春間近-I 布石
高校の職員室の前で、志野原愛美〔しのはら いつみ〕は立ち止まった。
春休み。新入生の代表を務めることになった彼女はまだ入学式前ではあったけれど、何度かこの学校を訪れている。
そのたびに、この職員室の前(あるいは、校長室の隣?)に飾られた絵の前で足を止めた。止めずには、いられなかった。
この絵の作者に、つい先日会ったのが大きな理由の一つである。が、その前からどんな人なのだろうと気にはなっていた。
影と光。
深く、とらわれる闇と恋い焦がれる眩い光の対比が内にある自らの姿と、重なって見えた。
「――三崎純也〔みさき じゅんや〕さん、姉ちゃんの彼氏。で、こっちが幼馴染の志野原愛美ね」
春日真〔かすが しん〕が家の玄関先で紹介してくれた男の人は、ふわりと微笑んで「はじめまして」と愛美に話しかけてくれた。
やわらかな黒髪に優しい瞳。そこにいるだけで和むような柔和な美形だった。
「うわあ、うわあ! はじめましてっ、真ちゃんにいつもくっついてます。今日はワガママ聞いてもらってすみませんでした」
深々と頭を下げて、謝る。
今日は、愛美が会いたいと言ったから唯子を迎えに来たところをわざわざ時間を空けてくれたのだ。
「真ちゃんの未来のお義兄さんに会えるなんて! 嬉しいですっ」
「げっ、バカ」
グッ、もごもご。
いきなり口を真に両手で塞がれて、愛美は驚く。
(な、なにか変なこと、言った?)
「純也さん、コイツの言うことあんまり気にしないでください。なぁんも、考えてないんですからっ」
「むごっ、むごー!!」
愛美が必死に塞がれた口で反論していると、目の前の上級の天使が(あー! なんかそんな感じっ)声を立てて笑った。
「真くん、いいよ。放してあげて? ふふ、可愛いね」
「純也さん! 甘やかすのはよくないっ」
「いやいや、僕も本気で考えてるし」
「え?」
呆然となった真に、純也は少し真剣になって口にする。
「君の、義理の兄になるにはどうしたらいいかな? とかをね、うん」
それって……と顔を見合わせていたら、玄関の扉が開いて家から春日唯子〔かすが ゆいこ〕が華やかに飛び出して来た。
「純也さん、おまたせ!」
フワッて羽があるみたいにステップを踏んで、ギュッと彼氏の腕に腕を絡める。
「なあに?」
漂う空気の違和感に首を傾げる その 仕草まで可愛い、と愛美は感動した。
もちろん、唯子は昔から「天使みたいに可愛い」と評判の少女ではあったけれど……純也と揃うと、もっと安定した穏やかな空気を纏う。
見惚れるほどに、幸せそうな天使だった。以前の天使は少女の上辺と危うさの前に成り立っていたのだと、気づくほど。
純也は真と愛美の二人にだけ気づくようにシッと人差し指を立てると、穏やかに微笑む口元に添えた。
「なんでもないよ、行く?」
「うんっ」
じゃあね、と唯子は真と愛美に手を振って、促されるまま彼氏についていった。
「びっくりした」
と、真がポツリと言って愛美は彼を見上げた。
「イヤ、なの?」
「んー? そうじゃないけど。フクザツ?」
口の端に笑みをのせて皮肉気に笑う真を、愛美はなんとなく平静では見れなかった。
「姉ちゃんのベタ惚れだと思ってたから、かな? そんなすぐ、純也さんが 考える と思わなかった」
「ふーん」
すぐ、じゃない。
と、愛美は心の中で繰り返した。
わたしは、ずっと思ってた。
あなたと一緒になりたい、って。
あなたの、一番になって……ほかの誰にも触らせたくないって。
馬鹿みたいに、わたしだけを、見て欲しいの。
本当は……本当はね? あなたの家族だって「いらない」って。
思っちゃうの。
愛美の中にある、ドス黒い この 欲望はたぶん消すことのできない自分の 本当の 気持ちだ。けれど、それを口に出してはいけない。先にある未来が 破滅 だと知っているから。
隠さなければ、ならない。
大切な存在を、失いたくないから。
どうすれば、失わずに……そばにいられるだろう?
それは、とても。
――とても、難しいのだと思う。
「不完全近隣系図」完結です。
高校生・大学生編や社会人編も考え中ですが、とりあえず「不完全」はここが最終場面となります。続編の連載開始時期は未定ですが、忘れられないうちに書きたいな! と思っています。需要があるのかは謎ですが。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
また別の話でもお会いできるよう頑張りますね。