5 明暗の境
武官の登用試験を受けるかどうか、月瑤は保留にしていた。わたしも天璟様も、月瑤ならどうせ受かるだろうと疑っていない。
「アタシ……試験、辞退します」
「えっ」
思わず声を上げてしまった。月瑤の両肩に掴みかかる。
「どうしてですか!? 武官になるために、こんなに月瑤は頑張ってきたのに……!」
まさかわたしのせいで……!?
「清蘭様……」
わたしの焦りに、月瑤は目をぱちくりさせてから、幼子を諭すように優しく首を横に振った。
「守りたいものができたんです。これは恩返しとか誰かのためとかじゃなくて、アタシの意思です」
わたしと同じだ。一族の期待に応えること──皇太子を産むことを、自分の意思を優先して諦めた。彼らにはまだ何も言っていないが、いずれ宣言しなければいけないときが来るだろう。
「月瑤……」
真っ直ぐと見据えてくるアクアブルーの瞳。わたしのせいだなんて、むしろ驕っていたのだと気づかされた。
「アタシはまだ清蘭様の女官でいたいです……お側に置いてくれますか?」
「当たり前でしょう!」
わたしは月瑤を抱きしめた。彼女も遠慮がちにわたしの背中に手を回してくれる。
「まぁ、そんなことだろうとは予想していた」
天璟様に振り返ると、腕を組んでわたしたちを見守っていた。天璟様に約束をさせ、反故にする形になってしまったにもかかわらず、彼は寛容に受け止めてくれた。
「では、私もそろそろ戻るとしよう」
「あ、そこまでお見送りします!」
「別にいい」
「でも……」
お見送りを断られるとは思わず食い下がる。天璟様は困ったように笑った。
「代わりに、釣れたらご馳走してくれ」
「……はい! 必ず!」
うまいこと言いくるめられてしまった気がしないでもないが、わたしたちはその場で天璟様を見送った。
再度釣り竿に向かい合ったものの、まったく釣れないまま日が暮れた。足元狙いだったので、竿を振らずに右手を痛めることもなかった。
一度海月宮へ退散し、腹ごしらえをしたのち、手提げ灯籠を持ってわたしは夜の桟橋にやって来た。月瑤は三人分の釣り竿を持ち、雪瑛はタモとバケツを持っている。
……なんだか、一人で夜釣りをしていたときみたい。
あのときは月瑤と喧嘩別れして、雪瑛に海に突き落とされた。
一瞬硬直する体をなんとか動かして、二人に向き直る。雪瑛は地面に視線を落としていた。
「今回、お二人にはアジングに挑戦していただきます」
「アジング?」
わたしは左手で手提げ灯籠を置き、月瑤から竿を受け取る。
竿は軽く、糸とリールもそれぞれセッティングしてある。釣り針には既に重りが付けられており、確認したところ一グラムだった。前世で使っていたアジング竿はやっぱりなかった。
「これが擬似餌になります」
「なんですか? それ……」
雪瑛が嫌そうに顔をしかめた。わたしの女官になったので、喋り方が敬語に変化している。
ミミズのような形をした、ピンク色のワームだ。他にも白、青、緑などがある。
「小魚を模しているんです」
「こんな魚が海にいるんですか……?」
信じがたい表情をする雪瑛にわたしは「いるんです」と大きくうなずいてみせた。
「これを針に刺します」
ワームは頭と尻尾のように頭側が太く、尻尾側は細くなっている。太いほうから針を食い込ませ、針がワームの中心ぐらいまで入ったところで、針をワームから出す。針がついた擬似餌の出来上がりというわけだ。
月瑤と雪瑛も見よう見まねでワームを取り付けにかかる。
「これ、結構難しいです……」
雪瑛は苦戦しながらもなんとか取り付けることができた。
「それでは投げ方ですけれども、後ろに人がいないか必ず確認してください」
月瑤と雪瑛は言われて後ろを見た。もちろん誰もいない。
「まず、手元の釣り糸を軽く人差し指で押さえます。それからベールを起こします」
「ベール?」
「糸巻きを覆っている半円型の銀の部分ですわ」
首を傾げる月瑤に指で示す。二人はベールを起こし、カチッと音が鳴った。
「この状態で釣り竿を振りかぶり……下ろす瞬間に人差し指を糸から離します! ……いたっ!」
シュルルル!
フリー状態の糸は夜の海へ消えていった。少ししてぽちゃん、と着水した音が聞こえる。
「清蘭様!?」
月瑤が駆け寄ってきた。右手首がまだ治ってなくて痛い。実演はできてよかった。
「そのアジングとやらはやめたほうが……」
「大丈夫です、右手は糸を巻くだけなので。痛いのは投げるときだけです」
「それなら、アタシが投げるのやりますから」
「……そうですね、お願いします」
心配する月瑤の提案を飲み、わたしは左手で釣り竿をぎゅ、と持つ。
「仕掛けが海に入って、糸が出ていかなくなったらベールを元に戻してください。そしたらゆっくりと糸を巻く、それだけです!」
「わかりました」
月瑤は体の使い方が上手く、すぐにキャスティングを覚えた。雪瑛は真下にボチャンと仕掛けを落下させ、何回か投げ直していた。
三人で桟橋に横並びになって、魚を待つ。
手提げ灯籠の明かりが常夜灯の役割を果たし、明るくなった海に魚が集まっているのが見える。しかしあたりはこない。
「清蘭様が仰っていた釣りはこれなんですね」
雪瑛が話しかけてきた。すごくむずむずする。
「雪瑛、三人だけのときは堅苦しい感じやめませんか?」
提案すると雪瑛はプッと吹き出した。月瑤はうんうんと深くうなずいている。
「そうね、ありがとう、そうさせてもらうわ。私もなんか変な気分だったの」
「それがいいですよ。アタシも急に雪瑛様を同僚扱いするの、気が引けます」
切り替えが下手なわたしたちは笑い合った。ぐるぐると巻いていた糸はあっという間に手元に戻ってきてしまう。
「海の明るくなっている部分と暗い部分の境目を狙うといいですよ。明かりに寄ってくる小魚を食べにきた魚を狙えます」
「今回の狙いはなんですか?」
月瑤に尋ねられ、待ってましたとわたしは声を張った。
「アジです!」
「アジ好きですねぇ」
月瑤は呆れながらわたしから海に視線を戻した。めげずに月瑤に熱弁する。
「旬ですから! この時期のアジは本当に美味しくて……」
ビビビッ!
まだ言い終わってないのにわたしの釣り竿が大きく震えた。
「あたりましたわ!」
ちょうど擬似餌が手元に戻ってきた月瑤と雪瑛は釣り竿を欄干に立てかけて、わたしの両隣に来てくれた。
アジは口が柔らかい。強引に糸を引けば、口が切れて逃げられてしまう。慎重にリールを巻いていく。
……重い!
竿を支える手が左しか使えないから更に……!
「ん? アジですか? あれ」
月瑤は怪訝そうに目を細める。
だんだんとかかった魚が姿を現してきた。大きな魚影はバシャンバシャンと左右に暴れる。
エラ洗い!
「シーバスです!」
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