第一話 釣りに行かせてください!
海に接した大国──碧海国。
時の皇帝・天璟様は、わずか二十歳にして自身の後宮を持っていた。後宮では、次期皇帝を作るため、多くの女が暮らしている。出入りする男性は、生殖機能を失った宦官か、身分のある者のみ。
わたくし──清蘭も、後宮にいる姫の一人だ。
十八歳のわたくしは、後宮にいる女の中では、皇后の次に位が高い四夫人の地位を与えられている。それでもわたくしは危機感を覚えていた。
天璟様は、後宮にいる、どの美しい女とも、夜を過ごしたことがない。
女たちはみんな、自分の子供を皇太子にしようと躍起になっているというのに、天璟様のお立ち寄りがなくては、話にならない。
わたくしは、一族全員の期待を背負って、皇太子を産むために、後宮入りしているのだ。
四夫人の中でも一番下の位──賢妃であるわたくしは、他の三人を出し抜けないかと、まだ太陽が高く昇っている時間にもかかわらず、女官を二人率いて、天璟様の執務室へ向かっていた。
もう執務室が目と鼻の先、というときに、向かい側から宦官と、一歩下がって金髪の女官が歩いてくるのが見えた。
何やら細長い棒状のものを持っている。
「これは、賢妃様」
宦官と金髪の女官が拝礼をする。
「何、あの金髪……なんだか下品だわ、それにどうして宦官と一緒にいるの?」
「男を誘惑するための色かしら?」
後ろの女官が、金髪の女官について囁きあっているので、わたくしは嗜めるように睨みつける。二人はわたくしと目が合うと、すぐに口をつぐんだ。
「それは……何かしら?」
わたくしは、宦官が持つ棒状のものを指差す。棒の長さは、両腕を広げたときの長さよりも長そうだ。わたくしから見て左端は太く、右端は細い。弓のように糸が張ってある。
何より、太い端のほうには、糸巻きのようなものがくっついている。それが異様さに拍車をかけていた。
「わからないのです。この後宮から馬車で四半刻(約三十分)走ったところにある、もう使われていない海月宮の整理をしていましたら、発見されたものです。こちらの処遇について、陛下に判断を仰ぐところでございます」
「少し、触れてみても?」
恐る恐る手を伸ばす。細いところを持ったら折れてしまいそうなので、太い端を両手で持ってみる。
「……っ!?」
瞬間、脳裏に閃光が散った。
思い出されるのは、雨の日のアパートの階段。
足を滑らせて、階段から落ちて、頭から思いっきり打って、それから……。
──これは、前世の記憶?
そうだ、“わたし”は日本の普通の派遣社員だったけれど、足を滑らせて頭を打って死んでしまったんだったわ……。
ハゼ釣りに行ったものの、雨が降ってきたから退散した休日。
死んで、後宮の姫として生まれ変わったということ……!?
「……どうされましたか? 賢妃様?」
宦官の心配そうな声で我に返り、自分の手の中にあるものを見つめる。
……これは釣竿だ。
しかも、わたしが前世で使っていたものと似ている。後宮にこんな時代外れのものがあるなんて。
ドクン、と心臓が高鳴る。
魚が掛かったあのビリビリとした感触が、釣竿越しに思い出される。
家族の期待を背負って、後宮入りして、皇太子を産むことを望まれているわたしだけれど、前世の記憶を思い出した今、そんなことはもう、どうでもよくなっていた。
……釣りがしたい……!!
とにかく釣りがしたい……!!
「これを、どこで?」
「海辺にある海月宮でございます。過去には、過ちを犯した姫様を折檻する場所として使われていたようでございますが、ずっと使われておらず……。綺麗にしましたから、普通に生活は、できそうな場所でございます」
つまり、寝床やキッチンなどは揃っているということだ。
しかも、海辺にあるだって……!?
海月宮に行けば、他の釣り道具だってあるかもしれない……!
なんて夢のような宮殿なの!?
もう跡継ぎがどうとか、どうでもいいわ!
わたしはそこに行きたい!
「わたしも、天璟様のところへ伺う予定でしたの。共にしてもよろしくて?」
「もちろんでございます」
宦官は拝礼をしてから、天璟様の執務室の扉を叩く。中から低い声で「入れ」と声がした。
「失礼致します」
部屋の中は、手前に来客対応用のローテーブルと、ローソファーが並べられており、その奥には、執務机と椅子があるだけだ。
天璟様は執務机に向かったまま、顔も上げなかった。
綺麗な黒髪を適当なポニーテールに束ねている。政のときは、もっと丁寧な結い方をしていたが、仕事中は視界に入ってくるのが煩わしいだけのようだ。
整った顔立ちが勿体無いくらいの無表情。お茶会で聞いた話だと、わたしを入れた四夫人の誰も、彼が表情を崩したところを見たことがないらしい。
「なんだ」
冷徹な声だけが、わたしたちを動かす。
宦官はわたしを見やった。階下に用事があるならお先にどうぞ、ということだ。
わたしは宦官の視線に頷いて、彼の手から釣竿を奪い取った。
「えっ」
驚いて声を上げる宦官を無視して、わたしは釣竿を大事に持ちながら、天璟様に告げる。
「天璟様、わたしを海月宮に住まわせてください」
「……はぁ?」
ようやく、天璟様が書類から視線をわたしに移した。
その場にいた他の全員がわたしを驚きの目で凝視している。
「どうしても、釣りがしたいのです。この釣竿が、海月宮で見つかったらしいです。聞けば、海に近い場所にある宮殿だそうで。わたし、そちらに移住して、釣り三昧の生活が送りとうございます」
「……自分の立場を分かっているのか?」
天璟様は、ようやく理解が追いついたらしく、それでもなお、驚きが隠せない声色で尋ねてきた。顔は厳ついままだが。
わたしは頭を下げる。
「もちろんでございます」
「……なら、後宮の姫を、離宮に住まわせることで、私に何の徳がある?」
王としての圧を感じさせる低音が、わたしの背中を撫でた。
……ここで負けてはいけない。
海辺に住んで、釣り三昧の生活をするという、理想郷がかかっているのだ。
「天璟様に、美味しい魚料理を振る舞います」
「美味い魚!」
ハッ、と天璟様は大きく鼻で笑った。
「私が魚嫌いなのを忘れたか! あの骨が喉に突っかかる嫌悪感、臭み、苦味。美味い魚などとは出会ったことがない!」
「……羨ましいことでございます」
「……何?」
わたしは顔を上げた。
「あの美味しさの感動をまだ存じ上げないなんて、羨ましいことでございます。天璟様は、これから初めて、体験されるんですね」
自分で釣った魚なら、美味しさは倍増される。
「…………」
「魚とは、季節によって味が異なり、調理法によって、良さが引き出されます。本当に美味しい魚を、わたしが天璟様に教えて差し上げます」
わたしは再び頭を垂れる。
「…………」
後ろで、宦官や女官たちがひどく怯えているのが伝わってくる。
正直、ここで首を刎ねられても、おかしくないかもしれない。
それでも、わたしはこのチャンスを絶対にものにしたかった。
「……面白い」
くっくっ、と押し殺したような笑い声が聞こえ、わたしは天璟様を見た。
いつも仏頂面でニコリともしなかった天璟様が、笑顔になっている。
天璟様って笑うのね……。
天璟様も全員がびっくりしているのに気付いたようで、すぐにいつもの無表情に戻った。
「いいだろう! その釣竿で釣った魚を私に食わせて、美味いと言わせてみろ! そうすれば、海月宮への移住を許してやる!」
「ありがとうございます」
わたしは釣竿を持ったまま、拝礼をして退出した。唖然とした宦官と金髪の女官は天璟様の執務室に残り、わたしが連れていた女官二人は慌ててついてきた。
「ど、どういうおつもりですか、清蘭様!?」
「それでは、わたしは釣りに明け暮れてまいりますので、後宮のことはお任せしますわ」
「清蘭様〜!!」
呼び止める女官たちの声を置き去りに、わたしは後宮を出発した。
***
天璟の執務室に残された宦官と金髪の女官は、呆気に取られたまま、立ちすくんでいた。
「それで、お前たちはどうした?」
天璟の呼びかけで、ハッとした宦官は、釣竿の処分について尋ねに来たことを説明する。
「用事が済んでしまったようだな」
「そうなりますね……」
「ああは言ったが、私の妃には変わりない。何かあったら、私の面目が潰れてしまう。清蘭妃に護衛を付けてやってくれ」
天璟に言われ、宦官は金髪の女官を見る。
「そういえば、お前は武術の心得があるんだったよな?」
「お前じゃなくて月瑤です。何度も、武道が得意だと言ってるじゃないですか。アタシは武官希望だって。いい加減、推薦してくれませんか?」
「よし、賢妃様の護衛をして、成果が出せたら考えてやる」
「厄介払いしてるだけですよね? そう言われたら、やらざるを得ないですけど」
護衛の成果なんて、出ないほうが平和なのだが。
月瑤はその言葉を飲み込みながら、宦官と共に礼拝をして、退出するのであった。
バタンと閉まった扉を見つめて、天璟はようやく「ふぅ」と息を吐いた。
「人がいると緊張する……」
そう言って、天を向き、両手で顔を覆った。
それは、王とは程遠い、一人の弱気な青年の姿であった。
天璟はなりたくて皇帝になったわけではない。
前皇帝である父親が、突然死んでしまったのだ。父の死は、暗殺も疑われたが、過労という判断が下された。真面目な父らしい終わり方だと思った。
故に、何も心の準備ができていないまま、いきなり位が与えられた。
後宮も、臣下たちから「この中から後宮入りする女を選んでください」と言われて、適当に選んだに過ぎない。
誰でもいいから、と選んだ女たちと、いきなり子作りをする気には到底なれず、形だけの後宮となってしまっていた。
「いけない、誰が聞いてるかも分からないからな……」
小さく独り言を呟いてから、天璟は仏頂面を作り直し、背筋を伸ばす。
母は父より先に他界しており、急に政界へ放り出された天璟は、誰が味方で誰が敵かも判別できていなかった。
まだ若い天璟を利用とする輩は大勢いる。その悪意を見定めなければいけない。
それができないなら、誰も信用はできない。
そう、天璟は後宮にまだ、心を許せる人間が一人もいなかった。
自分の身を守るため、王として振る舞うため、隙を見せないように、表情は一貫して引き締めていたのだ。
そんな中、ふと、破顔してしまったことを思い出す。
「あんな自信を、私も持ってみたいものだな……」
絶対に美味しい魚を食わせてやる、と豪語した清蘭。
今の天璟に、そうやって何かを成し遂げると断言できるだけの自信は、まだない。
とにかく、目の前の仕事を片付けるのみだった。
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