13 恋とは、どういうものかしら?
ボリスの頑張り…実るのか?
三十六歩を数えたジェイドの部屋の前で、ボリスは立っていた。
「部屋から王都へ転移するって話だ。もう訪ってもいいだろうか。俺はジェイド嬢と過ごす時間で、運命を決めるんだ。恋をしてもらう。迷わない」
扉が大きな音を立てて開いた。
「最初に謝ります。暴言をお許しください。部屋の前でうろうろして、見物される熊ですか? 食事が足りないんですか? 睡眠不足でしょうか? 欲求不満が全身の毛穴から滲みだしています」
「合ってる。全部だ」
ニーナが誇らしげに胸を張った。はち切れんばかりで、胸のボタンが飛びそうだ。鳩獣人は胸がでかい。
「ジェイドお嬢様の支度が整いました」
廊下の遠くで、アニョーの角が光った。
昨日は朝食後で、アニョーの指導を受けた。ジェイドに伝えたい思いを言葉にして書き連ねた。立ち居振る舞いや顔の角度も、微に入り細を穿って調整した。
「途中からフィンやリッチー親方まで入って、盛り上がった。実体験に則った話は参考になる。辺境部屋は頼りになる」
雑念を振り払い、初めて、ジェイドの部屋に入った。
言葉が出ない。滑らかな肌も、艶やかな黒髪も、煌めきを宿した漆黒の瞳も、互いを高め合うほどに典雅な姿だ。
「普段は、ブラウスにスカートって簡易な装いをジェイドお嬢様は好まれます。特に熊主砦城にに来てからは、ブーツで歩き回っていました。やっと着飾ってくれました」
身体を包む紫紺のドレスは繊細なレースで、腕が透けて見える。華奢な足元にはドレスに合わせた紺の靴が見えた。
頷くだけのボリスに、ジェイドが首を傾げた。
「身体は貧相ですが、ニーナの頑張りで何とか形になりました。ボリス閣下に御挨拶が出来て、安堵いたします。これから王宮に行って参ります」
迷子になった言葉を探って、搾り出す。
「楽しそうだ。嬉しいのか?」
褒めるのを忘れた。レディを見たら、直ぐに姿を称賛すると説いたのはフィンだった。実感の籠った言葉だったのに、実地で忘れてしまった。ボリスは唇を噛んだ。
「はい。久しぶりですし、相撲の話もできます。魔道具を持って行きます。謁見で、コニアス国王陛下にお伝えする事項がありましたら、承りますわ」
血が吹き出すほど、唇を噛み締めた。口の端に、温さが流れた。指で血を拭った。
「何もない」
コニアスの姿を掻き消す言葉は、切り裂く勢いで飛び出した。瞠目したジェイドの前に立つ。
引き留めて、他を見て欲しくないと告げたい。恋を始めて、余所見をさせたくない。優雅な姿を、熊主砦城に閉じ込めておきたい。
リッチーの言葉が蘇る。必要なのは、楽しい時間の共有だ。思い出を辿って、気持ちを引き留める。語るリッチーは、自棄に苦い顔をしていた。上目遣いが効くらしいが、顔の高さが違い過ぎる。目を眇めた。
「なあ、ジェイド嬢は、熊主砦城で楽しかっただろうか?」
出た声に、僅かな非難が混じった。ジェイドが楽しそうにする姿は、常にあった。ボリスがいなくても、満ち足りているようだった。
「熊主砦城にいるのは、楽しいです。毎日が、とても充実しています。特に今は、魔道具も造っていたので、次々としたい事が湧き出して来ていますわ」
屈託のない笑みが、ボリスの心の底に刺さった。ジェイドがボリスを惜しんでいない。何の名残も残さずに、王宮へと向かうジェイドが憎らしくもある。ぐっと奥歯を喰いしばった。
焦燥に駆られて、昨日の指導が吹っ飛んだ。
「俺と過ごして、その、恋しいとか、愛しいとか、感じただろうか?」
「婚約していて、形は整っています。ボリス閣下は何を焦っているんでしょうか? 心までは縛れないと思います。すみません。余計な話です。聞き逃してください。形だけの夫婦ってもの多いと聞きます。喋り過ぎました」
ニーナが明け放した扉から、アニョーの角と拳が突き出ていた。
「フローラは覗いたりしているだろう?」
恋敵の名前を挙げて焦らす。高等テクニックだと囁いたのは、誰だっただろうか。思い出せない。
獣耳を触って、返事を待った。
しばしの潜考の後、ジェイドがゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ちょっとも、考えていませんでした。ああっ、フローラさんのように稽古の後でボリス閣下を追い廻したり、物陰から覗いたりはしません。あれが恋する姿なら、私はできません。時間は有限です」
「俺に時間は割かないのか? ニーナの説教の通りに、確かに心は縛れない。だが、形だけの夫婦にはなりたくない。お互いに、恋をしている婚約者でいたいんだ」
畳み掛ける。一歩を踏み出したボリスの前で、ジェイドが足を引いた。
「私はまだ、思いが追いつきません。恋も様々な形があります。心は縛れませんから、片思いなら一人でもできますわ」
ぶんぶんっと首を振るう。
「辛い恋にはしない。俺は幸せになるんだ、戦いがやっと終結した」
幸せと行きついて、ボリスは拳を握った。幸せを望める時になった。相撲をして、愛しい人が側にいる。逃せない。足を進める。
戸惑う顔をしたジェイドが、指を折った。
「十分に時間をかけて、ボリス閣下の相撲を見学しています。相撲を取るボリス閣下の姿は、好ましいです。摺り足も、四股も、見ていて心が弾みます。てっぽうも好きです。肩の筋肉が、盛り上がって揺れます」
「そうか、よく見てくれていて嬉しい」
今日は引かない。踏み出せば、ジェイドが逃げる。ジェイドの背が、壁に当たった。
「それは、相撲が好きだからだ」
ジェイドの顔の横に手を伸ばし、壁に突く。
この体勢を、アニョーを相手に何度も練習を重ねた。威圧せずに、ドキドキさせる。難しい。両手が効くか、片手が適切か。検討を重ねた。
勢いに任せて、ジェイドの顔を両腕で挟んだ。位置が少し下過ぎた。ジェイドの耳を押さえ込みそうだ。
黒い瞳に獣耳が映った。
「相撲に向き合っている俺のことも、考えて欲しい」
「私は、確かに相撲に夢中です。相撲をするボリス閣下の姿を追います。今は、それで満足しています。ダメですか?」
「ダメだ」
「え?」
驚きが重なり合ってハウリングした。
ニーナが入口まで下がって、扉の陰に隠れた。
角を押さえたアニョーが、背を向けて振り返った。
「ドレスが似合っている。一緒に過ごして楽しかった。相撲を見てくれて、嬉しい。フローラは俺の恋には関わりない。片思いの恋はお断りだ。戦いで誓ったんだ。俺を、辺境騎士団を、救った魔法薬を造った人に愛を捧げる。だがら褒賞に望んだ」
「魔法薬ですよね。私は褒賞の婚約者です」
ジェイドの頬に手を当てた。指に伝わる柔らかさに瞠目した。
「でも、今は違う。婚約者だから、好ましいわけではない。魔法薬も関係ない。貧相な身体なんて言うな。相撲を楽しそうに語るジェイドの姿が、愛おしい」
「呼び捨て!」
アニョーの叫びに、ニーナがメモをしながら拳を振るった。
瞬いた瞳の中に、翡翠の色が混じった。
「ボリス閣下は、私を見てくれているんですね」
ジェイドの翡翠は、思いが昂る時に現れる。熊主砦城で共に過ごして、分かって来た。悲しみでも、苦しみでも、喜びでも、翡翠が過る。慄くほどに美しい。
「相撲を見る目が、俺を追ってもいるだろう。ジェイドの瞳に惹かれるよ」
翡翠の色がボリスに挑んだ。
「しかし、恋とはしようと思ってするのではありません」
ボリスを捉える色だ。離せない翡翠が、見えた。
「ああ、落ちるものだ。俺は落ちている」
壊さないように、そっと、額に唇を落とした。愛おしんでから離れる。
「待っているから、帰って来てくれ」
俯いたジェイドの顔が、張り手の後のように染まっていた。
お読みいただきまして、有難うございました。