1-13-4-19 masquerade 手間のかかる妹
「沙羅!ストーップッ!」
少し手前で警備員の隙間からファンの子達が通路に零れ出て、更に後ろの圧力に負けて此方の方向に押し出された。
それを見た沙羅が臨戦態勢になるのと、私が彼女を後ろから抱きしめて止めたのは、ほぼ同時だったと思う。
彼女を抱きかかえた姿を見た、ファンの子達の悲鳴が響き渡る。誰?!あの女?!とかなんとか、妙に殺気が漂うのは気のせいに違いない。でも沙羅を知らないということは、押し出されて至近距離にいる子達の様な昔からのファンではなくて御新規さんかとか、妙に冷静に考えていた。
「沙羅さんが恋人という噂は本当だったんですか?!」
「沙羅って呼び捨てにしてたのは、やっぱりそういう事?!」
そこの後列の子達!違うから!この混乱状態に火に油を注ぐんじゃない。私はこの野獣を抑えるので手一杯なんだ。うん、顔が引き攣っている最前列の子達は状況を把握しているみたいで安心したよ。
騒然とした群衆の中で、私の腕の中から抜け出そうと緩く藻掻く彼女と、逃がさない様に抱きかかえる私の姿は、バックハグでもしている仲の良い恋人同士にでも見えるのだろうか。
言っておくが、私にそんな余裕はない。理解してもらえるか分からないが、今の私は君達の命の恩人なんだ。私のこの手は、殺気も無しに殺戮マシーンになりそうな彼女を抑えこむのに必死なんだ。
ところで沙羅、貴方は何をしているのですか?正気ですか?みたいな目で此方を振り返りつつ見上げるな。誰のせいだ、誰の。何だろう見上げられているのに、上から見下ろされているような圧迫感を覚えるのは気のせいだろうか?
彼に後ろから抱き着かれて、死ぬほど驚いた。家の中ではなく屋外で、それも公衆の面前で私に抱き着いた彼に驚いた。貴方、何をやっているのですか?正気ですか?と驚いた。
そしてもうひとつ驚いた。私が抵抗なく彼に抱きしめられてしまったこと。恐らく彼に対する警戒感がゼロだからとは思うし、何時も抱きしめられているから違和感を覚えていなかったのもある。
そして屋外で抱きしめられているのが正直言って少し嬉しい。じゃなくて!そうじゃなくて!駄目でしょう!貴方正気?!何をやってるの!此処屋外だよ?!
「話しを聞いて欲しい」
絶妙のタイミングなのか、悪魔の悪戯なのか、どんなに騒(沢)がしい場所でも、何かのタイミングで喧噪が消え、小声でもクリアに聞える時がある。
離して欲しいという彼女に対して、離さない、先ずは私の話しを良く聞くんだ。そんな喧騒に負けないために少し大きな声で行っていた私達のやり取りが、周囲に響き渡ってしまったのもそれが原因だろう。
衝撃的だと思った話しを聞くのを途中で止める事は難しい。できれば続きを聞きたいを思うのが人の常だ。この場所の状況がまさにその通りだと思う。
固唾を飲むという言葉がある。周囲の群衆が、私達の会話を一言一句聞き逃すまいと耳をそばだているのが分かる。
その状況下で私が取れる選択肢はひとつしかない。周囲に聞かれているから話をしないという選択肢はない。話をして説得しなければ、この猛獣を抑える事は不可能だからだ。
沙羅聞きたいことがある。君は彼女達に何をしようとしたのだろうか?どうみても此方に押し出され、雪崩れ込んできたファンの子達に肘打ちしようとしたよね?
「うん、沙羅。少し気を落ち着かせようか」
制止したにも関わらず、此方に向かって来る者は排除対象です。多数を短時間で排除しなければなりません。一人当たりの時間を短縮するために、一撃での制圧を繰り返したと思いますじゃないからね。
やぁ、最前列の子達。君達の顔が引き攣っているけど、その気持ちはよく分かる。尤も私の場合は、少しだけ眩暈を覚えているけど。安心して欲しい。君達は私の身に代えても守る。守れるかな?うん、多分守れる筈だ。
ところで沙羅、ひとつ簡単な頼みがあるんだ。こんな愚問を聞いてくるとは?みたいな呆れた目で此方を見上げるのを止めてもらえないだろうか。
気を取り直して、一撃で倒すのは駄目だと彼女に言うと、なぶる様に倒すのが趣味なのですか?!貴方は鬼畜か?!と言われた。何故どうしてそんな想像をする?最前列のファンの子達が涙目になっているだろうが。そうではなくて、一撃で倒すのではなく、優しく押し留めようと言っているだけだ。分かるか沙羅?
「ところで、撮影されていますが?」
私を後ろから抱きしめている貴方のせいで、私が撮影されていますみたいに言うな。そもそも君のせいだ。君を抱きしめている理由は簡単だ。君という猛獣を与に解き放つ訳にはいかないのだよ沙羅。後、撮影されているのは君単独じゃなくて私達だ。え?!何で私が猛獣?!みたいな目で見あげるな。
身を捩り、振り返りながら俺を見上げている君は全く分っていない。君もそうだけど、最前列の子達を除き、殆どの子達は状況を理解していない。
特に後列の御新規さん達は、状況をひと欠片も理解していない。いや済まない、私の誤解の様だ。君達は、状況の理解よりも自分達の感情を優先するみたいだね。
だが最も理解して欲しい君が、私がファンの子達の面前で警護の君を後ろから抱きしめている理由を全く分かっていない。
私はこの場の救世主なのだ。やめろ、痛い子を見る目でこっちを見るな。先程も聞いたけれど、私が止めなかったら、此方に押し出されてきたファンの子達を一撃で倒してたろう?警護だから当然でしょみたいな雰囲気を出してるんじゃない。
ファンの子達を一撃で倒したら、福山マネージャが倒れるぞ?牡蠣フライ弁当を買って来てくれる人が居なくなるぞ?氷下魚を冷蔵庫に備蓄してくれる人が居なくなるぞ?それは嫌だろう?よーし、よし、よし、大人しくしような、沙羅。
ところで、この状況をどうすれば良いんだろうか。ファンの子達はおろか報道陣まで混じってバシバシ撮影されているじゃないか。
そりゃそうだよ。ファンの子達の面前で、警護の女性、それも沙羅を後ろから抱きしめ続けていれば、撮影される。芸能リポーターは大喜びだろうな。福山マネージャは確実に倒れる、下手すれば血を吐いて倒れる。社長は……大喜びだろうな。馬鹿だからな。
だから、私の腕の中で無言で不思議そうに見上げない!誰のせいだ、誰の!ファンの子達のもさ、最前列の子達は頷いてくれているので分っていると思うけど、私は君達の救世主なんだよ?頼むよ、褒めろよ!
「後ろに下がってください!下がって!」
沙羅さんは大柄ではない、どちらかと言えば小柄で華奢に分類される。最近の彼女は、抱きしめ事件の後にでも彼に諭されたからだろう、得意の体術を封印して護衛の任を全うしようと四苦八苦している。少し気の毒に思える程に苦労している。
化物騒動を切っ掛けに彼と彼女を知り、彼のファンになったばかりの子達は暗黙の了解やら遠慮と言う言葉を知らない。加えて、露出の多い芸能人に絡んだ配信で一山当てるのを狙っている配信者まで混じり、集団としての制御が効いてない。
今の彼女しか知らない彼等に、彼女を本気にさせる様な事をしてはいけないと忠告しても無視される。彼等にとって、彼女は、何も出来ない護衛モドキであり、彼の傍に居る邪魔者でしかない。
彼等は彼女を怖いとは思っていない。以前、彼に無理矢理抱き着こうとした迷惑行為で有名な動画配信者が、割って入った彼女に流れる様な動作で地面に押し付けられ制圧された。そんな事が化物騒動の前にあったと動画を見せて忠告しても、芸能人にありがちなヤラセだとしか思っていない。
だから遠慮会釈なく彼女を押し退けようとする。けれど、彼女が彼の前から退く訳がない。その結果、彼等に押し負けて彼女は後ろに下がり、彼が彼女の両肩を支えながら自分の胸で受け止めている。
心配そうな表情で後ろから覗き込みながら、抱き留めた彼女に話しかけている。自分が彼女の立場であれば誠に嬉しい姿勢ではなくて、非常に宜しくない姿勢になっている。その姿を見て押しかけてきた彼等は更に興奮して、現場はカオス。
うん、ふたりの関係について在る事、無い事、憶測だらけのコメント付きで芸能ニュースが放送されるのは確実。そして、今夜のファンサイトもこの現場と同じく大荒れ確定。
ファンサイトで沙羅さんは、愛憎入り乱れた評価を受けている。憎というか嫉妬というか、彼女が彼の恋人ではないかと疑う私達にとって、彼女は要注意人物。所属事務所は、恋人疑惑を否定している。曰く、彼と彼女は仲の良い兄妹の様な友人であって恋人ではないと発表されている。
彼と彼女の行動がその説明を裏付けているという人達も多い。例えば彼女は優しい人なのだけれど、偶に奇行に走る。そして、その奇行に彼を良く巻き込む。巻き込まれた彼は怒るでもなく、苦笑いしつつ彼女を手伝う。
そんな彼女が引き起こす行動と、それに対する彼の行動は、大事で、手のかかる、心配でたまらない妹を世話している兄のように見える。だから、最近ファンになった子達は事務所の説明を信じようとする子が多いのは分るし、理解も出来る。
でも、古手のファンの私達は、そこまで初心じゃない。出来れば仲の良い兄と妹の様な関係であって欲しいとは思う。嘘つけ、普通を越えてあそこまで仲の良い兄と妹、恋する目で兄を見る妹なんてドラマや映画の中だけ。そんなの、現実に居て堪るかと思う。
でも、仮にそうであったとしても、彼もいい年だから恋人の一人や二人居ても不思議はない。大人の余裕というか、諦観というか、単なる強がりというか、少し複雑な鷹揚な気持ちで彼と彼女の関係を見つめている。
奇行と言えば、オープンデッキに隣接する部屋にキッチンが作られる理由となったのは、彼と沙羅さんが起こした事が原因。
土曜日の夕方、アイドルグループがライブ配信中のオープンデッキに、炊飯器やら何やらを両手に抱えた彼を従え、キャンプ用のコンロを抱えた彼女が現れた。
アイドルグループ達の挨拶に応えながら彼等の横で準備を始めた彼女は、さもそれが当たり前の様に干物を炙りだし、汁物を作り、ご飯を炊きだした。
元々はオープンデッキで何をすればよいか思いつかず、追い詰めらられた彼女が七輪で干物を炙るだけの予定だった。それを彼が、どうせやるなら食事を作ろうと言い出した結果らしい。この彼にあの彼女在りと言うべきなのか、何と言うべきなのか、もう分からない。
何故、肉ではなく魚、それも干物なのか、狙った行動か、偶然の産物だったのか等と未だに議論が尽きないが、現場の人間には、それは些細な問題でしかない。
小腹が空き始める夕方に、干物が炙られる匂い、ご飯が炊ける匂い、お味噌汁の匂いに耐えられる自制心の塊のような人間。そんな人は滅多に居ない。配信中のアイドルグループの娘達が耐えられる訳がない。
配信用カメラの横から漂ってくる匂いが気になり、何度も余所見をする。ひとりの娘に至っては、配信用カメラすら見ていない。画面の隅に椅子をずらし横に向け、その上に正座して沙羅さんの方をガン見している。
グダグダになっている配信中の彼女達に、沙羅さんは彼女達を手招きすると、何処から持って来たのかお茶碗にご飯をよそい、お皿に炙り終わった氷下魚と香の物、お味噌汁もつけて彼女達にあげていた。
彼女達のライブ配信は、一瞬誰も映らない放送事故の様になった後、お食事風景の配信に変わってしまった。けれど、幸せそうに食べる姿が好評だったと聞く。
この動画を見た時、私は彼と彼女の関係は事務所が言う様な仲の良い友人とか、仲の良い兄と妹の関係ではなくて、友人以上、恋人未満の男女の関係に見えた。
沼に落ちてしまったファンだからこそ分かる表情の違いというのがある。確かに彼等の仲の良い友人と言う雰囲気の姿は何度も見ていた。
けれど、化物事件の後、暫く姿を見せていなかった沙羅さんが戻って来てから、それが変わった様に思える。
何でもない彼女の姿を、愛おしいものを見る瞳で彼が見ている時がある。見られていた事に気付いた彼女が、少し照れた様に彼に微笑み返す時がある。
物をやりとりする何気ない時や、ちょっとした合図の時に、互いに恋人同士の様に優しく触れ合っている時がある。
正直に言えば、私達ファンより後からやってきた彼女が、彼と仲良くする姿を見るのは腹立たしい。悔しいし、嫉妬に近い感情を覚える。でもふと、本当に恋人同士だったとしたら、彼と彼女はお似合いだなとも思う。
時たま沙羅さんの事を守護神と言っている書き込みを見る事がある。護衛の時は努めて無表情を保っている彼女。倒れた兵士を庇いながら、化物に猛然と銃を撃ち立ち向かう化物騒動の時の彼女。その姿で初めて彼女を知った人達は、その絶対的な暴力で倒れた仲間を必死に守る姿から、彼女が守護神とファンサイトで言われているのだと思い込む。
でも、それは違う。私達が彼女を守護神というのは別の理由から。彼もそうだけれど、彼女も私達ファンに優しい。気づけば彼女の背に庇われて守られている。
ある日、小雪が舞う夕方、もう少しで出て来るからと、寒さに震えながら身を寄せ合う様に会社の外で持っていると、彼女にビルの中、事務所のロビーへと追い立てられた。後で聞いたけれど、彼女が会社と話しを付けて、私達がロビーに入れる様にしてくれたらしい。あの日のロビーは、本当に暖かった。
化物騒動の沙羅さんや、少し前の狂暴な護衛の彼女の姿だけを見れば、彼女は恐ろしい人に見える。化物騒動の後の彼女の姿を見れば、彼女は役立たずのポンコツ護衛にしか見えない。でも、彼の傍に彼女が現れたときから見ている私に言わせれば、彼女は怖い人ではなく、ちょっと不器用で、でも実は優しい人だと思う。




