第1話 オタクは突然の召喚に動じない。
十二月の東京は、毎年決まって熱狂という名の狂気に包まれる。
景色の寒さとは裏腹に、うだるような熱気と巨大な人の波に襲われる。
大量の同人誌を大切そうに抱えた男や、アスファルトを鳴らして巨大なキャリーケースを引く女、首から高価なカメラをぶら下げた集団。
年齢も性別もバラバラな彼らが、みな一様に同じ方向を目指して歩を進めている。
言うまでもなく、目的地はただ一つだ。
「真冬じゃねぇな……」
首に巻いていたタオルで額に滲んだ汗を乱暴に拭いながら、抗うことなく人波に身を任せた。
オレ——速水駆も年末の戦士の一人だ。
着慣れたグレイのパーカーは、汗を吸って重い。
外に立ち帰れば、たちまち体温を奪う狂気と化すだろう。
隣を歩くのは、漆黒のパーカーを着た、オレより少し背の低い男。
コイツの名前は村田雄大。
スマートフォンの画面から目を離さないまま、真剣な面持ちでリストを確認していた。
因みに雄大とは、中学からの友人だ。
社会人になっても、この縁が切れることはなかった。
「優先順位、もう決めたのか?」
「当然だよ。開場と同時に三館へ直行する。僕の推しサークルは絶対に売り切れるからね」
「お前の推しサークル、毎年完売してるじゃないか」
「だからこそ、全力で走るんだよ!」
頼もしいのか残念なのか判断に迷う返答だった。
だが、雄大の横顔からは、戦場へ赴く兵士の覚悟が窺えた。
やがて、巨大な展示会場の全貌が見えてくる。
毎年のように通っているのに、この光景にはいつまで経っても慣れることがない。
人、人、人。
抜けるような空の青さと、人々の熱気、そしてどこかから聞こえてくるコスプレイヤーたちへのシャッター音。
これが冬コミケという祭りだった。
「左手が疼く……」
「それ、会社でもやってないだろうな」
「見えないところでやってる。本当に疼くんだよ」
「そりゃ、ご愁傷様だな」
入り口のアーチ型ゲートに差し掛かったとき、ふと足が止まった。
巨大なゲートが、あり得ないほど白く眩しい光を放っていたのだ。
全体が淡く発光し、周囲の空間すらも歪ませているように見える。
「ご愁傷様って、どういう……」
「お。今年の演出、随分と気合入っているぞ」
スマホから顔を上げた雄大が、感心したように声を上げた。
周囲を歩く人たちも同じような反応を示している。
イルミネーションでも見るように、スマートフォンを向ける者もいたが、立ち止まる者は少ない。
コミケという巨大生物の歩みは、ちょっとやそっとの出来事では止まらないのだ。
オレも特に考えることなく、流れに身を任せるまま光の中へと足を踏み入れた。
光り輝く半円の中に飛び込んだ。
——キュワワワワワワワ——
それは一秒にも満たない、刹那の瞬間。
暴力的なまでの眩しさが視界のすべてを真っ白に塗り潰した。
でも、在り得ないこともない。
過剰なまでの演出。今年のコミケは凄い、そう思った。
「え?」
踏み出した足の裏から伝わってくる感触が、明らかに変わっていた。
硬く平坦なコンクリートのはずが、何か違う。靴底が叫んでいる。
ごつごつとした古い石畳へと変化している、と。
俺は思わず目線を上げた。
そこには見上げるほど高い天井があり、壁に掛けられたたいまつの炎が目に入った。
炎が、ゆらゆらと不気味な影を作る。
空調の効いた涼しさかもしれないし、過度な演出かもしれない。
湿気を帯びた古い石壁を用意するなんて——
「……あれ?」
慌てて振り返るが、あるはずの喧騒は嘘のように消え去っていた。
代わりに視界に飛び込んできたのは、深くフードを被った人間たち。
合わせて十人以上が、左右に整列している異様な光景だった。
全員が深く頭を下げており、表情を窺い知ることはできない。
「おや……」
雄大も声を漏らした。
その奥、玉座へと続くような赤い絨毯の先に人影があった。
真っ白な髪と髭を蓄えた、外国のお爺ちゃん。
海外から、外国の方もコスプレに来る。
在り得なくはない……かもしれない。
「えっ、なにここ」
「どうなってんの……扉どこ?」
だが、やっぱりおかしい。
しかも、雄大だけじゃなかった。
オレが知らない人間たち——というより、彼ら彼女の装いで分かる。
コミケ会場にいたのだろう。
その数はオレも含めて、十二人。
豪奢なフリルが重なった漆黒のゴシックロリータ姿の少女。
彼女が困惑したように周囲を見回していた。
黒髪に青いメッシュ髪の女もいた。
彼女は、感情の読めない瞳で高く造られた天井を無言で見上げている。
誰もが突然の事態に理解が追いつかず、重苦しい沈黙が広間を支配しかけたその時だった。
「閃きましたぞ!」
耳慣れた高い声が静寂を破った。
全員の視線が一点に集中する。
雄大が、人差し指をピンと立てて目をキラキラと輝かせていた。
この状況で、そんなに高いテンションを維持できるのか理解に苦しむ。
「これ、いわゆる異世界召喚では?」
一拍の、重い沈黙。
「は?」
「異世界? 何言ってんのこの人」
また、一拍。だが、オタクは変わらない。
「異世界転生ではなく、異世界召喚では? という意味ですぞ」
他人のフリをしたくなる。
それほど堂々と、雄大は言った。




