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暁のホザンナ  作者: 青柳ジュウゴ
85/93

85 真誠に微睡む残響 - 9 -

よろしくお願いいたします。

 お節介なエルフが雑踏に消え、ようやく天使の腕の中から解放された後に残ったのは果てしない気まずさだった。横たわる沈黙。周囲は相変わらず鮮やかで、向けられる奇異の視線は不快である。そんな中で互いに出方を伺っていて、落ちる無言がただひたすらに重かった。なんとも言えず居心地が悪くて目も合わせられない。言うべき言葉が見つからないどころか、声をかける事も何か違うような気がしてならない。

 

 来るなと言ったのに、帰れと吐き捨てたのに。きつく拒絶したはずなのに。

 それなのに、この男は追ってきた。腕を掴んで、抱き込んで、そうして安堵したように微笑んだ。男の心理などわかるはずがない。どうせ大した意味なんかないのに、義務と使命感での行動でしかないはずなのに。それなのに無様なまでに跳ね回る心臓、頬は火照ったまま冷めもしない。

 

 どれくらいそうしていただろう、凄まじく居た堪れない空気の中、香油、と。先に小さく呟いたのはヨシュアだった。そういえばオリビアに買ってこいと言われていたのを思い出す、閉会式まで戻ってこなくてもいいとも。……姉弟そろって「祭りを楽しんでこい」とはどういう了見なのか、本当に余計なことばかりに気を使う。

 

 そろりと目をやれば、ぱちり、とヨシュアと目が合った。

 反射的に視線をそらすのだが小さく笑う声が漏れ聞こえる。そうして「行きましょうか」と、ごく自然にこちらを促してくるのだった。共に行動するのだと信じて疑わない声色である。でも、きっと。このまま一人屋敷に戻ることを赦しはしないのだろうとも思う。贖罪、監視、強情な天使の行動は変わらない。変わらないまま、穢れである私に構う。それはあくまでも約束を反故にしたという、失態を犯した事実にのみ注視された復旧作業でしかないのだ。行動理念に揺らぎはない、ただ、その範囲がおかしくなっている。悪魔である私に砕く心など、約束の遂行など。


 オリビアの言うヨシュアが抱えるエゴイズム。

 ルアードの、相手へと告げる気はないが手放すつもりもない感情。

 

 周囲の言葉はこちらの内面をさらって酷くざわつかせる。当事者ではないのだから好き勝手に言えるのだ、異界の者だから。常識が違うのだから当たり前だと思う、それと同時に、異世界だからこそ、成り立つ言動とも言えた。淡い期待は胸をかきむしらせるばかり、手の中の細い柄、日傘、握り締める。

 こちらの出方を辛抱強く待つ男に根負けして、は、と息をつく。結局この場から離れるしか選べやしないのだった。差し出された手は取らずに男の方へと踏み出せば、やはり何が嬉しいのか知らないが、ヨシュアは穏やかに微笑んでいる。そのままゆっくりと歩き出す、その後ろを追う。屋敷に戻るというのは、何だか……そう、負けたような気がするから、だ。自身への言い訳は甘く苦い。


 無言は続く、けれど不思議と苦痛ではない。

 こちらを気遣うように前を行く男の、その歩幅はゆったりとしていた。広い背中で踊る、光に融ける金の髪をぼんやりと見つめている。見上げるほどの上背、生命に溢れた里の中で鮮やかに存在を浮かび上がらせていた。清らかな天使はただそこにあるだけで強い聖性を漂わせる。光と影。そうと目を細める。

 

 どうして、この男は私を探しに来たのだろう。


 何度考えてもわからない。あれだけ手酷く拒絶したというのに、そうしてこの男はその拒絶を嫌だとは言えもしなかったくせに。なにか、三つ子に言われでもしただろうか。自我のない天使、けしかけられでもしたか。一体どういった感情の帰結があったかはわからない、そもそも考えてみたとて答えが出るはずもなかった。大体にして天使の考えなど理解の範疇に収まらないのだ。我々とは違う行動理念を持つ生き物、その中でも特に異彩を放つ男。

 

 ……何も考えていないのかもしれないな。


 さもありなん、不毛な思考に適当に当たりをつける。

 望まれたなら与えるまでと豪語するやつのことだ、成さぬ善より成した善だと言って他者に献身するやつのことだ。行動、結果、そこに含まれる感情は端から持ち合わせていないのだろう。最善であると判断したからこその行動なのだ。それ以上でもそれ以下でもない、はずなのに。


「ルーシェル、」


 不意に名を呼ばれてびくりと肩が震える。

 見やった先で、問題の男がこちらを見ていた。露天ではない、こぢんまりとした店の前で立ち止まっている。ひさしのところに沢山の草花が吊るして干してあった。看板には瓶の絵とこの世界の文字が刻まれている。

 

「こちらです」


 そう言ってヨシュアはふわりと微笑む。

 ……なんで笑ったのかはもうこの際気にしないことにした。言われるがまま日傘をたたんで、先を行く男に続く。カラカラと乾いた音を立てるドアベル、中へと入るとそこには客だろうか、数人の女エルフの姿があった。さほど広くない店内で向けられる視線の居心地の悪さ。振り払うように周囲を見渡すと、ずらりと壁一面に並べられた小瓶が目に入る。天井には外と同じように乾燥させた草花が吊るしてあった。それらが香るのだろう、室内は濃い香りに満ちている。不快ではないものの質量さえ感じさせるほどだ。ここが例の香油が売られている場所なのだろうか。


「おや、いらっしゃい」


 店主だろう、カウンターの奥に女が一人座っていた。短い髪を揺らして、どこかけだるげな雰囲気をまとっている。


「異界からの方だね、どのようなご要件かしら」

「オリビアさんから頼まれて、セセアの香油を一つお願いします」

「あー、おっけおっけ」

 

 天使の言葉に、どうにも軽い口調の店主は壁から一つの瓶を取り上げる。そうしてカウンターの上へと置かれたのは、花弁と同じ淡いピンク色をした硝子の小瓶だった。中身がちゃぷん、と小さく音を立てる。


「これは祭りの時にだけ作る香油でね、オリビアさまのお気に入りでもあるのだよ。蕾のほうが香りが強くて、摘花したものを精製して作るんだ」


 甘い香りがいいだろう? 店主の女が小瓶を包みながら説明している。その様子を見ていたのだが、ヨシュアが財布を出したあたりでふと思い出す。

 

「お前、所持金が心許なかったんじゃないのか」

「お代は預かっているので大丈夫ですよ」

「ああそう……」


 こともなげに返される。

 あの女エルフに抜かりはないということか……なんとも言えない脱力感。そうこうしている間にも支払われていく硬貨、紙幣、はい確かに、店主が受け取る様子を目で追っていた。店主から渡される紙切れを男は受け取る、領収書というものらしい。天使が、それもただの天使ではない、最高位の肩書を持つ男がものを購入する様は何度見ても凄まじい違和感があった。流石に慣れた様子であることも、もそれに拍車をかけている。馴染んでいることに対する強烈な違和感。

 こういった店だからだろうか、店内に男の姿はなかった。周囲の女どもの、さわさわとした声が聞こえる。素敵、綺麗、おおよそ好意的な言葉。天使に向けられる称賛の声はしかし面白くはない。

 

「香油とは、どの様に使うものなのですか?」


 周囲の奇異の目も気付いているのかいないのか、興味深そうにヨシュアは問う。……香油といえば、あいつらにとってかなり重要な意味を持つものだったはずだ。その違いを確認したいのだろう。

 

「んー? 基本は香りを楽しむものだよ。水を張った容器に数滴垂らしたり、その水をロウソクで熱したりね。あとはそうね、蜜蝋に混ぜて練り香水にしたりするかな、――っと」


 そう言って店主がカウンターの下から籠を取り出す。じゃら、と何かのぶつかる音。そこには親指程度の小さな白い容器がたくさん入っていた。


「これが練り香水ね、指にとって手首や耳の後ろなんかに塗るんだ」


 そう言って一つ取り出すと、店主は蓋を空けて中身を見せていた。ふわ、とより一層香りが立つ、それを興味深そうにヨシュアは覗き込んでいる。


「好きなのいっこどぞー」

「え、ですが、」

「購入者特典だよ、さ、どれがいい?」


 言われて、ヨシュアはそれなら……、とおずおずと一つ手に取っていた。大きな男の手では殊更小さく見える白い容器、陶器製だろうか。詰められているものが違うのか、蓋に小さく花の絵がかいてあった。目印なのだろう。


「……香水とは、甘い香りのものなのですか?」

「そんなことないよ、もっとウッディなものやスパイシーなものとか、それこそ沢山ある。組み合わせも色々だし無限大だね」


 ほら、と店主は籠の中から容器を取り出しカウンターの上に並べ始める。

 

「これなんかは男性向け、ちょっと重い香りだね。こっちは水のような透明感のある香り、逆にこれは深い森を思わせる。花の香りがベースのやつは女性に人気だし、柑橘系の爽やかな香りもよく出るねぇ」


 説明を受けながら小さな容器に鼻を近づける男は、なんだろう、大型犬のようにも見えた。それも凄まじく毛並みの良い。神の御使い、神の僕、神の犬。まあ、そもそも天使という存在自体がそういうものではあるのだが。なんだか先程からやたらと機嫌が良さそうなのも合わせて、どうにも脳天気な犬に見えて仕方がないのだった。それも腹立たしいほどに無邪気で、従順な。

 

 香りの説明を聞きながら、男は何やら悩んでいるらしい。他の客もあれこれ手にとって商品を選んでいる。大きくはないが楽しげな声、会話、自分はと言えば興味もないので手持ち無沙汰ではある。

 店の外では祭りは続いており、ほんの少し空いた窓から賑やかな音が漏れ聞こえていた。何をしているのだろうとは思うものの、だからといって外に出る気にもなれずにいる。先程やられた往来での出来事が再び起こるのも勘弁願いたいものではあるが、しかしこういった甘ったるい匂いは好きではない。可愛らしい香りはそう、梓や、白い小娘が好みそうだ……

 

「ルーシェル、こちらはどうでしょう」


 急に名を呼ばれ、びくりと肩を震わせた。

 こちらを振り返った男の手には容器が一つ、どうやら気に入ったものがあったらしい。それは良いのだが、どうしてこちらに問いかけるのか。


「……何故私に聞く」


 こちらに聞いて何になるというのか。お前の好みなど知ったことではない、気に入ったのならそれまでだろうに。それとも何だ、自分の好みすら自分で決められないのだろうか。……有り得そうで目眩すらしてくる。己の感情を、心があるものとして当然の感情を、斬り捨ててまで善を行う奴のことだ。「自分の為に何かを選ぶ行為」は、そう、難しいのかもしれない。

 

「好きにしたらいいだろう」

 

 そう、主体性のない天使へ溜息混じりに答える。

 それなのに、男はきょとりと目を瞬かせた。


「実際に使う方の所感は必要では?」

「は?」


 何を言われたのか最初理解できなかった。

 所感、所感? 実際に使う人物が最終的に決めるべきである、それはわかる。わかるがしかし、どうして私に聞く。急に一体何を言い出す。


「お前が使うんじゃ、」

「私が?」


 どうして。

 男の顔は不思議でいっぱいと言わんばかりだった。

 いやこちらがどうしてなんだが。


「こういうものは、貴女のほうが似合うでしょう」


 あまりにもさらりと言うものだから。言葉に詰まってしまった。

 …………どうしてこう、そういうことを臆面もなく言えるんだこの男は。首を傾げるな。どうして――どうして? 何故この流れで私のものを選んでいるんだ。いやわかっている、何も考えていないからだ。深い意味なんてない、相手がどう受け取るかなんて欠片も想定していない。不本意ながら傍にいたからこそ嫌というほど骨身に染みてわかっていた、この男はこういう奴だ。素直で清らかな天使の言葉に裏なんてないのだ、ただただ、こちらがその言葉を必要以上に重く捉えているに過ぎない。それだけ、それだけなのに。かあ、と。上昇する体温を止められない。


「へぇ、やたらフローラル系外していくなと思ったら、やっぱりお姉さんのイメージで探してたんだねぇ」

 

 男の後ろで店主がカウンターに両肘を着きにやにやと笑っている。


「うんうん、なるほどねぇ」

「な、んだ、貴様、」

「いやあ、おにーさんの中のお姉さんってこんな感じなんだと思ってね」


 こんな感じとは一体どんな感じだ。

 男が選んだ匂いそのものを把握していないのだから、納得されたとしてもこちらとしては意味がわからない。所感、実際に、それは。男が選んだという香り、それはつまり。頬が熱い、じろりと睨んでも動じもしない店主とは裏腹に、店内にいた見知らぬ客の方がはらはらしている。


「ちょっと冷たくて距離感を感じるイアリスベースってのが、ふーんって感じ。ちなみにお兄さん、練り香水ってのは肌に乗せてみて初めて良さがわかるもんよ?」

「そうなのですか」

 

 うんうん、肘を着いたまま実に楽しげにべらべら喋りだす店主の言葉に、ヨシュアはヨシュアでなるほどと何やら相槌を打っている。何がそうなのですかだ。何やらまた考え込んでいる様子に、嫌な予感がした。

 

「あの、私に塗らせてはいただけませんか」

「なんでだよ!」


 日傘を男へと叩きつける。


「どうしてそうなる!?」

「女性を嗅ぐのはよろしくないのではと、」

「その判断は出来るのに何を言い出すんだ貴様は!」

「ですが、肌に乗せて初めて良さがわかると、」


 予想通りの展開に声を荒げるのだが、天使は難なく日傘を受け止めた挙句引く気はないらしい。どういうわけだか食い下がってくる。あくまでも似合うかどうかが気になるのだと、ふざけた様子もなく真面目に言っているのだ。どうしてこちらが拒否するのか欠片もわかっていない顔である。なんだその困惑顔は。


「なになに、おにーさん触りたいの?」


 にやにやと笑っている店主の爆弾発言に、今度こそ絶句した。何を言い出すのだと思うのに、眼の前には目を見開いてぽかんとしている男がいて、言葉が出てこない。こちらを見ていた男の視線が掌の上にある白磁の容器へと落とされて、しかし何も言わない。そんな事はあるはずがないのに、男は何故か否定しない。

 その場にいた客達が慌てふためいたようにカウンターへと駆け寄っていった。そうしてへらへらと笑ったままの店主に詰め寄る。


「てんちょーさんちょっと……!」

「それは流石にデリカシーというものが……!」

「デリカシーで自覚できるもんかーい」

「それは……そうかもだけど……」

「ああほら黙り込んじゃったじゃないですか……」

「考えることは悪いことじゃないさー?」


 店主、客、小声ではあるものの静まり返った室内では否が応にも聞こえる会話。自覚、だなどと。当人達を目の前にして好き勝手言ってくれるものである。

 どうしてこうこの里の者はそろって他者に対し、こうまで余計な世話を焼こうとするのだろうか。そこまで他人に関心があるのか。

 

「そういう、わけでは……、」


 ヨシュアはと言えば、不思議そうに首をかしげていた。ぽつりと落ちる呟き、言葉は否定ではあるもののいまいち確信を持てない物言いだと思った。触りたい、そういうわけではない――かもしれない。そんな風に言っているように聞こえたのは、聞こえてしまったのは。途端、沸き立つような羞恥が込み上げてくる。叫んで発狂しそうになるのを必死に堪えた。

 

「自分でやる……ッ」

 

 かすれるような声で男の手から陶器をひったくった。ころりとした丸みを帯びた白い容器、ほんのりと暖かいような気がして、じわりと、そこに男の体温が残っているような気がして。放り投げてしまいそうになるのをなんとか踏みとどまる。何をしているんだと、そう思うのに。ヨシュアは「そうですか」と、何やら嬉しそうにこちらを見ているものだから。それ以上何も言えなくなってしまった。思っている以上に絆されている、悪魔なのに。魔王なのに。この男とは敵対者なのに。何故笑える、微笑みかける。私に構う。穢れを排除するのがお前達の存在だろうに、言いようのない感情が胸を締め付ける。きりきりと痛んで、こぼれ落ちた吐息は一体何に対してのものなのか解りもしない。

 

 じっと見つめてくる男に観念して蓋を開けて見れば、そこには白く柔らかそうなクリームが丁寧に詰められていた。ふわりと立ち上る香りは思ったよりも甘ったるいものではなく、不快だと思うほどのものでもない。ほんの少し指先ですくい取って、指をこすり合わせてみればすうっと軽やかにのびていく。

 

「手首か耳の裏に塗るんだよー?」

「うるさい、わかっている……ッ」


 クセの強すぎる店主は相変わらず愉快そうに笑っていた。

 なんで手首と耳の裏になんだとは思うが、注目されている中で手を擦って見せるのはなんとなく嫌だった。このまま逃れられるとも思えず、小さく息をついて手の甲で髪をかき上げる。そうして、すり、と。己の耳朶にこすりつけてみた。ふうわりと鼻先をかすめていく香り、確かにどこかひんやりとしたような、あまり甘さを感じないような気がする。だが、これが似合う香りだと言われてもいまいちよくわからないでいた。


 ふ、と影が落ちる。

 顔を上げれば長い金色が視界に映った。柔らかな空色がこちらを柔らかな眼差しで見つめている。

 

「似合っているようで安心しました」


 こちらへと近づいてきた男は、そう言って満足そうに笑った。笑って、よかった、と。さらに続いたのだがしかし、安心という言葉に引っかかった。妙なことを言うものである。一体何に安心したというのだろう。そもそもお前はどの立場から物を言っているのだ、似合っているとは何だ、お前から見た私とは、……言いたいことは山のようにあるのに、変に意識してしまって結局言葉にはならなかった。ふいと視線をそらす。


「……嗅ぐな、というか近い」


 ぐいと男を押しのける。

 何が女性を嗅ぐのはよろしくないだ。顔を寄せてくるわけではないとはいえ、しっかり確認してくるあたりタチが悪い。普通に失礼だと思うのだが、善意の天使には何も伝わってはいない。ふわふわと嬉しそうに微笑んだまま、言葉の通じない人懐こい大型犬というイメージが更に強くなる。一体何がそんなに楽しいというのだろうか。

 一見奇行にしか見えないような行動も、よかれと思っているのだろう事はわかる。果てしなく善を行う男だ。下卑た下心があるわけではない。どこまでも真摯である。今回の場合、私に似合うかどうかが全てだったのだろう。融通の利かない頭の硬い天使らしい言動。わかってしまうのがまた腹立たしい。積み上がった時間、知ってしまった事。……知らない事。知られたくないこ事。

 はあ、と。これみよがしに溜息をつく。

 慣れと諦めは似ている。それを、不快に思わなかった時点で負けは決まっているのだ。


「…………もう用事は済んだのだろう」


 室内に満ちる、なんとも言えない生暖かな空気に耐えきれず出口へと向かう。男の後ろで笑いをこらえている店主の様子に苛立つものの、今更何を言った所で事態はこれ以上転がりもしない。

 振り返らないまま乱暴に扉を開くとちかりと朱色が目を刺した。傾いた太陽、いつの間にやら夕暮れが差し迫っている。手のひらで影を作って目を細めると、するりと同じように店から出てきた男と目が合った。背の高い男の影がかかる、男は何も言わないのに、ひどく、そう、満足したとでも言わんばかりだった。柔らかな色彩の眼差しに翳りなどなく、隠したようでもなく。どこまでも凪いだ湖畔のように穏やか。


「まいどありー今度はおにーさんの香水も選んだげてねぇ?」


 店主の声を背後に、扉はぱたん、と。

 軽やかな音を立てて閉じた。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

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