかし、こちらを見ない。映さない。明言を避けた物言いはヨシュアと同じだ、言いたくない事、言えない事。しつこく繰り返される「知らないのだから」という言説、そこから続いたのは「あたししか覚えていない」のだという言い分。……どこまでも自己本位な物言いに、腹の底で炎が再び苛烈に燃え盛る。
「馬鹿馬鹿しい」
言葉酷く冷え切っていた。一度火の着いた熱は消え去ることもない、壊れそうだったからなどと言って――仕方がなかったのだからと、自分達の正当性を並べ立てるその態度が気に食わなかった。天使どもの問題をこちらへと押し付ける、その立ち振る舞いそのものが腹立たしかった。
小娘の言い分は、祭壇の供物であったことを否定したわけではなかった。それを認めた上での弁明。小賢しく言葉を装飾し無価値なものをさも尊いもののことのように口にする。仕方がなかったのだからと、被害者ぶってあいつ自身の意思を無視した。誰一人あいつに寄り添わなかった。与えられておいてなお、たったひとりに縋り、甘え、搾取するばかりの天使どもの吐き気を催すほどの邪悪さ。
「貴様の懺悔に如何程の価値がある」
言葉は怒気を孕む。
小娘は黙ったまま。
滔々と並べ立てられる懺悔という名の言い訳、後悔という名の肯定、保身に走る天使どもの形だけのそれらに意味があるとも思えない。踏みにじってなお正しさを叫ぶその浅ましさ。
正義は天使の好む言葉だ。
その正義を嘲るのが悪魔だ。
あの男の過去など興味もなかった、生い立ちなど。それこそ意味がない。小娘の関与など知ったことではない。罪の数を数えて己の身を憂いたとて、何の意味がある。さもしい同情を引いたとて――そこにあるのは、無限の虚無だろうに。
私が、初めから存在していなくても――
男の言葉が蘇る。そこに込められた本意などわかろうはずもない。
そもそも、あいつ自身が変化を望んでいない。こうであるべきだと諦めている、のに。見つけて欲しいと溢れ出た心。望まれること、求められること。必要とされること。その責務。重責。それなのに笑う、笑える、天使どもに好き勝手に神格化されてなお、あいつは。あの男は。
「――あれは、何も言わないだろう」
何もかも受け入れて儚く微笑むばかりの天使。
恨み言の一つでもあるだろうに、本当に、あいつはそういったものを何一つ口にしないのだった。腹立たしいまでに。いや、単に何も言えないだけなのかもしれない。そのように「整えられた」からなのかもしれない。けれど、小娘を、あの失礼千万な銀の男を、等しく大切にしていたように思う。少なくとも露悪的な感情は抱いていまい。それなのに溶け落ち溢れ出たヨシュアの言動。私に、悪魔に、零さずにはいられないほどに。何を考えているのかわからない、何を思っているのか。ただ静かに微笑むばかりの男。すべてを飲み込んで――己が責務を忠実にこなして。分け隔てなく与えられる情、遍く者を平等に照らす光。そこから覗く深淵。仄暗く差す影。
――貴女は、私を、見つけてくださいますか。
吐息のような問いかけを、あの男は一体どんな思いで口にしたのだろう。
過去など関係ない、あいつがどういった存在なのか知った所で何ら意味がない。ただそこにいて、どこか寂しげに笑う脳筋木偶の坊。こりもせずこちらへと差し伸べてくる手、まっすぐにこちらを射る瞳、揺らがない。悪を討つ強く美しい膺懲の剣。終わりを齎す者、そうであるよう強要されたとて、過去がどうであれ、今ここにいるあいつに、私を認識するあいつに、……胸の奥が軋んだ音を立てる。あれは、「供物であり、そうであるよう強要された自分の本心を見つけて欲しい」という意味だったのだろうか。
「……そうよ、あの方はそういう方よ」
淡い色の眼差しがふらふらとこちらを捕らえる。捕らえて、そうして小娘は笑った。響く喉の奥で引きつるような音。
「だから――結局――あたしは、どこまでもあの方の庇護対象でしかなかったのね……」
囁きのような言葉とともに、小娘の見開かれたままの眦から涙が頬を伝っていった。滑稽だと、笑いながらぽろぽろと透明な雫が零れ落ちていく。
「特別になんてなれなくて良かったの、あの子の代わりであたしは、良かった、のに。あたしだけはあの人の味方だって、あたしが護るんだって、……何も言わない、そう、何も、最初から、――一緒に、背負わせてくれなかったのに……」
自惚れていたんだわ――掻き消える言葉。自嘲。
涙と共に溢れて落ちる言葉には諦めの色が滲んでいた。そこに紛れ込む〝あの子〟と言う言葉。あの子の代わり。それは、あの子とは、ヨシュアにとって、特別な、――?
突然響くノック音に、びくりと体を震わせた。扉の方へと目をやったのは小娘と同時だった、ぐいと小娘が慌てたように目元を拭う。ややあって、そろりと開いた扉の先からのぞく金色。
「ルーシェル、具合はどうでしょう」
泣きたくなるほどに優しい声が、柔らかくこちらの名を呼んだ。
やってきたのは今一番会いたくない相手。
どこまでも透き通った空色の瞳がこちらを捕らえて、ふ、と。笑った。どくりと心臓が跳ねて慌てて視線を逸らす。以前見た、夜の闇にも似た紫紺色の瞳とはまるで違って――ああ、そうだ、あの時の変化も、一体どのようなものなのか自分は何も知らないのだ――
「ヨシュアさまーあ!」
小娘がいつもの通り男へ向かって飛びついていた。さっきほどまでの陰鬱な声ではない、いつも通りの馬鹿みたいに甲高い声。それを男は厭うでもなく、おや、と。しっかりと抱きとめるのだった。揺れる金と白の髪。
「おい、低級者お前、」
「ヨナもここにいたのですね、」
ヨシュアの後ろにいたらしい、銀の天使が態度悪く咎めるも小娘はぎゅうと男の胸元にしがみついていた。……泣いていたことを隠すためか、顔を胸に埋めている。涙の跡など見たらこの男は必要以上に気にかけると、心配するだろうからとわかってしまう自分が嫌だった。
「お掃除はぁ、終わられたんですかぁ?」
「ええ、里の皆さんと協力して綺麗になりましたよ」
「お前がする必要が最後までわからんかったがな」
「カレブ、楽しませていただいたのですから。そのように言うものでありませんよ」
「へいへい」
「流石はぁ、ヨシュアさまですぅ!」
……天使どもの会話は頭痛がしそうだ。
銀の天使は髪色をヨシュアと同じにしているから、長い金髪のデカい男が二人もいれば薄暗い室内でも酷く眩しくみえる。挙句、天使どもはそろって白い衣服を好むからそこだけ目に痛い程明るい。
「すごい変わり身にゃあ……」
言いつけ通りこれまで黙っていたリーネンが、耐えられないとばかりに呆れて呟いた。小娘は先程までの大人然とした態度から一転、殊更やかましくはしゃいでいる。まるで何事もなかったかのように、男を見上げて嬉しそうに微笑んでいた。
――あいつのことが、本当に好きなんだなと。思う。
苛立つ銀の天使を前にしても小娘は男から手を離さない。ヨシュアも小娘の不敬な態度をまるで意に介した様子もなく、いつもと変わらず静かに微笑むばかりだった。見えない本心。形作られた聖性。それでも、愛おしげに小娘の頭を撫でる男の指の動きは果てしなく優しかった。
……腹立たしい傲慢な偽善者ではあっても、それでも、あのように素直に好意を体現できる様は少し、羨ましくもある。
「ルアードさんからの伝言です。花祭りの片付けはあらかた済んだので、打ち上げをしましょうと。皆さんと食事をするのですが、ルーシェルは参加できそうですか?」
一通りじゃれ終わったのだろう、ヨシュアが改めてこちらへと声をかけてきた。この男もいつも通りである、いつも通りおかしい。悪魔に、魔王に微笑みかけて、こちらの意思を問う。そこには「体調がすぐれないのであれば休んでいるか」と、そういった気遣いすらあった。
「何馬鹿正直に誘うんだか……」
「悪魔なんてぇ、穢らわしいだけなのにぃ、相変わらずぅ、ヨシュアさまはぁ、お優しい方ですぅ」
銀と白が口々に好き勝手言う。
最早腹を立てるのも馬鹿らしくなっていた。
「……我々は食事が必要無いはずだが?」
「打ち上げは祭事の締めくくりに必要だとルアードさんが。慰労も兼ねて、美味しい食事とお酒で互いに労るのだそうですよ」
じろりと睨みつけるも、そうは言いましても、と。ヨシュアはにこにこと笑うばかりだった。一欠片の疑念もないようだが、飛び出してきた酒という単語に眉を寄せざるを得ない。必要がないがゆえに食に関する知識が希薄であるこちらを、上手いこと丸め込まれているのではないだろうか。オリビアの蔓に縛り上げられていたルアードの様子を思い返すに、体よく使われているような気がする。そもそも、だ。
「何故私が天使どもと……」
今の今まで小娘と身にもならぬやり取りをしていたというのに、この酷い空気を気付きもしない男どもと何故顔を突き合わせなければならないというのか。ふいと顔を逸らせば困ったようなヨシュアの気配と、怒りに燃える白と銀のきつい眼差しが肌に突き刺さる。瞬時に沸騰する辺り程度の低いこと。
「ほら見ろ、悪魔なんぞに慈悲をかけた所で返ってくるのは無作法だとわかっただろう」
「そうですよぉ、ヨシュアさまぁ、悪魔なんてぇ、放っておきましょうぉ?」
すかさず飛んでくる罵声。
まるで息ぴったりな熾天使と低級天使である。仲良しか。
「ですが、」
「ルーシェルさま、にゃーはおいしいもの食べたいにゃ」
困ったようなヨシュアの声に、すっかり食べる事に抵抗がなくなったらしいリーネンの、どこかそらとぼけたような声が重なった。まさか背後から撃たれるような事になるとは思わず、ぎょっとして睨みつけるのだが。このオレンジの低級悪魔はふん、と。悪びれた様子もない。
「ルーシェルさまもちゃんと食べた方がいいにゃ、おいしいにゃ、にゃーはお腹が空いたんにゃ。梓のクッキーおいしいにゃ」
「食べる必要がないと言ってるんだ!」
「必要がなくても楽しいことは積極的にするべきにゃー」
悪魔ってそういうものじゃにゃいか。
魔王であり主であるこちらに対しての遠慮だの何だのと言ったものは、最早形もなかった。どこかすねたようにさえ聞こえる物言いである。
「決まりですね」
「何が決まりだ!」
嬉しそうに笑うヨシュアへ、苛立ちもあらわに吐き捨てるのだが。
どこまでもボケた、そのボケすらどこまで演技なのか素なのかさえわからないまま。お元気そうで何よりです、などと言って遠慮なく近寄って来たかと思えば座り込んだままのこちらへと手を差し伸べてきた。男から離れようともしない小娘の、ヨシュアから見えない位置で放たれる凄まじい視線にいい加減辟易とする。この男が勝手にしていることだろうに……!
「勝手に決めるな! 貴様私に対して最近強引じゃないか!?」
「貴女の聞き分けが悪いからでしょう」
差し出された手を力いっぱい払い除ければ、小娘の眦がさらに釣り上がる。当のヨシュアはと言えば応えた様子もない。
「子供扱いするな……ッ」
「でもぉ、子どものようなぁ、駄々ですよねぇ?」
「はあ!?」
「ヨシュアさまもぉ、そう思いますよねぇ?」
「え、と……」
小娘がこちらを睨み据える目は微動だにせず、明るい物言いではあるもののその実その声色は底冷えするかのようだった。無邪気さを装った悪意は隠しきれておらず、突如呼ばれたヨシュアでさえ困惑を隠せないようだった。何やら口ごもりながら、ふい、と逸らされた空色の瞳。
「何故否定しない!」
「あ、いえそれは、」
「魔王のくせにぃ、幼稚だとぉ、思ってるからですよねぇ?」
「その、ようなことは……」
「言いたいことがあるならはっきり言え!」
「言ってるじゃぁないですかぁ、聞き分けのないぃ、子供だってぇ……!」
「ヨナ」
静かな声が落ちた。
困ったようなヨシュアが小娘の名を呼ぶ、たったそれだけで小娘の動きがぴたりと止まる。こちらを睨みつけたままではあるが、それでも口を噤んだ。引き結ばれた口元には、まだまだ言い足りないという思いが溢れていたが。
「口が過ぎますよ」
「はぁいヨシュアさまぁ」
それでも窘められたなら黙るだけの聞き分けはあるらしい。納得したわけではなさそうだが。
男の腕にしがみついて敵愾心を隠しもしない小娘は、どこまでも馴れ馴れしくヨシュアの名を口にする。立場を弁えない低級天使、……小娘が、まだるっこしい喋り方をする時だけヨシュアと呼ぶことには気が付いていた。素だろうか、普通に喋る時だけあいつの名を呼ばない。あの方、と一貫して呼ぶのは、意図していることなのだろうと思う。
「……くだらん」
舌打ちが漏れる。何もかもが気に入らなかった。
気が付けばカーテン越しに差し込んでくる光が弱くなっている。いつの間にか日は傾いていたらしい。
「では、行きましょうか」
何事もなかったかのようにヨシュアは微笑んだ。
銀の天使の、呆れたような諦めたような重苦しい溜息が酷く大きく響く。ちら、と。視線をやれば額に手をやっている、……なんとなく、苦労をしているのだろうということが察せられてしまいそれはそれでなんだかいたたまれない。
「お前も大概強引だよな……」
「そうでしょうか」
溜息混じりに言ってやるのだが、ヨシュア本人だけが理解しておらず不思議そうにしている。あまつさえ、相も変わらず「そうすべきだと」判断したことを行動に移すべく、さあ、と。はたき落とした腕を再度差し伸べてくるのだった。男の腕にしがみついたままの小娘はこれ以上ないくらい面白くなさそうにしている、苛烈な攻撃的な言動、こちらへと敵意、なりは潜めたとしてもそれでも燻っているのが見て取れるというのに。
その中で一人、異彩のようにただ、いつも通りを振る舞う男。
「ヨシュアさまぁ、悪魔なんか放っておいてぇ、行きましょうよぅ」
小娘が急かすように男の腕を引く。どこまでも癪に障る物言いをするものだ、これみよがしに溜息を付いた。傍らのリーネンが興味もなさげにあくびをしている。腹がすいた、何か食べたい、欲望に忠実でありながらも、小娘の音頭は気に入らないらしくむっすりとしている。
ヨシュアはと言えば動かないままである。このまま無視してもよかったのだが、埒が明かないのも確かだった。
「……………、」
逡巡が、なかったわけではない。
躊躇いと諦め、白と銀の射抜くような眼差しの中、特大の溜息が落ちる。望んだわけではない、脳筋がしつこいからだ、自分自身に言い訳をこれでもかと重ね、仕方なく差し出された手を取った。こちらの想いも小娘の想いもまるで知らないまま、ヨシュアだけが酷く嬉しそうにしていた。
……ああ、本当にくだらない。
掴んだ手に引かれて、立ち上がった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。




