005 リーベ、戦場に立つ
フロイデがリーベが逃げた方とは逆へ跳ぶと、直径30センチ程のくちばしが真横を過る。
着地すると、傾斜のせいで危うく転倒しかけた。
もしここで転倒したら、そのままゴロゴロと長い坂を転げ落ち、目が回ったところを襲われる羽目になるだろう。そう直感すると彼は気を引き締めた。
「くっ……」
彼が歯噛みする一方、カラスは苛立たしげな声をあげて振り返る。
「カーッ!」
そのくちばしは先端が鋭く、全体が光沢を帯びていて、西日を受けてギラリと鋭く煌めいた。
フロイデはチラリと胴体を観る。
カラスの脚の付け根を覆う紺色の羽毛には乾いた泥が大量に付着していて、樹上性のカラスとは根本的に異なる生物である事が窺える。その特徴から類推するに、この魔物の正体は――
「……ヘラクレーエ…………!」
「クアッ!」
短く鳴いたかと思えば、またくちばしを伸ばしてくる。
くちばしは真っ黒な上、微妙に湾曲しているせいで距離感が掴みにくい。だがそれでも、経験と勘とで対処する。
右足で踏み込み、攻撃線上から外れる。するとくちばしが彼の袖を撫でる。それでも気にせず、体を90度左に向け、そのまま刺突の態勢に入る。狙うは左眼。視力を奪って有利を取るのだ。
「ふっ!」
刺突を繰り出すと切っ先が眼球を貫く。
ぷちゅりという気色悪い感触に本能的な不快感を催す中、ヘラクレーエは絶叫を轟かせる。
「クアアアアアアアッ!」
傷口から鮮血が滲むと同時に魔物は盛大に仰け反った。
フロイデは反撃を警戒して飛び退いたが、運悪く彼は踵で小石を踏んづけてしまった。
「うわ!」
直後、視界がぐるりと回った――
坂を駆け下りたリーベだが、魔物の絶叫を聞いて振り返ると、まさにフロイデが坂を転がり落ちる瞬間だった。
「フロイデさん!」
(魔法で助けなきゃ!)
慌てて駆け出そうとするも、恐怖で脚が動かなかった。
『ぼくが引き付けてるから、ヴァールたちを呼んできて……!』
彼はそう言っていた。魔物絡みの事件において、冒険者の指示は絶対だ。そう思って踵を返そうとした時、彼女の自制心が――良心が呼び掛けてくる。
(それでいいの?)
そう自問したとき、彼女は自分が理屈ではなく、単に怖いから引き返したくないのだと気付いた。彼女は民間人で、そう思ってしまうのは当然であり『卑怯』と批難されるようなことではない。
そう理解しつつも、もし自分が逃げたら、フロイデはどうなるのかと不安になった。
冒険者たちがどうにかしてくれると妄信して逃げたら、いったい誰がフロイデを護るのか。
今、彼を救える人間がいるとすれば、それは街の何処で何をしているか知れない冒険者ではない。
今ここにいて、魔法が使える自分自身だけだ。
「っ!」
世界を蹴り飛ばすつもりで駆け出した。
展望台からはさほど離れておらず、すぐに駆けつけられた。
肩で息をしながら状況を確認すると、フロイデは坂の下で起き上がろうとしていた。しかし平衡感覚を失くし、酩酊したかのようにふらついている。
一方、ヘラクレーエは潰された左目からポタポタ血を垂らしながら、憎き冒険者の方へくちばしを向けていた。そして今、ぴょんぴょんと跳ねながら移動を開始した。
それを見たリーベは急いでホルダーからワンドを引き抜き、魔法を放つ。
「ええいっ!」
放ったのはこぶし大の小さな火球だった。
こんなちっぽけな魔法では討伐できないことなど百も承知であったが、それでも魔物の気を引ければ十分だ。しかし、狙いが甘く、初撃は足下に着弾した。
「当たれ! 当たれ! 当たれぇっ!」
距離を縮めながら乱発すると、2発が大きな胴体に当たった。
「クアッ⁉」
不意の高熱に短い悲鳴を上げたヘラクレーエは、ビクリと仰け反った後、恨みがましい視線をリーベに向けた。
「ひっ――」
「カアアアアア!」
ピョンと一度の跳躍で詰めてきて、そのままくちばしを――
「うわっ!」
思わず仰け反ると彼女はフロイデと同様にして、坂を転げ落ちた。だが、そのお陰で回避に成功する。
一方、攻撃を外した魔物は敵を見失い、キョロキョロと辺りを見回している。
「……どうしたんだろう?」
リーベは不思議に思ったが、フロイデが左目を潰したお陰で死角が広がり、彼女はそこに転がり込むことで追撃を免れたのだ。だが彼女はそこまで頭が回らず、魔物と同様に混乱していた。そんな時、平衡感覚を取り戻したフロイデが駆け寄って来る。
「どうして、戻って来た、の?」
「その……心配で……」
彼は口を開き掛けるが、言葉を呑み込んだ。それから気持ちを切り替えるように小さく溜め息をつくと、リーベに言う。
「ありがと。あとはぼく1人で大丈、夫」
彼はそう言うが、リーベは戦意を燃やしていた。
「あの、わたし、魔法が使えます!」
フロイデはその言葉にしばし瞑目し、頷いた。
「…………魔法を使うとき、何を使うか叫んで」
「……はい!」
リーベは戦場に立つと不思議と胸が高鳴った。それが勇気ではなく、もっと単純な昂揚であることに気付いた。それは父がしてきたことの、その一端を体験できることに対するものであり、彼女は自分の浅はかさに自嘲した。
しかし、それでフロイデとこの街を守れるなら、それでいいと割り切った。
ワンドを握り絞め、フロイデの斜め後方に陣取る。
辺りには坂も何もなく、動きやすい。戦うには良い環境だ。
「ふう……」
呼吸を整えている間に、ヘラクレーエは2人を再発見していた。
「カッカックアアアアア!」
魔物は鳴き声を発した直後、正面に立つ剣士を目掛けて飛び掛かる。
対するフロイデは勇敢にも脚の下をくぐり抜けて背後へ回り、背中を斬り付ける。
「クアアア!」
不利を悟った魔物は翼を広げて風を捕らえようとする。そんなとき、フロイデが叫んだ。
「リーベちゃん!」
「ファイア!」
頭部を狙った火球は運良く負傷した目に命中した。それは筆舌に尽くしがたい痛みをヘラクレーエにもたらす。全身をびくりと痙攣させ、地面を離れたばかりの鳥が地に墜ちる。
「にゃあああああッ!」
透かさず駆けつけたフロイデが、起き上がり掛けたヘラクレーエの翼を斬り落とす。
「カーッ⁉」
バサリと翼が落ちたその時、ヘラクレーエは静止した。フロイデはその絶対的な隙を見逃すことなく心臓を刺し貫いた。




