第48章 ゲームは終わった、ここから始めよう。
目を開けても、何も表示されなかった。
いつもなら視界の端にあったはずのレベルも、HPも、スキルのショートカットもない。意識を向ければ当然のように開いていたステータス画面も、もう二度と現れない。
静かだった。
あまりにも静かで、最初は耳がおかしくなったのかと思った。
「……終わったのか?」
俺の声だけが、白い基幹領域に小さく響く。
答えの代わりに、目の前に最後の文字列が浮かんだ。
《PLAYER AUTHORITY――DELETE COMPLETE》
《EXTERNAL OWNERSHIP――NONE》
《WORLD-08 INDEPENDENCE――100.00%》
それだけだった。
ファンファーレもない。
経験値もない。
クエストクリア報酬もない。
七つの世界を支配し、何度も人間の生死をやり直してきたシステムは、最後にたった三行を残した。
そして、その三行さえゆっくりと薄れていく。
《WORLD SYSTEM――SHUTDOWN》
消えた。
本当に、それで終わった。
「レオン!」
振り返るより先に、エリシアが飛び込んできた。
「うおっ……!」
勢いを殺しきれず、二人まとめて床に倒れそうになる。どうにか踏ん張ると、エリシアは俺の胸元を掴んだまま顔を上げた。
「……いる」
「何がだよ」
「レオンが」
泣きそうな顔だった。
「消えなかった……」
その言葉で、ようやく実感した。
俺はここにいる。
PLAYERじゃない。
外部接続者でもない。
管理者でも、侵入者でも、異常個体でもない。
ただの――俺だ。
「だから言っただろ」
エリシアの頭を軽く叩く。
「ゲームを捨てても、俺は俺だって」
「……ほんとに馬鹿」
「なんでだよ」
「最後まで格好つけるから」
「結果的にうまくいったんだからいいだろ」
「そういうところ!」
怒鳴りながら、エリシアは俺の服から手を離さなかった。
少し離れた場所では、カイルが深く息を吐いていた。
「……まったく。世界を一つ作り直した男の最初の仕事が妹を泣かせることとはな」
「泣いてない!」
「そうか」
「泣いてないから!」
「はいはい」
カイルが笑う。
俺もつられて笑った。
それだけのことなのに、不思議な気分だった。
ゲームの中でなら、こんな会話はイベントシーンとして処理されていたのかもしれない。誰かが決めた台詞があって、決められた表情があって、一定時間が経てば次のイベントへ進む。
でも、今は違う。
エリシアが怒っているのも、カイルが呆れているのも、俺が笑っているのも、誰かが決めた展開じゃない。
俺たちが勝手にそうしている。
それでいい。
それこそが、俺たちが作りたかった世界だった。
◇
基幹領域を出た瞬間、風が吹いた。
草木の匂いを含んだ、ごく普通の風だった。
「……戻った」
エリシアが呟く。
遠くには王都の城壁が見える。
人が歩いている。
馬車が走っている。
商人が客を呼び込み、兵士が門番をし、子供たちが走り回っている。
何も変わっていないように見える。
けれど俺には、それが何より嬉しかった。
世界を救った結果、世界が劇的に変わる必要なんてない。
明日も店が開く。
学校がある。
腹が減れば飯を食う。
誰かと喧嘩して、笑って、失敗する。
そして死んでも、もう世界は巻き戻らない。
一度しかない。
だからこそ、生きる意味がある。
「レオン!」
聞き慣れた声がした。
城門の前に、一人の少女が立っていた。
リリアだった。
こちらを見つけた瞬間、その表情が崩れる。
「……遅い!」
「悪い」
「悪いじゃないわよ!」
走ってくる。
「絶対帰ってきなさいって言ったでしょ!」
「ああ」
「何時間待ったと思ってるの!」
「数えてない」
「私は数えてた!」
拳が飛んできたので避けようとして――やめた。
胸に一発入る。
「痛ぇ!」
「当たり前よ!」
「世界救って帰ってきた奴への扱いじゃないだろ!」
「知らないわよ、そんなの!」
リリアはもう一発殴ろうとして、その手を止めた。
そして、小さく息を吐いた。
「……おかえり」
一瞬、言葉に詰まった。
ゲームだった頃の俺なら、たぶん選択肢を探していただろう。
けれど今は、そんなものは必要ない。
「ただいま」
俺は自分で答えた。
◇
それから一か月が経った。
世界は驚くほど普通に続いている。
当然だ。
俺たちは世界を救っただけで、そこに生きる人間の人生まで変えたわけじゃない。
カイルは王国側との調整に追われていた。
「俺だけ仕事量がおかしくないか?」
と文句を言いながらも、結局ほとんど全部片づけている。
エリシアは学校に通い始めた。
最初の日には緊張で朝食をほとんど食べられなかったくせに、三日後には友達を連れて帰ってきた。
以前の世界なら、管理者になるはずだった少女。
人格も人生も失って、世界を維持するための装置になるはずだった存在。
そんなエリシアが今、宿題が多いと文句を言っている。
十分だ。
それだけで、俺たちがやったことには意味があった。
そして俺は――。
「兄さん」
「ん?」
「またぼーっとしてる」
夕食の向こう側からエリシアが俺を見る。
「考え事だよ」
「どうせ昔のゲームのこと?」
「まあな」
「まだ覚えてるんだ」
「ああ」
俺の記憶は消えなかった。
前世のことも。
《エンド・オブ・アルカディア》の攻略情報も。
隠し職業の条件も。
ボスの行動パターンも。
全部覚えている。
ただし、もう確認する方法はない。
ステータス画面もなければ、攻略サイトもない。
そもそも、この世界が今後ゲーム通りに進む保証すらない。
「役に立つ?」
「たぶん、ほとんど立たない」
「じゃあ忘れれば?」
「簡単に言うな」
笑いながら答える。
でも、たぶんエリシアの言う通りなのだ。
俺はこの世界に来た時、未来を知っていた。
誰が死ぬのか。
どこで事件が起きるのか。
何を選べば強くなれるのか。
知識があったから生き残れた。
死ぬはずだったレオン・アルヴェインの運命を変えた。
だけど途中から、攻略本には載っていないことばかりになった。
存在しないはずの妹。
七回繰り返された世界。
正規個体。
外部観測者。
世界そのものを書き換える戦い。
最後には、俺自身がPLAYERをやめるかどうかまで問われた。
気づけば俺はずっと、知らない道を歩いていた。
「レオン」
カイルが窓際から声をかけてくる。
「明日はどうする?」
「明日?」
「今後の予定だ。世界も落ち着いた。お前が好き勝手動けるようになった以上、そろそろ決めてもいいだろう」
「……そうだな」
昔なら、次のメインクエストが表示された。
目的地が示される。
報酬が提示される。
俺はそれに従えばよかった。
今は何もない。
視界はどこまでも静かだ。
だから俺は少し考えて、自分で決めた。
「とりあえず、旅に出るかな」
「旅?」
「ああ。この世界、知ってるつもりだったけどさ」
窓の外を見る。
夕暮れの王都。
その向こうには山があり、森があり、海があり、俺がゲームで一度も訪れなかった小さな村や町がいくつもある。
「もうゲームじゃないなら、俺の知らない場所が山ほどあるだろ」
カイルが少しだけ笑った。
「なるほど」
「私も行く」
即答したエリシアに、俺は首を振る。
「学校」
「……忘れてた」
「開始一か月で退学する気か」
「週末なら行ける」
「近場だけな」
「やった!」
「私も行くわよ」
リリアまで当然のように口を挟んでくる。
「なんでだよ」
「監視」
「何の」
「また勝手に世界を滅ぼしかけないように」
「俺が滅ぼしかけたわけじゃない!」
笑い声が重なった。
くだらない会話だった。
世界の命運なんて、一切かかっていない。
それが嬉しかった。
◇
夜。
一人で外へ出た。
星空を見上げる。
以前なら、どこかでこの景色さえデータだと思っていた。
テクスチャ。
背景。
ゲームエンジンが作り出した偽物の空。
でも、もうどうでもいい。
これがデータだろうが、誰かが作った世界だろうが、俺たちが感じているものまで偽物になるわけじゃない。
俺が何者だったのか。
本当に外の世界から来た人間なのか。
それとも、そう思い込むよう作られた存在なのか。
最後まで答えは出なかった。
けれど、それももういい。
誰かに証明してもらう必要なんてなかった。
俺がこれから何を選ぶか。
どこへ行くか。
誰と生きるか。
その積み重ねが、俺になる。
「……長かったな」
最初はただ、生き残りたかった。
ゲーム開始直後に死ぬ最弱キャラ。
レオン・アルヴェイン。
そんな役を押しつけられて、必死で死亡フラグを壊した。
強くなって。
敵を倒して。
未来を変えて。
気づけば、世界の運命まで変えていた。
けれど結局、最後に俺が欲しかったものは大したものじゃなかった。
明日が来ること。
その明日を、自分で選べること。
ただ、それだけだった。
家の扉が開いた。
「兄さん! 明日の朝早いんだから、もう寝なよ!」
エリシアの声。
「分かってる!」
「絶対分かってない!」
「今行くって!」
振り返る。
暖かい光が漏れている。
俺を待っている奴らがいる。
もうクエストマーカーはない。
セーブポイントもない。
やり直しもない。
攻略情報も、正解の選択肢も存在しない。
それでも。
いや。
だからこそ――面白そうだ。
「さて」
俺は歩き出した。
「明日は、どこへ行こうか」
返事をするシステムは、もう存在しない。
代わりに、家の中から仲間たちの声が聞こえてくる。
それで十分だった。
俺のゲームは、ここで終わった。
そして――。
レオン・アルヴェインの人生は、ここから始まる。
――完




