第1話 常夜灯の下で
廊下の角を曲がると、三つ目の常夜灯が瞬いていた。
蓋を外す。魔石の座に薄く埃が溜まっている。指先に布を巻き、丁寧に拭ってから魔力を注ぎ直すと、淡い琥珀色の光が安定した。冷たい石壁にわたくしの影が伸びる。真夜中の廊下には足音ひとつなく、灯りの中を漂う埃だけが、静かに動いている。
四つ目。五つ目。西棟の端まで十二、東棟に回って十五。屋敷の常夜灯は全部で五十三ある。一つあたり三日で魔力が切れるから、毎晩十七か十八を巡回すれば全体が途切れない。その計算を組んだのも、灯りそのものを設計したのも、七年前のわたくしだった。
引っ越してきた初日、長い廊下が真っ暗なのが気になった。使用人が蝋燭を手に行き来する姿を見て、翌週には試作品を取りつけていた。火を使わないから安全で、魔力の消費も微量に抑えてある。使用人たちは「いつの間にか明るくなりましたね」と言い、やがて灯りの出所を気にする者は、誰もいなくなる。
それでいい。魔道具とはそういうものだ。正しく動いているかぎり、存在を意識されない。不具合が起きなければ、作った人間のことも。
東棟の最後の一つに魔力を満たし終えたとき、柱時計が二つ鳴った。深夜二時。指を鼻先に近づけると、爪の際に魔術油の匂いが残っている。金属と薬草を混ぜたような、乾いた匂い。嫌いではなかった。この匂いのするあいだは、自分が何者かわかる。
自室に戻り、作業着を脱いで寝台に入る。隣室にルートヴィヒの気配はない。最近は別棟の書斎で眠ることが多い。いつからそうなったか、正確には思い出せない。思い出す必要もないのかもしれなかった。
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朝の食卓は、いつも通り静かだった。
銀のカトラリーが皿に触れる小さな音。向かいに座るルートヴィヒは書類に目を落としたまま、フォークだけを機械的に動かしている。数字を追う目は鋭い。昨日も商会との価格交渉を三手先まで読んで抑え込んでいる。領主としての手腕を疑う者はいない。数字で測れるものは全て見える目だ。
バターを取ろうとして手を伸ばした。爪の際に、昨夜の魔術油が薄く残っている。三度洗ったが、七年の蓄積は石鹸では落ちきらない。指の腹も硬くなっている。魔石を素手で扱い続けた年月の痕だった。
ルートヴィヒの視線が、わたくしの指先で止まった。フォークが皿の上で止まる音がする。
「手袋をしろ」
短い。
「客が来ている。その黒ずんだ指を見せるな」
「……失礼いたしました」
手を膝に下ろした。テーブルの下で、指先を握り込む。紅茶のカップはすぐそこにあるが、もう手を伸ばす気にはなれなかった。
ルートヴィヒは既に書類に戻っている。わたくしの返事など聞いていたかどうかも怪しい。命じる。終わる。返事は形式で、内容は不要。七年、同じだった。
義母のカミラが食堂に入ってきた。わたくしの手袋を見て、微笑む。
「あら、今日はきちんとなさっているのね。あなたのためを思って申し上げるのですけれど」
それから小声で付け足す。「工房のあの部屋、もう少し明るくできないかしら。来客にお見せしたいの」。工房を潰したいのだと知っている。だがカミラは決して「潰す」とは言わない。頼みごとの形をした命令。断れば「あなたのために言ったのに」が返る。
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午後の来客は、北部のグレーフェンベルク伯爵。
魔石の取引に関する商談が一通り終わり、茶菓が運ばれた頃、伯爵がふとこちらを向いた。
「公爵夫人殿は魔道具にお詳しいと伺っておりますが。こちらの領地の結界は、夫人殿が設計を?」
「ええ、南方の結界は基礎設計からわたくしが——」
「妻は少々変わった趣味がありまして」
ルートヴィヒの声が、わたくしの言葉を断ち切った。穏やかな笑み。社交の場でだけ見せる、柔らかな声色。
「女のくせに工房に籠もりたがるのです。油の匂いをさせてね。困ったものですよ」
伯爵が笑った。控えていた侍従も口元を緩める。応接間に笑い声が広がる。
わたくしも微笑んだ。口角を上げる動作は、もう筋肉の記憶で足りる。テーブルの下で、スカートの布を握る。指先に、織り目の凹凸が食い込んだ。
先月、この伯爵との商談資料にわたくしの結界仕様書が添付されていた。品質証明として。ただし添え書きには「弊家の技師の設計」とあった。妻の名はどこにもない。技術は使う。だが「妻の仕事」とは認めない。
「ところで伯爵、南方の魔石鉱脈の件ですが——」
ルートヴィヒが話題を変えた。もうわたくしのことは視界に入っていない。結界の質問をした伯爵も、答えを聞かないまま商談に戻っていく。
窓の外で、庭師が薔薇の枝を剪定していた。切り落とされた枝が、石畳の上に音もなく落ちる。
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夕方、工房に戻った。
ここだけが、息のつける場所だった。
石造りの小部屋。壁一面に工具が整然と並び、作業台には魔石の削りかすが薄く散っている。西日が小窓から差し込み、金属粉を含んだ埃がゆっくりと舞う。油と金属と、魔石特有の乾いた甘い匂い。この部屋に入ると、手袋を外せる。指の黒ずみを隠す必要がない。
作業台の中央に、それはあった。
新型結界装置の試作品。領地の南方結界を三割強化し、魔力消費を半分に抑える設計だ。基礎理論の構築に八か月、構造計算に六か月。試作に入ってから、さらに十四か月。魔術回路の焼成が安定しなくて、三度やり直した。四度目に配合を変えた魔石粉を焼結材に混ぜたとき、ようやく理論値に近い数字が出た。
最後の微調整を終え、起動試験用の魔力を注ぐ。
装置が、静かに光った。
設計通りの出力。安定した魔術回路の脈動が、掌を通じて腕まで伝わる。正しく組まれた魔道具だけが持つ、澄んだ振動。心臓の鼓動より少しだけ遅いその波に、しばらく手を当てたまま目を閉じた。
二年と二か月。工房に足を運ばなかった夜はない。食卓で何を言われても、応接間で何を笑われても、この作業台の前に戻れば手は動いた。指先が知っている。考えるより先に、正しい場所に正しい線を引く感覚。
これを領地の結界に組み込めば、南方の魔獣被害は大きく減る。提案書は半年前に出したが、ルートヴィヒの引き出しに眠ったまま返事がない。でも、この試作品を見せれば。動いている実物を前にすれば、数字の意味も伝わるかもしれない。
窓の外が暗くなっていた。常夜灯の巡回の時間が近い。
試作品を棚の定位置に置き、布をかける。明日、ルートヴィヒに見せよう。
工房の灯りを落として、廊下に出た。常夜灯の光が足元を照らしている。これも、わたくしが作ったもの。
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翌朝。
工房の扉を開けた瞬間、足が止まった。
棚が、空だった。
布がない。台座の上の埃に、四角い跡だけが残っている。指で触れると、埃の境目がはっきりわかる。昨夜、ここに置いた。この手で、この布を、この角度で。
息を吸い込む前に、身体が動いていた。
廊下を早足で渡り、使用人のフリッツを見つける。
「棚の上の装置をご存じですか」
「ああ、あれですか。昨日の夕刻、旦那様のご指示で処分いたしました。工房の不用品を片づけよ、とのことでしたので」
不用品。
フリッツの顔を見た。悪意はない。命じられた仕事をした使用人の、事務的な表情。彼に怒りを向けても仕方がなかった。
書斎へ向かう。階段を上がるあいだ、手のひらに昨夜の振動がまだ残っていた。あの澄んだ脈動。二年と二か月分の。
ノックを二回。返事を待たず扉を開けた。
ルートヴィヒは執務机に向かっている。こちらを見て、軽く眉を上げた。不快の表情ではない。何か用か、という程度の、軽い。
「工房の試作品を処分されたと伺いました」
声は平坦だった。自分でも不思議なほど。
「ああ、あれか」
ルートヴィヒはペンを置かない。書き物を続けながら答える。
「あの部屋を応接間に改装する話は前にしただろう。不要な物は片づけさせた」
「あれは二年かけた結界装置の試作品です。不用品ではありません」
「たかが道具だろう。また作ればいい」
欠伸を噛み殺しながら、ペンを走らせ続ける。目は書類の上。
「それより、今夜の晩餐会の席次は確認したか。グレーフェンベルク伯爵がもう一日残ることになった」
たかが道具。
立ったまま、ルートヴィヒの横顔を見ていた。整った鼻梁。社交界では見目がいいと評判の顔。その口から「たかが」という音が出て、空気に溶けて、消えた。
二年。削った魔石の粉が目に入った夜。焼成に失敗して火傷した指。四度目の配合でようやく安定したときの、あの振動。全部が一語に押し潰される。
何かが胸の底で弾けた。彼の万年筆を取り上げて、その帳簿の上に叩きつけてやりたかった。あなたの品質証明に使った仕様書は誰が書いたのかと。
「……そうですか」
言えなかった。出てきたのはいつもの短い返事だけだった。
ルートヴィヒは顔を上げなかった。わたくしの返事に何が込められていたかなど、気にする理由もないのだろう。席次の話に返事がないことのほうが、よほど彼には問題だったかもしれない。
書斎を出た。
廊下の常夜灯が、淡く足元を照らしている。昨夜、わたくしが一つずつ灯した光。一昨日も。その前も。七年間、一日も欠かさず。
その夜、常夜灯の巡回には出なかった。
七年で、初めてのこと。
自室の寝台に腰を下ろし、枕元の設計図帳を取る。擦り切れた革表紙。ページの端に幾重にも重なった油染み。ルートヴィヒは「汚い帳面を食卓に置くな」と言った。カミラは見向きもしなかった。
最後のページを開く。白紙。
羽根ペンを取り、何かを書き込んだ。
常夜灯の灯りが、ペン先の上で小さく揺れている。明日も灯り続けるかは、もうわからなかった。




