9
朝目が覚めて、一番に思った。目の下のクマは大丈夫だろうか。
結局、ちゃんと眠りにつけたのは、部屋の電気を消してから一時間以上も後のことだった。
東京に行く、新宿に行く。池袋にだってきっと行く。だというに、目の下にクマがあったら、きっと周りの人から笑わられてしまう。
不安な気持ちを抑えながら鏡を見る。クマは……平気だった。
朝食と洗顔を済ませて部屋に戻る。家を出なくてはいけない時間までまだ余裕はあるけど、ここからが朝の支度の本番だ。そして、実際に東京に行く前の、最大の楽しみである。
ニヤける顔もそのままに、私はクローゼットのドアを思い切り開け放った。自慢のコレクションが、目の前に広がった。
今日のコーデは、もう昨日のうちに決めてある。だけど、いっぱいの洋服を目の前にすると、やっぱり別の組み合わせがいいんじゃないか、なんて悩んでしまう。
いくつかを手に取ってみたけど、昨日の私を信じることにした。音符柄のついたスカート、さりげないリボンのついた黒のニーソックス、ふんわりとした丸襟のブラウスと、ファーのついたブラウンのコート。これだけでも十分だけど、手は抜かない。東京の女になめられるわけにはいかない。
足の先から手の指先までこだわりたかった。手の指の爪には、薄ピンクのマニキュア。あんまり派手なのは好きじゃないから、これくらいの色がちょうどいい。十本の指すべてに塗り終えて、手のひらをかざした。色のムラもなくて、思わず一人うなずく。
次に、念入りに髪をコームで梳かしてから、アクセサリーのたくさんついたヘアゴムで、左右で二つにまとめるように髪を束ねる。あとは薄い色付きのリップと、コンシーラーで気になるところだけ隠して完成だ。吉野たちみたいに派手なメイクなんてしなくたって、私は十分勝負できる。
高鳴る気持ちを抑えつつ、全身鏡の前に立つ。そこに写る私を、私は見た。
これ以上ない、完璧な私がそこにはいた。
もし、この鏡の中の私を見て可愛いと思えないやつがいたとしたら、たぶんそいつは、目か、美的センスが腐っている。
鏡の前で、一回転ターンを決めてみる。原宿でも歩いたら、スカウトされちゃうんじゃないかな。そんな気がした。
待ち合わせ場所にした駅前に行くと、普段山に行く時と変わらない、ラフな服装をした高垣の姿があった。近くに保奈美の姿を探したけど、まだいないようだった。
「おまたせ」
「おはよ」
「保奈美が最後って珍しいね」
私たちが待ち合わせる時は、必ず保奈美が先だった。私が駅に着いたのは約束の三分前程度で、決して早すぎる時間ではない。いつもの保奈美なら、絶対に先について待っているはずだった。
保奈美も東京行きに張り切って、準備に時間をかけ過ぎてしまったのだろうか。
それでも、時間に律儀な保奈美のことだから、どうせそのうちに来るだろう。そう思いつつ保奈美を待つ。高垣と二人で待つのは、まだ少し気まずい。時計に目を落として、時間が過ぎていくのをただ眺めた。
二分前、一分前、そして……
待ち合わせの時間になっても保奈美は現れなかった。
胸の奥で焦りが顔を出し始める。保奈美が時間になっても来ないことなんて、一度だってなかった。やがて三分が過ぎたところで、「安川、どうしたんだろうな」と、高垣が不安げにつぶやいた。その言葉に、いよいよ何かあったのかと心配になって、『大丈夫? あとどれくらいで着けそう?』とメールを送った。
返信が来たのは、そこからさらに五分後。『ごめん。やっぱり、今日行けなくなった。』と、保奈美にしては、あまりにもそっけない文面だった。
何があったんだろう。考えてみても、それらしい答えは浮かばない。約束を破ることも、このあっけない文面も、全部が保奈美らしくない。
どうしたの? と訊きたかったけど、なんとなく訊くのが躊躇われて、『分かった』とだけ返した。
「保奈美、来れなくなったって」
口にしたら、急に心細くなった。昨日の夜のメールのやり取りが思い出されて、虚しくなる。
行きたい場所を二人で話し合ったのに。今日のコーデだって、見せ合いをしようって約束したのに……
今から、保奈美の家まで様子を見にいける時間はない。高垣は小さく「そっか」と言った。
ほんの三十分前まであれだけ浮かれていたのが嘘みたいに、気持ちが沈みきっている。保奈美のことを少しだけ恨んだ。
「どうしよっか」
保奈美が来られなくなった今、ここにいるのは二人だけだ。高垣と私、二人だけ。これじゃあ、美術室の沈黙の時間と変わらない。
「でも、トークショーは今日だけなんだろ?」高垣は、こんな時でも落ち着いた声で言った。
「うん」
天月そらのイベントは、今日の昼前からの一回きりだ。それに、東京へ行くための新幹線のチケットだってもう取ってしまった。保奈美のはもったいないけれど、私たちのものまで無駄にはしたくなかった。
「じゃあ行こうよ。安川さんは残念だったけど、俺たちだけでも行かないと」
「……うん」保奈美がいないのは残念だし、何があったのだろうと心配もしている。けどそれ以上に、この男と二人きりで東京に行くことが、とても耐え難いことに思えた。
今から新宿に着くまでの時間、いったい何を話せばいいのだろう。いや、そもそも話だってしたくない。だけど、新幹線のチケットは三人横並び席を取ってしまった。
「ほら、早く行かないと新幹線間に合わなくなるぞ」
そう言って、高垣は駅のホームに向かって歩き出す。嫌だったけど、ようやく掴んだ東京行きの機会を手放すわけにはいかなかった。これからの時間を憂鬱に思いつつ、高垣の後ろをついて歩いた。
東京に行く――その時をずっと楽しみにしてきたはずなのに。今の私の中にある感情は、高揚感とは程遠い。なんでこんな思いをしなくちゃいけないんだろう、と高垣の背中を睨む。
そうだ。こんなやつ、他人だと思えばいい。たまたま隣にいるだけの、赤の他人。そう考えるようにすれば、少しはこの憂鬱も少しはマシになる気がした。
高垣に先導されて電車に乗る。周りには、これからどこかに遊びに行く家族や友人の集まりがいて、この古臭い車両の中を賑やかしている。周りがうるさいおかげで私たちの沈黙が露骨になることはなかったけど、それでもなんだか針のむしろにいるような気分だった。
ただじっと座席に座って揺られていると、やがて新幹線の乗車駅に着いた。実際に乗っていた時間は三十分程度だったけど、体感的には何時間も揺られていた気分だった。
ここは県内では一番大きな駅で、年に何度も遊びに来る。だけど今日は、ここがゴールじゃない。いつもとは違う乗り換え用の改札を出ると、高揚感があった。新幹線の乗り場のコンコースを、私たちは並んで歩く。隣を歩く男の顔を見たら、そんな高揚感はすぐに消えた。私がどんなペースで歩こうと、こいつは必ず私の横をついて歩く。それがまた私をムカつかせていた。
新幹線のホームまで着くと、出発の時間までは余裕があった。立って待つのも億劫で、私たちは待合室に入り、そのベンチに座った。
待合室は静かで、ずっと隠れていた私たちの沈黙が顔を出した。耐えかねたのか、高垣が訊いた。
「遠藤はさ、東京には頻繁に行くのか?」
「ううん、全然。たぶん、小学生の時以来だと思う」
「意外だな。遠藤のことだから、もっと頻繁に行ってるのかと」
「親が全然連れて行ってくれないから。小学生だけじゃ新幹線なんて乗れないし、中学校に入ってからも、なかなかきっかけがなかったし」
「なるほどな」そうあいづちを打つ高垣は、何か納得をしたような顔をした。「じゃあ今日は、念願叶って、って感じだったのか」
「まあね。そんな感じだった」
だった、の部分を私は強調した。
こんな話、今はしないで欲しかった。今の自分の立場が思い出されて虚しくなる。高垣は、困ったような表情になった。
「そんなに気落ちした顔をするなよ。ずっと憧れてたんだろ?」
「うっさい」
一言拒絶を告げた後、携帯を開いて画面の中に視線を逃した。高垣は諦めたのか、新幹線が来る時間になるまで、それきり話しかけてこなかった。
新幹線の席は、私が窓側を取った。理由は単純で、窓から景色を見たかったからだ。景色に興味があるのもあったけれど、視線を窓の外に逃せば、隣に座る高垣の方に意識が向かずに済む。三人分の席を二人で使えるおかげで、真ん中の席は荷物置きとなった。私は窓際で、高垣は通路側。たったひと席分の間隔が、実際の距離以上に、遠く離れているように感じられた。
移動中の新幹線はトンネルの中ばかりを走るせいで、ろくに景色も見られなかった。トンネルの中を走るときは、ゴオオと音がうるさいし、イヤホンから流れる音も聞きづらい。移動中はもっぱら、携帯をいじるか、目を閉じて過ごした。たまに気になって高垣の方を向くと、真面目ぶって本を読むか、英単語帳に目を走らせていて、それがまたムカついた。
九十分ほどが経ち、いよいよ暇をつぶすのにも飽きてきた頃、ようやく新幹線は東京駅に到着した。こんなやつと一緒だけど、それでも「東京」という言葉の響きに浮き足立つ。ぞろぞろと席を立ち上がる人混みに混じって、私たちは外に出た。一歩、駅のホームに足を踏み出した瞬間に顔を撫でた空気が、まるで別の世界のものみたいに、違う味がした。
東京駅に来るのはきっと初めてではないけれど、思い出せる限りの記憶にはなくて、ただただ圧倒された。
人が多い、人の歩幅が大きい、視界に飛び込む文字が多い。着いたら真っ先に新宿に行くと決めていたけれど、どこに向かって歩けばいいのか分からずに、新幹線の改札を出たところで立ち尽くした。
「新宿までの行き方、分かる?」バカにされそうで嫌だったけど、背に腹は代えられない。
高垣は携帯を開き、路線案内を確認した。
「ええと、中央線っていうのに乗ればいけるらしいけど……」
高垣は携帯から視線をあげて、目の前の景色を見た。圧倒され、言葉を失っているように見えた。
人は多いし、うるさいし、どうしたらいいのか分からない。すごく大きなものに自分が巻き込まれているみたいで、この中では私は、たぶんなんの力も持たないのだろうと思った。
けれどそれは、不思議と嫌な感覚ではなかった。今、私は東京にいる。憧れ続けた、その場所にいる。そう実感ができた。
ドクン、と胸が高鳴った。まるで私の心臓が、飛び跳ねて喜んでいるみたいだった。
新宿の駅に着いたのは、東京に着いてから三十分以上が経った後だった。どうしても路線が分からなかった私たちは、駅員さんに道を訊き(訊きに行ったのは高垣一人だが)、そこからも少し迷いつつ、どうにかやっとの思いでたどり着いたのだった。
新宿は東京駅以上だった。人の多さも、うるささも、道の複雑さも、何もかも。電車を降りる瞬間から他人と身体がぶつかって、とにかく人波に流されるように歩くしかない。まるで、子供の頃に入った流れるプールみたいだ。
流されるまま歩くと、地下にある通路に着いた。そこでまた、唖然とした。地下にはホーム以上の人の数。まさに、雑踏だ。ぽかん、と口を開けながら、人ってこんなにいたんだ、なんてことを思った。
呆然と立ち止まっていると、後ろからどんどん人が当たって来る。どうしていいか分からなくて、とにかく高垣の後をついて歩いた。
そうしてしばらく進んでいると、人の流れに合わせて歩けば、この混雑も気にならなくなってくることに気づく。だんだんと人混みの混乱も落ち着いてきて、少しずつ周りを見る余裕が出てきた。壁に貼られた大きな広告や、すれ違う人たち。何もかもが、私の知っている世界と違う。
新宿駅の構内を歩く人々は、とにかくカップルが目立った。腕を組んだり、寄り添うようにしながら歩く彼らを見て、ふと思った。はぐれないように、ぴったりとくっついて歩く私たち二人は、周りからはどう見られているんだろう。
わざわざ客観的に考えなくても分かる。こんなに気合の入った格好をして、これではまるで、デートに張り切っている女みたいじゃないか。
そう思ったら急に、今着ている服とか、高垣の隣を歩いていることが恥ずかしくなってきた。別に私は、こんな男のためにこの服を着ているわけじゃないんです。道行く人ひとり一人に説明して回りたい。
高垣が、私がついてきているかを確認するため、こっちを向いた。その顔が、怪訝そうに歪んだ。
「なに急に不機嫌になってんだよ」
「別になってないし」
「やっぱり、嫌いな男と一緒に歩くのは嫌か?」
そういうことを、平気な顔で言えてしまうあたりが嫌いだ。こいつと話をしていると、やっぱりすごくむしゃくしゃする。黙っていると、高垣が続けた。
「最初から安川さんだけ誘えばよかったのに、なんで俺も誘ってくれたんだ?」
「東京に女子二人だけで行くのは不安だったから……それに、高垣なんてただの荷物持ち要員だし」
そんなことを口では言いつつ、正直なところ、どうして高垣を誘ったのか自分でもよく分かっていなかった。自分で誘っておいて不機嫌になって、自分勝手だっていうことくらい、自分だって分かっている。
「いいよ、別に。荷物持ちでも、道案内でも。――あ、たぶんこっちだな」
高垣は何かを見つけると、急に歩く方向を変えた。今の高垣は、自分の言葉の通り、本当にただの道案内になっている。
こんな扱いをされて、怒らない方が不思議だ。嫌な顔一つせずに道案内に徹しているのだから、わけが分からない。なんで怒らないんだ、とムカついている自分がいることに気づいて、また分からなくなった。
「変なやつ」
私がつぶやいた声は、たぶん彼の耳まで届いていない。
トークショーの結果は、散々だった。CD屋のイベントスペースで行われたそれは、配られた整理券を受け取ったものだけが参加できる仕組みになっていた。当然その仕組みは知っていたし、そのために早く家を出たのだけど、それでも私たちが着いた頃にはすでに整理券は無くなってしまっていた。せっかくここまで来たのだから、とイベントスペースの外から音漏れを聴いてみたけど、肝心の本人の姿は見えなかったし、話の内容も半分くらいしか聞き取れなかった。
これでは、完全に不完全燃焼だ。
店の入っているビルの外に出て、ふう、と息を吐いた。
「これからどうする? 夜の新幹線までは全然時間あるけど、新幹線の時間、早められそうなら早めちゃう?」
東京まで来た元々の目的は、このトークショーだ。わざわざ東京まで出てきて、こんな結果で終わるのは残念だけど、保奈美がいなければ、のんびり観光という感じでもない。そう思っていたら、高垣は心底不思議そうな顔をした。
「なんでだよ。せっかくだし、観光しようよ」
「本気で言ってる? バラバラにってこと?」
「そりゃあマジだよ。それで、一緒に」
面食らった。高垣の口調は何気ない風だったが、それとは裏腹に、やけに真剣な顔をしていた。嫌だよ、なんて、いつもの調子で言えなくなる。
「まあ、いいけど……」
調子が狂った私は、思わずそううなずいてしまっていた。
高垣との東京観光は、結局予定通りのプランで行くことにした。
保奈美は来れなかったけど、少しでもお土産話ができればいいと思って、まず池袋に行った。池袋のことは保奈美に任せるつもりだったから、面白そうな場所が分からずに、その場で調べながら歩くことになった。
ずっと保奈美が行きたがっていたアニメのお店に行って、その大きさに驚く。ただの専門店でこれほどの大きさなんて、私の地元じゃ絶対にありえない。お店の中には私と似たような服を着た女の子がいっぱいいて、それでまた感動した。保奈美があれだけ行きたがっていたのもうなずける。
店内はほとんど女子ばかりで、男子の姿はほとんどなかった。隣を歩く高垣が、肩身が狭そうにしているのが笑えた。ずっと私のペースに合わせて歩いていたのに、店内ではやけに速足だった。
店を出ると、げんなりした顔の高垣が緊張を解いたように息を吐いた。
「なんだか、新しい世界を見つけたみたいな気分だ」
「高垣はあんまりアニメとか見ないの?」
「まあな。興味がないわけじゃないけど、まるで縁がなかったんだよ」
「そんな気がする」
どうせ家の手伝いや勉強が忙しくて、見る暇がなかったとでも言うんだろう。アニメどころか、マンガやドラマすら見たことがないんじゃないかだろうか。話を続けたところでつまらなさそうだから、そこでやめた。
次の目的地を目指して、携帯を片手に歩く。もう時間はお昼過ぎ。朝から歩き回って、いい加減にお腹が空いてきた。
「こっちかな」と、携帯の地図とにらめっこをしながら歩く。
「どこを目指してるんだ?」
「保奈美がおいしそうなランチのある店を探してくれたんだけど……」
立ち止まって辺りを見回す。自分が今、どこに立っているのか分からなかった。つくづく、自分の方向感覚のなさに悲しくなる。
「貸してみ」
高垣は私の右手から携帯を奪うと、少し考えるそぶりを見せた後、迷いなく歩き始めた。結局、また私は高垣の後をついて歩くだけだ。高垣は、初めて歩くであろう東京の街にも迷うことなく進んでいく。しばらく歩いて、探した名前の看板が目に入った。
そして、同時に絶句した。
「……着いたわけだが」
「……うん」
店の入り口から伸びる列がすごい。そして、そのほとんどが女子のグループかカップルだ。こんなところに高垣と二人で並ぶなんて、新手の拷問に違いない。「これは……無理」迷う間も無く、回れ右をして背を向けた。
結局、その店は諦めた私たちは、近くの空いていたレストランに入った。適当に入った店だったけど、地元のファミレスなんかよりもよっぽどおしゃれで、打ちのめされた気分だった。
料理を待つ間、保奈美にメールを送った。『今日は具合が悪かったの?』高垣が面白くもない話をするのを適当に聞き流しながら、私は保奈美の返事を待つ。
頼んだ料理が届けられても、それを食べ終わる頃になっても、保奈美からの返事はなかった。
お昼を食べた後は、高垣の希望の通りスカイツリーに行った。建物の入り口の辺りで、首が痛くなるくらいに見上げてから中に入る。案内に従って館内を歩き、やがて、エントランスのような空間に掲示された案内を見て絶句する。
「うそっ。展望台登るのってお金かかるの⁉」
「知らなかったのかよ。登る高さによって値段が変わるみたいだけど、どうする?」
「……どっちも無理かも」
往復の新幹線代で、ずいぶんの軽くなってしまったお財布のことを思い出す。あれだけ頑張って貯めたお金も、東京を満喫するには足りなかった。高垣が行きたがっていたから寄ることにしただけだったけど、東京を一望するのは密かに楽しみにしていただけに、ショックだった。
展望台に登ることは諦めた私たちは、お金を払わずに回れる低い階のショッピング施設を歩き回った。景色は楽しめなかったけど、それでもいろいろな珍しいお店を回れただけで十分楽しめた。もちろん、お金がないから欲しいものがあっても買えなかったのだけど。
そんな時間を過ごすうち、高垣と二人で歩くというおかしな状況への違和感も、気づけばずいぶんと少なくなっていた。相変わらず話は面白くないけれど、今日の始めの頃のような嫌悪感はなくなっていた。
私たちが事前に行こうと決めていたのはそこまでで、残りの余った時間は、適当に気になったところを回って潰すつもりだった。だけど、高垣と東京の街を回りながら、私にはもう一つ行っておきたい場所があることに気づいた。
スカイツリーを出た頃、だんだんと帰りの時間が近づいていたが、まだもうしばらくは余裕はあった。長居はできなくても、見に行くくらいならできそうだった。
私がそれを話すと、高垣は何の不満もなさそうな顔でうなずいた。
「ごめん、付き合わせちゃって」洋風な外観のまだ真新しい印象の校舎を眺めて、私は言った。
私が行っておきたいと思ったのは、私が目指すべき場所――私立堀岡高校だ。都心のど真ん中からは少し外れたところにあるその高校の正門前に、私は高垣と立っている。新宿や池袋と違って近くに大きなビルはないけれど、駅前の方は活気があって、やっぱり私たちの地元とは違っていた。それに、正門から校舎の外観、グラウンドの設備まで、そのどれもが新しい印象を受けて、それだけでいい学校なのが伝わってくる。
「いいって。俺はそこまで東京でやりたいことがあったわけじゃないし」
「うん。でもありがと」
土曜だから、学生の姿は少なかった。それでも、大きなグラウンドに目を向けると、さまざまな運動部が活気のある声をあげながら練習に励んでいる。一人ひとりの顔までは見えないけど、なんだかすごく眩しかった。地元の高校じゃ、こんな光景は絶対に見られない。
中学と高校とじゃ比べられないかもしれないけど、私たちの通うカモ西とこの堀岡高校とが、同じ学校という言葉でくくれてしまう事実に罪悪感を覚えてしまう。
「さすが東京の私立って感じだな。地元の高校なんかとは、比べ物にならないな」
高垣はグラウンドに目を向けながら言った。こんなやつでも、やっぱり東京の高校に惹かれたりするのだろうか。
「ね。なんだかすごく、遠い感じがする」
あと一年と数ヶ月も経てば私は高校生になるし、電車と新幹線を乗り継げば二時間と少しで東京に行ける。それなのに、グラウンドで生き生きと駆け回る彼らは、すごく遠い世界の人みたいに見えた。
まるで、ドラマとかアニメとかに出てくる登場人物みたいだ。私は、敷地を囲うネット越しにそれを見る。
ふと、寮はどこにあるんだろう、と思った。そこに行けば、私の憧れはもっと強くなる確信があった。
寮の外観を見たい。周りにはどんなお店があるのかを知りたい。そして、そこに住んでいる学生たちの表情を、声を、知りたいと思った。
「きっと、すごく楽しいんだろうな。私たちなんかじゃ、想像もつかないくらいに」
「……ああ」高垣がポツリと言った。
「学校の終わりには買い物に行ったり、土日は自由に東京中を遊び回ったりしてるんだろうな」
実際に東京という街で暮らすことなんて、まるで想像がつかない。どんな場所で遊んで、どんなご飯を食べて、どんな会話をするんだろう。想像がつかないけれど、それがすでに羨ましかった。
「あ」と、思わず声をあげた。一人の女子生徒が、正門を出て私たちの前を通り過ぎて行った。彼女の髪はわずかに明るい。スカートは膝の上で、カバンにはワンポイントのキーホルダー。地元の高校生とは違う。さりげなくて、でもそれがオシャレだった。
そして、彼女が身にまとっているその制服自体も特別だった。マンガに出てくるような、明るい色のブレザーに、チェックのプリーツスカート。ホームページの写真では何度も見たけど、実物の制服は想像していたよりずっと可愛い。
寮を見たいという気持ちは、不思議と収まっていた。なんだかもう、お腹がいっぱいだった。ここから先は、実際に私がこの高校に入った後にとっておこう。
やっぱり私は、ここに行きたい。
「行こっか」
「もういいのか?」
「うん。もう十分だから」
私がそう言うと、高垣はこれ以上深掘りをしようとはせず、「そっか」とだけ言ってから黙った。
この高校の前に立っていた時間は、たぶん五分程度に過ぎない。だけど、今の私にはそれだけで十分だった。少しだけ距離のある最寄りの駅まで歩き出す。冬にさしかかろうとするこの時期は、日が沈むのが本当に早い。もういよいよ、太陽がその姿を隠そうとしていた。
この一日、高垣と二人で東京の街を歩いて、全然会話がなかったわけじゃない。今ではもう、保奈美が来られないと分かった時の憂鬱もなくなっていたし、必要以上に高垣へ冷たく当たることも減っていたと思う。それでも、再び東京駅へ向かう電車の中、私たちは一言も言葉を交わすことはなかった。
行きに乗った最初の電車の中も、私たちは無言だった。だけど、同じ沈黙でも、まるで違う感覚だった。
もう東京駅では迷わなかった。私は相変わらず右も左も分からなかったけど、東京の駅に慣れてきた高垣が案内をしてくれた。私は何も分かっていないのに、一回歩いただけで道を覚えてしまった高垣に、密かに感心をしていた。もちろん、そんなことは口が裂けても言わないけど。
高垣の案内のおかげか、新幹線の乗り場までは時間よりも早く着いた。近くにちょうどいいベンチも見当たらなくて、駅構内の喫茶店に入り一息をつく。カウンタータイプの席に、二人で並んで座った。
私の前には、砂糖のたっぷり入ったカフェモカと、高垣の前には、余計なものが入っていない真っ黒なコーヒーが置かれている。飲み物一つをとってみても、気取っている。
高垣は真っ黒なコーヒーをちびっと飲んでから、つぶやくように言った。
「なんか、変な一日だったな」
こいつに同意するのはシャクだけど、まったくその通りだと思った。
「ね、本当にね」
保奈美も含め、三人で東京に行くこと自体ありえないことのはずだったのに、蓋を開けてみれば、高垣と二人だ。しかも、しっかり東京観光までするおまけ付き。これが不思議でなければなんなんだ。
ふと、気になって私は訊いてみた。
「高垣はさ。なんで私と一緒に観光しようだなんて思ったの? 普通、自分を嫌っている相手と一緒にいるくらいなら、一人の方がいいって思うと思うんだけど」
また一口、高垣はコーヒーを飲んだ。
「そりゃあ俺だって、一旦別れてから、後で落ち合う方がいいかなとか考えたし、誘うのはすごく勇気がいったよ」
「じゃあ、なんで――」
「単純に、俺が遠藤と歩きたかったから」
思わず、言葉に詰まった。一拍遅れて、「なにそれ」と返す。高垣は、自分が何を言っているのか、分かっているのだろうか。
「遠藤は気づいてないかもしれないけどさ、俺、遠藤のこと尊敬してるんだ」
今度こそ、私は完全に言葉を失った。この男に突然こんなことを言われて、いったいなんと返せばいいのだろう。戸惑う私に、高垣はさらに続けた。
「俺は、遠藤みたいにはなれないから」
「どういう意味?」
「そのまんまの意味だよ。さっき、じっと高校を眺めてる遠藤を見て思ったんだ。俺には絶対、そんな真っ直ぐな目はできない」
『私は、遠藤さんみたいになりたかった』
つい昨日、舞花から言われた言葉を思い出した。どうしてみんな、そんな風なことを言うんだ。
「東京の学校に行くの、諦めるなよ」手元のコーヒーを見つめて、高垣が言った。
「なんなの、突然」
「なんとなく、言っておきたかった」
「言われなくても、諦めるつもりないから。誰かに言われて始めたり、誰かに言われて諦めることをやめたり、そんなこと、私は絶対しないから」
「そうだな。それでこそ遠藤だな」
「あんたは、他人に言われたくらいで諦めたりするの?」
「……諦めるしかないことだって、多分あるんだよ」
高垣は、私の視線から逃げるように目を逸らした。影になって見づらいけど、たぶん薄く笑っていた。
その言い方と表情にイラっときた。なんでそんな簡単に諦められる? どうでもよくなれる? 怒りに身を任せて木を蹴っていた高垣は、本当は私と同じで、その胸の中はぐちゃぐちゃになっているはずだ。だから、高垣にだってあの穴が見えるんじゃないの?
それなのに、こんなにも簡単に諦めた風な顔をする高垣が、どうしても許せなかった。
嫌味の一つでもぶつけてやろうかと思った時、
「怖いんだよ」
と、高垣は微かな声でつぶやいた。
「お前は要らないって、親や周りから見放されるのが。そう思われなくないから、俺は周りが望む俺でいなくちゃいけないんだ。うちの電気屋、今の父親でもう三代目なんだぜ? 父親は、目を細めて先代や先々代の話なんかするんだから、それを俺が壊せるわけないだろう」
訴えかけるように語られるその言葉は、私の胸の中にまでは届いてこなかった。それは、高垣が自分自身に言い聞かせているみたいに聞こえた。
どんなに大層な理由を並べたって、自分は他人にはなれないし、その逆だって同じはずだ。
「別にどうでもいいじゃん。家族だろうと、結局は他人でしょ? その人の人生に責任を持つ必要なんてないし、自分の人生は自分だけのものだよ」
高垣はハッとした顔で、私の顔を見た。家族だって結局は他人なのだと、そう言い切った私に驚いているのだと思った。
「……」高垣は黙って、またうつむいた。
この一日一緒に東京を歩いて忘れかけていた怒りが、またよみがえってきた。可笑しいくらい、こいつとは合わない。理解ができなくて、もどかしい。
自分の人生なのに、どうしてそんな風に割り切れてしまうんだろう。ムカついて、ムカついたけど、今ここでこいつにぶつけるべき言葉が見つからない。
高垣もそれきり黙ってしまって、私たちの間には沈黙が流れた。コーヒーをすする音と、カップがテーブルに置かれる音が響く。周りの席から聞こえて来る話し声が、やけにうるさい。今日の思い出なんかを語るその声が、嫌味みたいだ。
そのまま時間が過ぎていき、やがて携帯を見て高垣が言った。
「そろそろ行かないとだな」
荷物を持って席を立つ。帰りの新幹線も、また三人横並びの席に、行きと同じように離れて座った。当然、私が窓側で、高垣が通路側だ。時間を潰すことを考える必要すらなく、私はすぐに眠りに落ちた。
新幹線を降りて、最寄り駅まで電車に揺られる。その改札を出た先で、「また学校で」と、別れの言葉を交わすまで、私たちは黙ったままだった。
もうどっと疲れた。ベッドの上に身体を投げ出すと、一日の疲労が一気に溢れてきて、今すぐにでも眠りに落ちてしまいそうになる。けど、眠る前にまだやらなきゃいけないことがある。携帯の画面を開いてみたが、やはり保奈美からの返信は来ていない。
私は、保奈美の携帯へ電話をかけた。メールにも返事がない状態で電話に出てくれるのか分からないけど、出てくれるのを信じて繰り返される発信音を聞いた。
四度目の繰り返しの時だった。電話のつながる音がした。
「保奈美!?」思わず、勢いに任せて名前を呼んでいた。
『さとちゃん』対照に、返ってきたのは重みのある、静かな声だった。
「今日、どうしたの? メールも全然返事なかったし」
『ごめん。ちょっと体調崩しちゃってて……迷惑かけたよね』
具合が悪いからだろうか。保奈美の声にはまるで力がない。体調が悪いから、という理由だけでは片付けられない弱々しさが、そこにはある気がした。
「ううん、具合が悪かったならしょうがないよ。こっちの方こそ、ごめん。保奈美の状況も知らずに遊んじゃってた」
『そんなの気にしなくていいよ。ちゃんと東京は楽しめた?』
「……うん。不安だったけど、それなりには」
携帯の向こうからは、また弱々しい声で『そっか』と言うのが聞こえた。あいづち一つ打つのも、辛そうだった。今はあまり話させない方がいいかもしれない。
「ねえ。明日、家行っていい?」
私の問いに、保奈美はすぐには答えなかった。顔は見えないけど、悩んでいるのが伝わってくる。待っていると、やがて『うん』とだけ保奈美は答えた。
「ありがと。行く前にまたメールするね」
『うん、分かった』
「じゃあ、早く寝た方がいいだろうから、また明日ね」
『また明日』
「おやすみ」
『おやすみ』
電話を切る。途端、一気に緊張が解けた。弱々しかったけど、保奈美の声が聞けただけでずいぶんと不安が軽くなっていた。
もちろん、あれだけ元気が無いのは心配だし、安心はできない。けど、とにかく今は眠りたかった。瞼が重く、のしかかってくる。
知らない場所に行くというのは、楽しいけど疲れる。今日はいろいろなことがあったし、気疲れだってした。私はそのまま明日の目覚ましもセットせずに、電気を消して眠りに落ちた。